エドワード・バクスチャーの失敗
公開 2023/09/24 12:24
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どこにもいない
「ん、んぅ……せん、せ……? ふぁ……っ」
合わせ過ぎた唇が腫れて痛い。舌はもう痺れて感覚が薄くなってるのに、熱さだけはしっかりと伝えてくるから困る。口の中はもうぐちゃぐちゃだ。飲み込む唾液がどっちのものか分からなくて、味わうことすらもう諦めた。
仕事から帰ってきた先生は、出迎えた俺の手首を掴んだまま2階の寝室に直行した。シャワーも浴びずにヤるのは珍しいなー、なんて考えてたらそのままベッドに投げ出されて、のしかかられて、食べられるみたいなキスをされる。ここまで無言。本当に珍しい。
若干の違和感を感じながらも先生の首に腕を回そうとしたら手首を掴まれてベッドに押し付けられた。
……なんで? 違和感が疑問に変わる。呼び掛けたくてもキスはどんどん深く長くなって、なんとか息継ぎの間に呼び掛けても返事も、反応すらない。なんで。
なんで、俺のこと、見てくれないの。
こんなに近くで、こんなに長い時間先生が触れてくれているのに何故だかちっとも嬉しくない。いつもなら呼んだら視線か、声で返事をしてくれるのに、今は先生は全然違うところを見てる。ああ、今この人は「誰でもいいから」手を掴んで「誰でもいいから」キスをしているんだと気付いてしまった。
……これは、誰だ? 先生じゃない。先生のカタチをして、先生の色を持ってて、先生の気配がしてるだけで、先生じゃない。俺が好きで好きで仕方ないバクスチャー先生じゃ、ない!!
「……っだ、やだ、やだ、やだぁぁぁ!!」
先生じゃない「誰か」に触れられてると思っただけで全身を恐怖が包み込む。叫びながら思い切り力を込めて腕を振り解いて、とにかく夢中で部屋を飛び出した。部屋を出る直前、誰かが名前を読んだ呼んだ気がしたけれどきっと気のせいだ。だってあそこには先生はいない。
足が震えて上手く走れないけれど、とにかく寝室から離れたかった。また名前を呼ばれた気がして恐怖に身が竦む。追いかけてくる足音を聞きながら、それこそ死に物狂いで浴室まで逃げ込む。
鍵をかけたドアが強く叩かれて、必死に両手で耳を塞いだ。
「山田さん!」
こわい。ドアの向こうの「コレ」は先生じゃない。先生の声だけど先生じゃない。
「山田さん、開けてください」
こわい。先生じゃない誰かに気付かないままで触れられたことが、押し倒されて、キスされたことが怖い。
「山田さん、聞こえていますか、山田さん。どうか返事をしてください」
こわい。先生が、俺のことを汚いから要らないっていうんじゃないかってことが怖い。先生が、どこにもいなくなっちゃったんじゃないかって気がして、こわい。
その事を想像しただけで世界が色を無くした。もうあなたは不要ですと言われることが何より怖くて、俺は先生の役に立てるように生きてきたのに。先生のこと見分けられない俺に何の価値があるんだろう。
……お前なんか要らないって言われる前に、消えたい。
見上げた先に、先生が使ってる剃刀があった。耳から手を離してももう何も聞こえてこない。手にしたそれは思っていたよりずしりと重くて、銀色の刃が照明を弾いて輝く。
「せんせい、どこいったの」
切り裂いた腕から血が流れても、何も感じなかった。
どこにもいかせない
腹が立っていた。取引の相手に「貴方の飼ってる仔犬は締まりが良さそうだ」などとあからさまな挑発をされて、いつものことだと笑顔であしらいながらもその日だけは妙に気になった。くだらないと思いながらも小さな棘が刺さったような気分だった。
だから屋敷に戻ったときの彼の笑顔ですら癪に触った。完全な八つ当たりだと理解しながらも寝室へ連れ込み、腕を拘束して、呼びかけも無視して蹂躙しようとした。今思えばこの仔犬は私のものだと再確認したかったのかもしれない。
『……っだ、やだ、やだ、やだぁぁぁ!!』
真下から上げられた悲鳴に一気に目が醒める。動揺して弛んだ拘束を振り解いて山田さんが部屋から飛び出していくのを認めて呆然とする。
「……山田さん?」
さっきまでの自分の行動を思い出して慌てて追いかけながら名前を呼んだが、彼は完全にパニックに陥っていた。声が届いていない。やがて浴室に立て籠ってしまった彼にひたすら呼び掛ける。
「山田さん!」
「山田さん、開けてください」
「山田さん、聞こえていますか、山田さん。どうか返事をしてください」
何の物音も聞こえないことに不安が募る。一時、過去のトラウマからパニック障害を頻繁に起こしていたときのことが嫌でも思い出された。中で過呼吸を起こしていやしないか、せめて声に反応してくれれば。無理やりにでもドアを開けるべきかと一瞬迷う。
「エディ? 大きな声が聞こえてきたから勝手に上がっちゃったけど、どうかした?」
「ジェイ」
金茶の髪を持つ男の登場に思わずほっと息を吐いた。来訪の連絡は受けていたがこちらの様子がおかしいことを察したのだろう。ドアにちらりと視線をやってから私の方に向き直る。
「どうした、そこは浴室だろう」
「……山田さんがこの中に閉じ籠ってまして」
「山田くん?」
ジェイもドアノブを握っても動かないことを確認して「山田くん? 僕だよ」と声をかけてもやはり何の反応もない。
「喧嘩でもしたの? 困った弟たちだ」
でも様子がおかしいし、申し訳ないけど開けさせてもらうよ、と断りを入れてからジェイはポケットから取り出したコインでドアノブの溝を回転させる。カチリという音が聞こえると同時に中で何かが倒れる音がする。
急いでドアを押し開ければ、開ききる前に鮮やかな赤が2つ目に飛び込んでくる。彼の着ていたシャツと、彼の腕から流れる大量の血。
「誠司!!」
「山田くん!?」
意識のない彼の傍に跪いて2人がかりで止血をする。声を掛け続けても反応はない。血の跡を辿ればいつも使っている剃刀が少し離れたところに落ちていて吐き気がした。
「誠司……目を覚ましなさい。聞こえていますか。どうか、誠司、目を覚まして」
「玄関に車を回してくる。山田くんの身体が冷えてるからタオルかバスローブで包んであげて」
「誠司、目を」
「しっかりしろ、エドワード!」
珍しく発された大声にハッとする。日頃ふざけてばかりのジェイの真面目な顔に少し冷静になって、無言で渡されたバスローブで彼を包んだ。
「とにかく急いで病院へ連れて行かないと。玄関まで1人で運べるかい?」
「……ええ、大丈夫です」
「わかった。頼むよ」
駆け足で出て行くジェイを気にせず、腕に巻いたタオルを未だ赤く染め続ける彼の身体を横抱きにした。少し冷えた身体と、肩に預けさせた頭の辺りに感じる僅かな呼吸だけが今の彼のすべて。
「……私の許可なく死んではダメだと言ったでしょう。絶対に、繋ぎ止めてみせます」
そうして血の気配を強く残す空間から、一歩踏み出した。
どこにもいけない
静かな病室に、静かな呼吸音。ベッドの上の青年はさっきまでとは違って温もりを取り戻し、血色がまだ少し悪いくらいで、腕にしっかり巻かれた包帯さえなければ普通に寝ているだけのように見える。
窓辺に立ったままの美しい男はひたすら彼のことを見つめていた。いつもなら逆なのになぁなんて考えて、ちょっと笑う。声を出していないのにそれに気付いたのか、ジロリと睨まれた。おぉ怖い。パイプ椅子がギシリと鳴る。
「……何が可笑しい」
「やだなぁ怖いよエディ。大したことじゃないよ。そんなに見つめて山田くんに穴が開くんじゃないかと思っただけさ」
「……適切な処置はしましたが、目が覚めるまでは油断できないでしょう」
ベッドに近付き、包帯の巻かれた腕にそっと触れてから手のひらに指を滑らせる。投げ出された手のひらと爪の形を確かめるような手つきに感じるのは、後悔の念だ。
「幸い神経を傷付けている様子はない。いくらかリハビリは必要だろうけど、前と同じように動くよ」
「傷が残るのでは?」
「切れ味のいい刃物だったお陰でそれほど派手には残らないってさ。現代医療のおかげでもあるけど」
「……ええ、本当に」
「で、僕は何があったのかをいい加減教えてもらえるのかな?」
立て肘に顎を乗せ、わざと上目遣いで問いかければ、大天使のように美しい顔が面白いくらいに歪められた。
というかこんなに色々協力してやったんだから、今回の経緯くらい聞いてもバチは当たらないだろうに。
「お前は項垂れて治療室には入らなかったから知らないだろうけど、処置してる間、山田くんは数十秒だけ目を覚ましたんだよ」
「……」
「でも僕に気付くと『先生がいない』とだけ言ってね、また眠っちゃった」
「……そうですか」
「ねぇエドワード……彼に何をしたんだ」
返答によっては一発くらい殴らないといけないかもしれない。やりたくはないけれど。
山田くんは僕に、僕たちにとっての恩人で、可愛い弟分で、大切な家族の一員だから。あんな風に自分で自分を酷く傷付けるような目に遭わせたのが目の前の男なら、僕は全力で怒るしかない。
「……彼を、彼の気持ちを傷付けました」
「自覚はあるんだね」
「ええ。酷い八つ当たりをしました。彼の矜持も想いも踏みにじって、人として最低の行為をしたんです。だから山田さんは私から逃げようとして、閉じ籠って、自分の身を傷付けた」
「そうか」
「……山田さんの目が覚めたら、拒絶されるかもしれないと、思っています」
弱々しい声に泣いているのかと思わず顔を見てしまったが、そこにあったのは泣いていないのがおかしいくらいの悲痛な表情だった。それを見た瞬間僕が殴る必要もなさそうだ、と考えてしまった。もし山田くんがエディを殴りたいと言ったら手を貸そう……言わなさそうだけど。
「…………んぅ」
小さな唸り声に、は、と息を吐いたのはどちらだったか。見つめる先で山田くんがうっすらと目を開けて、何度かゆっくり瞬きをした。ほっとする僕とは正反対にエディの緊張は増しているのか、山田くんの指に触れていた手が震えていた。
僕は音を立てないようにそっと立ち上がって病室の入口まで下がり、2人を観察する。
「山田さん、分かりますか」
「……せん、せぇ?」
「はい……そうです。目が覚めて本当に……本当に良かった」
「ここ、どこ」
「病院です。あなたは酷い怪我をしたので連れてきました。血が……たくさん、出たので、少しぼんやりするかもしれませんが」
「……せんせい、おれ、おれね」
「はい」
「こわいゆめを、みたよ。せんせいが、おれのこと、みてくれなくて」
「……えぇ」
「せんせいじゃないひとがさわってきて、こわくて、こわくて、だから、いなくなりたかった」
「山田さん」
「いなくなりたいって、おもって、でも、でも……おれ、やっぱりせんせいのそばがいい。よごれてても、やくたたずでも、せんせいのそばに、いたい……っ!」
「……あなたに居なくなられたら、困ります」
ぼんやりして少しだけ拙い口調のまま、涙を流す山田くんは本当に子供のようだった。山田くんの目から流れ続ける涙を唇で吸い取りながら、もしかしたらエディも泣いていたのかもしれない。
病室を抜け出して、治療をしてくれた医者に意識が戻ったと声だけ掛けておく。山田くんは数日間入院が必要だし、エディはそれに付きっきりになるだろう。巻き込まれた限りはその間の色んな根回しくらいはしてあげようじゃないか。
とりあえず山田くんの血で汚れたままの屋敷の浴室を完全に清掃しなくては……いっそリフォームしちゃおうかな。いやもう面倒だから引っ越した方が早いかもしれない。
そんなことを考えながら、さっきの病室での2人の様子を思い出す。どっちが欠けても生きていけないっていうのはああいうのなんだろうか。
「お互いしかいないってのも、考えものかな」
でもずっと2人で生き続けて、行き着く先が一緒なら、それもいいのかもしれない。
「ん、んぅ……せん、せ……? ふぁ……っ」
合わせ過ぎた唇が腫れて痛い。舌はもう痺れて感覚が薄くなってるのに、熱さだけはしっかりと伝えてくるから困る。口の中はもうぐちゃぐちゃだ。飲み込む唾液がどっちのものか分からなくて、味わうことすらもう諦めた。
仕事から帰ってきた先生は、出迎えた俺の手首を掴んだまま2階の寝室に直行した。シャワーも浴びずにヤるのは珍しいなー、なんて考えてたらそのままベッドに投げ出されて、のしかかられて、食べられるみたいなキスをされる。ここまで無言。本当に珍しい。
若干の違和感を感じながらも先生の首に腕を回そうとしたら手首を掴まれてベッドに押し付けられた。
……なんで? 違和感が疑問に変わる。呼び掛けたくてもキスはどんどん深く長くなって、なんとか息継ぎの間に呼び掛けても返事も、反応すらない。なんで。
なんで、俺のこと、見てくれないの。
こんなに近くで、こんなに長い時間先生が触れてくれているのに何故だかちっとも嬉しくない。いつもなら呼んだら視線か、声で返事をしてくれるのに、今は先生は全然違うところを見てる。ああ、今この人は「誰でもいいから」手を掴んで「誰でもいいから」キスをしているんだと気付いてしまった。
……これは、誰だ? 先生じゃない。先生のカタチをして、先生の色を持ってて、先生の気配がしてるだけで、先生じゃない。俺が好きで好きで仕方ないバクスチャー先生じゃ、ない!!
「……っだ、やだ、やだ、やだぁぁぁ!!」
先生じゃない「誰か」に触れられてると思っただけで全身を恐怖が包み込む。叫びながら思い切り力を込めて腕を振り解いて、とにかく夢中で部屋を飛び出した。部屋を出る直前、誰かが名前を読んだ呼んだ気がしたけれどきっと気のせいだ。だってあそこには先生はいない。
足が震えて上手く走れないけれど、とにかく寝室から離れたかった。また名前を呼ばれた気がして恐怖に身が竦む。追いかけてくる足音を聞きながら、それこそ死に物狂いで浴室まで逃げ込む。
鍵をかけたドアが強く叩かれて、必死に両手で耳を塞いだ。
「山田さん!」
こわい。ドアの向こうの「コレ」は先生じゃない。先生の声だけど先生じゃない。
「山田さん、開けてください」
こわい。先生じゃない誰かに気付かないままで触れられたことが、押し倒されて、キスされたことが怖い。
「山田さん、聞こえていますか、山田さん。どうか返事をしてください」
こわい。先生が、俺のことを汚いから要らないっていうんじゃないかってことが怖い。先生が、どこにもいなくなっちゃったんじゃないかって気がして、こわい。
その事を想像しただけで世界が色を無くした。もうあなたは不要ですと言われることが何より怖くて、俺は先生の役に立てるように生きてきたのに。先生のこと見分けられない俺に何の価値があるんだろう。
……お前なんか要らないって言われる前に、消えたい。
見上げた先に、先生が使ってる剃刀があった。耳から手を離してももう何も聞こえてこない。手にしたそれは思っていたよりずしりと重くて、銀色の刃が照明を弾いて輝く。
「せんせい、どこいったの」
切り裂いた腕から血が流れても、何も感じなかった。
どこにもいかせない
腹が立っていた。取引の相手に「貴方の飼ってる仔犬は締まりが良さそうだ」などとあからさまな挑発をされて、いつものことだと笑顔であしらいながらもその日だけは妙に気になった。くだらないと思いながらも小さな棘が刺さったような気分だった。
だから屋敷に戻ったときの彼の笑顔ですら癪に触った。完全な八つ当たりだと理解しながらも寝室へ連れ込み、腕を拘束して、呼びかけも無視して蹂躙しようとした。今思えばこの仔犬は私のものだと再確認したかったのかもしれない。
『……っだ、やだ、やだ、やだぁぁぁ!!』
真下から上げられた悲鳴に一気に目が醒める。動揺して弛んだ拘束を振り解いて山田さんが部屋から飛び出していくのを認めて呆然とする。
「……山田さん?」
さっきまでの自分の行動を思い出して慌てて追いかけながら名前を呼んだが、彼は完全にパニックに陥っていた。声が届いていない。やがて浴室に立て籠ってしまった彼にひたすら呼び掛ける。
「山田さん!」
「山田さん、開けてください」
「山田さん、聞こえていますか、山田さん。どうか返事をしてください」
何の物音も聞こえないことに不安が募る。一時、過去のトラウマからパニック障害を頻繁に起こしていたときのことが嫌でも思い出された。中で過呼吸を起こしていやしないか、せめて声に反応してくれれば。無理やりにでもドアを開けるべきかと一瞬迷う。
「エディ? 大きな声が聞こえてきたから勝手に上がっちゃったけど、どうかした?」
「ジェイ」
金茶の髪を持つ男の登場に思わずほっと息を吐いた。来訪の連絡は受けていたがこちらの様子がおかしいことを察したのだろう。ドアにちらりと視線をやってから私の方に向き直る。
「どうした、そこは浴室だろう」
「……山田さんがこの中に閉じ籠ってまして」
「山田くん?」
ジェイもドアノブを握っても動かないことを確認して「山田くん? 僕だよ」と声をかけてもやはり何の反応もない。
「喧嘩でもしたの? 困った弟たちだ」
でも様子がおかしいし、申し訳ないけど開けさせてもらうよ、と断りを入れてからジェイはポケットから取り出したコインでドアノブの溝を回転させる。カチリという音が聞こえると同時に中で何かが倒れる音がする。
急いでドアを押し開ければ、開ききる前に鮮やかな赤が2つ目に飛び込んでくる。彼の着ていたシャツと、彼の腕から流れる大量の血。
「誠司!!」
「山田くん!?」
意識のない彼の傍に跪いて2人がかりで止血をする。声を掛け続けても反応はない。血の跡を辿ればいつも使っている剃刀が少し離れたところに落ちていて吐き気がした。
「誠司……目を覚ましなさい。聞こえていますか。どうか、誠司、目を覚まして」
「玄関に車を回してくる。山田くんの身体が冷えてるからタオルかバスローブで包んであげて」
「誠司、目を」
「しっかりしろ、エドワード!」
珍しく発された大声にハッとする。日頃ふざけてばかりのジェイの真面目な顔に少し冷静になって、無言で渡されたバスローブで彼を包んだ。
「とにかく急いで病院へ連れて行かないと。玄関まで1人で運べるかい?」
「……ええ、大丈夫です」
「わかった。頼むよ」
駆け足で出て行くジェイを気にせず、腕に巻いたタオルを未だ赤く染め続ける彼の身体を横抱きにした。少し冷えた身体と、肩に預けさせた頭の辺りに感じる僅かな呼吸だけが今の彼のすべて。
「……私の許可なく死んではダメだと言ったでしょう。絶対に、繋ぎ止めてみせます」
そうして血の気配を強く残す空間から、一歩踏み出した。
どこにもいけない
静かな病室に、静かな呼吸音。ベッドの上の青年はさっきまでとは違って温もりを取り戻し、血色がまだ少し悪いくらいで、腕にしっかり巻かれた包帯さえなければ普通に寝ているだけのように見える。
窓辺に立ったままの美しい男はひたすら彼のことを見つめていた。いつもなら逆なのになぁなんて考えて、ちょっと笑う。声を出していないのにそれに気付いたのか、ジロリと睨まれた。おぉ怖い。パイプ椅子がギシリと鳴る。
「……何が可笑しい」
「やだなぁ怖いよエディ。大したことじゃないよ。そんなに見つめて山田くんに穴が開くんじゃないかと思っただけさ」
「……適切な処置はしましたが、目が覚めるまでは油断できないでしょう」
ベッドに近付き、包帯の巻かれた腕にそっと触れてから手のひらに指を滑らせる。投げ出された手のひらと爪の形を確かめるような手つきに感じるのは、後悔の念だ。
「幸い神経を傷付けている様子はない。いくらかリハビリは必要だろうけど、前と同じように動くよ」
「傷が残るのでは?」
「切れ味のいい刃物だったお陰でそれほど派手には残らないってさ。現代医療のおかげでもあるけど」
「……ええ、本当に」
「で、僕は何があったのかをいい加減教えてもらえるのかな?」
立て肘に顎を乗せ、わざと上目遣いで問いかければ、大天使のように美しい顔が面白いくらいに歪められた。
というかこんなに色々協力してやったんだから、今回の経緯くらい聞いてもバチは当たらないだろうに。
「お前は項垂れて治療室には入らなかったから知らないだろうけど、処置してる間、山田くんは数十秒だけ目を覚ましたんだよ」
「……」
「でも僕に気付くと『先生がいない』とだけ言ってね、また眠っちゃった」
「……そうですか」
「ねぇエドワード……彼に何をしたんだ」
返答によっては一発くらい殴らないといけないかもしれない。やりたくはないけれど。
山田くんは僕に、僕たちにとっての恩人で、可愛い弟分で、大切な家族の一員だから。あんな風に自分で自分を酷く傷付けるような目に遭わせたのが目の前の男なら、僕は全力で怒るしかない。
「……彼を、彼の気持ちを傷付けました」
「自覚はあるんだね」
「ええ。酷い八つ当たりをしました。彼の矜持も想いも踏みにじって、人として最低の行為をしたんです。だから山田さんは私から逃げようとして、閉じ籠って、自分の身を傷付けた」
「そうか」
「……山田さんの目が覚めたら、拒絶されるかもしれないと、思っています」
弱々しい声に泣いているのかと思わず顔を見てしまったが、そこにあったのは泣いていないのがおかしいくらいの悲痛な表情だった。それを見た瞬間僕が殴る必要もなさそうだ、と考えてしまった。もし山田くんがエディを殴りたいと言ったら手を貸そう……言わなさそうだけど。
「…………んぅ」
小さな唸り声に、は、と息を吐いたのはどちらだったか。見つめる先で山田くんがうっすらと目を開けて、何度かゆっくり瞬きをした。ほっとする僕とは正反対にエディの緊張は増しているのか、山田くんの指に触れていた手が震えていた。
僕は音を立てないようにそっと立ち上がって病室の入口まで下がり、2人を観察する。
「山田さん、分かりますか」
「……せん、せぇ?」
「はい……そうです。目が覚めて本当に……本当に良かった」
「ここ、どこ」
「病院です。あなたは酷い怪我をしたので連れてきました。血が……たくさん、出たので、少しぼんやりするかもしれませんが」
「……せんせい、おれ、おれね」
「はい」
「こわいゆめを、みたよ。せんせいが、おれのこと、みてくれなくて」
「……えぇ」
「せんせいじゃないひとがさわってきて、こわくて、こわくて、だから、いなくなりたかった」
「山田さん」
「いなくなりたいって、おもって、でも、でも……おれ、やっぱりせんせいのそばがいい。よごれてても、やくたたずでも、せんせいのそばに、いたい……っ!」
「……あなたに居なくなられたら、困ります」
ぼんやりして少しだけ拙い口調のまま、涙を流す山田くんは本当に子供のようだった。山田くんの目から流れ続ける涙を唇で吸い取りながら、もしかしたらエディも泣いていたのかもしれない。
病室を抜け出して、治療をしてくれた医者に意識が戻ったと声だけ掛けておく。山田くんは数日間入院が必要だし、エディはそれに付きっきりになるだろう。巻き込まれた限りはその間の色んな根回しくらいはしてあげようじゃないか。
とりあえず山田くんの血で汚れたままの屋敷の浴室を完全に清掃しなくては……いっそリフォームしちゃおうかな。いやもう面倒だから引っ越した方が早いかもしれない。
そんなことを考えながら、さっきの病室での2人の様子を思い出す。どっちが欠けても生きていけないっていうのはああいうのなんだろうか。
「お互いしかいないってのも、考えものかな」
でもずっと2人で生き続けて、行き着く先が一緒なら、それもいいのかもしれない。
