冬のこもりうた 誠司とバクスチャー
公開 2023/09/24 00:19
最終更新
2023/09/24 12:14
正義とリチャード編>https://simblo.net/u/p5iQS4/post/16275
冬の日の深夜、所用を片付けたエドワード・バクスチャーは路肩に停めていた愛車に乗る寸前「それ」に気が付いた。
公園の入り口にある街灯が照らした植栽の奥に、人の足首とスニーカーが見えた。面倒なものを見つけたかもしれないと思いつつも近付けば、植栽の陰に隠れるようにして倒れた女性と、その腕にしっかりと抱かれた幼児の姿。用心しつつ声を掛けてみたが予想通り反応はなく、触れてみた女性の首筋は冷たく、鼓動もない。
裏社会に身を置くバクスチャーからすれば「よくある話」の一つだが、痛ましいことは確かだ。よくよく見れば顔や幼児を抱く腕にはあざがあり、暴行をうけていたことが窺える。子供を連れて逃げたはいいがここで力尽きたのかもしれない。幼児の顔にもいくつか切り傷がついているのが見える。
まったくの他人とはいえ女性と子供の遺体をこのまま放置するには忍びない、と部下に電話をかけようとしたところで、小さな衣擦れの音が聞こえた。ハッとして視線をやれば、死んでいるとばかり思っていた子供が目を開けて、その焦げ茶の瞳でぼんやりとバクスチャーを見つめている。
生きていた、と慌てて女性の腕の中から抱き上げると同時に、通話が繋がっていた部下からの苛立たし気な声が携帯から聞こえていることに気が付いて返答を返した。
『こんな時間に電話をしておいて放置とはいいご身分だな、バクスチャー先生。切るところだったぞ』
「申し訳ありません、ヴィ。ですが大至急来ていただけませんか。女性の遺体の処置をお願いしたいのと、それから……屋敷に子供用のミルクとおむつを用意しておいてください」
『……………………まさかと思うが隠し子じゃないだろうな?』
「笑えない冗談ですね」
鼻で笑いながらも居場所を告げ電話を切り、ジャガーに乗り込み冷気を遮断する。子供は意識がはっきりとしないのか、ただ眠いだけなのか、目を開けたり閉じたりをゆっくりと繰り返していた。ズボンを履いてはいるが足元は裸足、上は季節外れの薄手のトレーナーを着ているだけで体温も低い。
せめてもの防寒をとバクスチャーのスーツのジャケットとマフラーで包んで摩擦で温めるようにしてやると、ぬくもりを感じたのかマフラーに頬を埋めるように身じろぎしたのでひとまずほっとする。とはいえ早く医者に診せなければならない。
バクスチャーは子供を助手席に移動させ、懇意にしている医者のもとへと車を走らせた。
▲ ▲ ▲
「アンタが拾ったその子の名前は『せいじ』、母親は子供の父親とは籍を入れずシングルマザーとして暮らしていた。母親の姓は叶だから、叶誠司ってことになるな。歳は1歳半。母親の携帯の中に、子供の1歳の誕生日に撮ったらしい写真データが残っていた。日付は7ヶ月前」
翌日ヴィが持ってきた情報を聞きながら、バクスチャーは横ですやすやと眠る子供の頭を撫でていた。昨夜の医者も言っていたが栄養のあるものを満足に摂れていなかったのだろう。この子は同年代の子供より明らかに痩せていた。これから面倒を見るのであれば栄養価の高いものを適切に与えていくように、と指示をされた。
その後屋敷に戻ったのだが、子供をチラリと眺めたヴィが「このくらいの年の子供ならもうある程度普通の食事だ」と踵を返し、深夜にも関わらずレトルトの幼児食をこんもりと買ってきたのには心の底から感謝した。むしろ彼のほうが隠し子がいるんじゃないかとすら思ってしまうほどに。
「一緒に暮らしていたらしい男がとにかくクズ。酒に賭博、闇金にも手を出していたみたいだな。おまけに恋人だろうとその子供だろうと平気で殴ったり蹴ったりしていたらしい」
「……彼女の遺体は?」
「知り合いの貸しのある警察官に連絡しておいたんで変な扱いはされませんよ……んで、その子、どうするつもりだ?」
「どうする、とは?」
「サボテンですら呆気なく腐らせそうなアンタが子供を育てるところは想像できなくてな」
「…………確かに何かを育てるということに関しては不得手ですが、この子は私が拾ったのですから私のものでしょう? それはそうと戸籍を一部改竄しておいた方がいいでしょうか。この子には新しい人生を歩ませたいですし。名前はいいとしても名字は変えなくてはいけませんね。そう……山田はどうでしょうか。山田誠司」
「おいおい、ペットの名付けと同じ感覚か? 人間の子供を犬猫と同等に考えているんじゃないだろうな」
「犬猫よりは意思の疎通が出来ると思いますよ。同じ言語を扱うのですから」
バクスチャーのこの目論見は1時間後失敗に終わる。誠司が目覚めた後、一切言葉を発しないことが発覚したからだ。
音には反応を示す。ある程度はこちらの言葉を理解している。
いろんなものに興味を示し、楽しければにこにこ笑い、嫌なものを見ると顔を顰める。
与えられる食事にいくつか好き嫌いを示しながらも、今まで不足していた分を補うようによく食べ、よく眠る。ここまでは普通の子供と同じだ。しかし何も喋らない。
まだ重い頭を少しばかり揺らしながらもしっかり歩く。でもまだ時々は転び、もちろん泣くこともあった。
しかし、それでもなんの声も発しない。ただ静かに涙を流す。打ち付けたせいで赤くなった額よりもよっぽどその様子のほうが痛ましい。
ヴィがニヤニヤしながら差し入れてきた新品の育児本を隅から隅まで読み、成長については栄養不足以外問題がないと安心したあとだっただけに、バクスチャーは頭を抱えることとなった。再度医師のもとに連れて行って診断を頼んだが身体的な異常は一切なく、原因は不明のまま。
唯一良かったのは、誠司が母親の不在に気付いているであろうにバクスチャーにすぐ懐いたことくらいだろう。バクスチャーの姿が見えないと、そのぱっちりとした焦げ茶の瞳であちこち探し回り――さすがにゴミ箱の中まで探しているのを見た時はどうしたものかと思った――見つけると満面の笑みで近付いてくる様はまるでカルガモの雛だった。
言葉がなくても、バクスチャーが誠司を愛おしく思う気持ちに変わりはない。むしろ日を追うごとに気持ちは強くなっていく。
「せいじ」
ソファから、寒さで曇った窓辺で振り続ける雪を眺めていた小さな背中に声をかければすぐに振り向いて嬉しそうに笑う。ふっくらとしてきた頬を見るのが嬉しいなどと、誠司に出会う前のバクスチャーは考えもしなかった。
目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。バクスチャーにとって、誠司の瞳が語る様々な気持ちや言葉は万華鏡のように美しく見える。
「お昼寝をしましょうか、誠司。いらっしゃい」
抱き上げればすぐに細い腕が首に回る。もう何度も繰り返した動作で、変わったことと言えば誠司の体重が増えたことと、子供らしい肉付きになったことくらい。
誠司を拾ってから3ヶ月、年が変わり春の気配が少しずつ近付いているというのに、相変わらず誠司は言葉を話さないまま。
* * *
月日は流れ、バクスチャーが誠司を拾ってから1年半後の5月14日。誠司は3歳の誕生日を迎えた。
ヴィやジェイからの進言もあり、今年の春から誠司は保育園に通っている。言葉は相変わらず出ていないが、環境を変え、同年代との関わりを持つことで刺激になるんじゃない? と言われてしまえば反対は難しい。事実、仕事がある以上ずっと誠司に付いているわけにもいかないのだ。取引場所に連れて行くわけにもいかない。
言葉が喋れない誠司が無邪気な悪意に晒されないかとやきもきしていたが、事前のお試し入園を多めにしてもらえたことと、先生方の配慮の甲斐もあって誠司は毎日楽しそうに通っている。保育園へのお迎えはバクスチャーだったりヴィだったりしたが、特にぐずったり急に体調を崩すこともなかった。
保育園で聞かされる「きらきら星」が誠司は特にお気に入りのようで、誕生日のプレゼントとして与えた小さな木製のオルゴールに夢中になっている。どうしても1人で過ごさなければならない時、ソファやベッドの上でオルゴールを開いてはにこにこと眺め、いつの間にか寝てしまうこともあるらしい。
時々、眠るときにバクスチャーが「きらきら星」を歌ってやると誠司はひどく喜んで布団の中で足をパタパタと動かしている。この子が喜ぶのならいくらでも、と繰り返し歌えば、いつでも誠司は幸せそうな顔で眠りについた。
「……あなたの声を聴きたい、と願うのは、傲慢なことでしょうか」
出会った時の冷たさなど微塵も感じさせない、子供らしい少し高めの体温。同年代の子供と遜色ない体形。元気いっぱいに駆け回ることのできる足。転んでも、ちょっとやそっとじゃ泣かなくなった。ヴィと庭でボール遊びをしていることもある。寒さで曇った窓に指で落書きをするのが好きで、たまにイタズラもするようになった。食べ物の好き嫌いは相変わらずあるけれど、食欲があることが何より大切だと思う。
誠司はたくさんのものを取り戻し、新しく獲得したのに。なのにずっと声だけが足りない。それが酷くもどかしい。いつか話してくれればいいと思っていたのに、バクスチャーはその「いつか」を待ちきれなくなっている自分に気付かされた。
「どうか、あなたの最初の言葉は私に与えてくださいね、誠司」
布団の中、小さな手のひらにキスを落とす。腕の中に仕舞いこんで眠れば願いが叶うような気がして、バクスチャーはそっと小さな背中と腰に手を回し、目を閉じた。
* * *
「きーあーきーらーひーかーうー、おーそーらーのーほーしーよー」
小さな歌声が眠りに夢に混ざる。
「まーばーたーきーしーてーはー、みーんーなーをーみーてーうー」
小さな手のひらが、頭を撫でる感触。
「きーらーきーらーひーかーうー、おーしょーらーのーほーしーよー」
くふくふと笑う声で、一気に目が覚めた。そんな、まさか。
寝起きの悪いバクスチャーにしては珍しく、文字通り飛び起きた。直後に真横を見れば、小さな手で口元を隠すようにして笑う誠司の姿がある。
「……せいじ?」
「せんせぇ、おきたぁ!」
「誠司、あなた、声が……声が出て、ああ、どこか痛んだりはしていませんか」
突然のことで脳が上手く動かない。初めて聞いたはずなのに、もうずっと聞いていたような声だった。これが夢でないことを確認するように、バクスチャーは両手で誠司の頬を包み、ぬくもりを確かめる。
「んんぅ、せんせぇ、くすぐったい」
「ああ、本当に、なんということだ……しかしさっきからなぜ私を『先生』などと呼ぶのです、誠司」
「だって、びぃさんもほかのひとも『せんせぇ』ってよぶから」
「確かにそうですが……せめて最初くらい、名前を呼んでいただきたいものです」
「なまえ?」
「エドワード・バクスチャー。あなたに名乗ったことはなかったですが、これが私の名前です」
「えどわぁど、ば、ば?」
「バクスチャー」
「ばくすちゃあ」
「そうです。エドワード・バクスチャー」
「えどわぁど、ばくすちゃあ! せんせぇのなまえ!」
そこでもう堪えきれなくて、力の限りバクスチャーは誠司を抱き締める。きゃらきゃらと笑う声が愛おしくて愛おしくて、涙が頬を伝っても気にならなかった。
▲ ▲ ▲
その年のクリスマス・イヴに行われたパーティーは盛大なものだった。突然喋るようになった誠司にヴィもジェイも、はては組織の幹部である真夜までも今まで以上にちょっかいを出すようになったせいだ。大きなツリーの下には大量のプレゼントが置かれ(もちろん危険なものが混ざることのないようチェックは怠らない)特別に夜更かしを許された誠司も終始楽しそうに声を上げて笑っている。
それでも日付が変わる前にはパーティーは終わり、屋敷にはバクスチャーと誠司だけが残された。外では粉雪が舞っている。このまま降り続ければ明日は一面の銀世界だろう。
「せんせぇ」
「どうしました、誠司」
名前を教えた後も誠司はバクスチャーを「せんせぇ」と呼び続けた。時々「えどわーどせんせぇ」と呼ぶので妥協したとも言える。誠司はクリスマスツリーのてっぺんに飾られた星を眺めながら口を開いた。
「おれねぇ、さいしょせんせぇをみたとき、おほしさまがおちてきたとおもったんだぁ」
「最初、とは?」
「んーと、せんせぇがおれをさいしょにだっこしてくれたとき」
まさかと思うが、2年前のことを覚えているのかのような発言だった。驚きに声を出せないでいるバクスチャーには気付かない様子で誠司は話し続ける。
「さむくて、いたくて、ねむくて、でもきゅうにあったかくなって、びっくりしてたらキラキラがめのまえにあったから、おほしさまだとおもって」
「……ええ」
「せんせぇのこと、おほしさまのひとだとおもってたんだ」
「今は、どうですか」
「いまもねぇ、せんせいはきらきらぼし。おれのいちばんすきなもの! それから」
せんせぇ、おたんじょうび、おめでとー。
そう続けられた言葉に、バクスチャーは思わず目を見開いた。パーティーの途中ジェイから何かを耳打ちされてとてもはしゃいでいたことには気付いていたが、いちいち詮索するのも憚られて聞けずにいたことを思い出す。もしかしたら、今日がバクスチャーの誕生日だと教えたのも、パーティーが日付の変わる前に終わったのも全員がグルのサプライズだったのかもしれない。
「ありがとうございます。とても、とても嬉しいですよ、誠司」
「えへへ、おれもねぇ、うれしい」
「……誠司、どうかひとつ、お願い事を聞いてくれませんか」
「なぁに?」
「眠るまで『きらきら星』を歌っていただきたいのです」
「いいよ!」
いちもにもなく頷かれて、思わず苦笑する。ベッドに向かい合わせで横になり、毛布を掛けてしまえばそこは2人だけの秘密の場所になる。いつかと同じように、小さな歌声が――あの頃よりしっかりとした発音の『きらきら星』が降りそそぐ中、エドワード・バクスチャーは眠りにつく。
おやすみなさい、またあした。
小さな呟きが、星と共に流れた気がした。
冬の日の深夜、所用を片付けたエドワード・バクスチャーは路肩に停めていた愛車に乗る寸前「それ」に気が付いた。
公園の入り口にある街灯が照らした植栽の奥に、人の足首とスニーカーが見えた。面倒なものを見つけたかもしれないと思いつつも近付けば、植栽の陰に隠れるようにして倒れた女性と、その腕にしっかりと抱かれた幼児の姿。用心しつつ声を掛けてみたが予想通り反応はなく、触れてみた女性の首筋は冷たく、鼓動もない。
裏社会に身を置くバクスチャーからすれば「よくある話」の一つだが、痛ましいことは確かだ。よくよく見れば顔や幼児を抱く腕にはあざがあり、暴行をうけていたことが窺える。子供を連れて逃げたはいいがここで力尽きたのかもしれない。幼児の顔にもいくつか切り傷がついているのが見える。
まったくの他人とはいえ女性と子供の遺体をこのまま放置するには忍びない、と部下に電話をかけようとしたところで、小さな衣擦れの音が聞こえた。ハッとして視線をやれば、死んでいるとばかり思っていた子供が目を開けて、その焦げ茶の瞳でぼんやりとバクスチャーを見つめている。
生きていた、と慌てて女性の腕の中から抱き上げると同時に、通話が繋がっていた部下からの苛立たし気な声が携帯から聞こえていることに気が付いて返答を返した。
『こんな時間に電話をしておいて放置とはいいご身分だな、バクスチャー先生。切るところだったぞ』
「申し訳ありません、ヴィ。ですが大至急来ていただけませんか。女性の遺体の処置をお願いしたいのと、それから……屋敷に子供用のミルクとおむつを用意しておいてください」
『……………………まさかと思うが隠し子じゃないだろうな?』
「笑えない冗談ですね」
鼻で笑いながらも居場所を告げ電話を切り、ジャガーに乗り込み冷気を遮断する。子供は意識がはっきりとしないのか、ただ眠いだけなのか、目を開けたり閉じたりをゆっくりと繰り返していた。ズボンを履いてはいるが足元は裸足、上は季節外れの薄手のトレーナーを着ているだけで体温も低い。
せめてもの防寒をとバクスチャーのスーツのジャケットとマフラーで包んで摩擦で温めるようにしてやると、ぬくもりを感じたのかマフラーに頬を埋めるように身じろぎしたのでひとまずほっとする。とはいえ早く医者に診せなければならない。
バクスチャーは子供を助手席に移動させ、懇意にしている医者のもとへと車を走らせた。
▲ ▲ ▲
「アンタが拾ったその子の名前は『せいじ』、母親は子供の父親とは籍を入れずシングルマザーとして暮らしていた。母親の姓は叶だから、叶誠司ってことになるな。歳は1歳半。母親の携帯の中に、子供の1歳の誕生日に撮ったらしい写真データが残っていた。日付は7ヶ月前」
翌日ヴィが持ってきた情報を聞きながら、バクスチャーは横ですやすやと眠る子供の頭を撫でていた。昨夜の医者も言っていたが栄養のあるものを満足に摂れていなかったのだろう。この子は同年代の子供より明らかに痩せていた。これから面倒を見るのであれば栄養価の高いものを適切に与えていくように、と指示をされた。
その後屋敷に戻ったのだが、子供をチラリと眺めたヴィが「このくらいの年の子供ならもうある程度普通の食事だ」と踵を返し、深夜にも関わらずレトルトの幼児食をこんもりと買ってきたのには心の底から感謝した。むしろ彼のほうが隠し子がいるんじゃないかとすら思ってしまうほどに。
「一緒に暮らしていたらしい男がとにかくクズ。酒に賭博、闇金にも手を出していたみたいだな。おまけに恋人だろうとその子供だろうと平気で殴ったり蹴ったりしていたらしい」
「……彼女の遺体は?」
「知り合いの貸しのある警察官に連絡しておいたんで変な扱いはされませんよ……んで、その子、どうするつもりだ?」
「どうする、とは?」
「サボテンですら呆気なく腐らせそうなアンタが子供を育てるところは想像できなくてな」
「…………確かに何かを育てるということに関しては不得手ですが、この子は私が拾ったのですから私のものでしょう? それはそうと戸籍を一部改竄しておいた方がいいでしょうか。この子には新しい人生を歩ませたいですし。名前はいいとしても名字は変えなくてはいけませんね。そう……山田はどうでしょうか。山田誠司」
「おいおい、ペットの名付けと同じ感覚か? 人間の子供を犬猫と同等に考えているんじゃないだろうな」
「犬猫よりは意思の疎通が出来ると思いますよ。同じ言語を扱うのですから」
バクスチャーのこの目論見は1時間後失敗に終わる。誠司が目覚めた後、一切言葉を発しないことが発覚したからだ。
音には反応を示す。ある程度はこちらの言葉を理解している。
いろんなものに興味を示し、楽しければにこにこ笑い、嫌なものを見ると顔を顰める。
与えられる食事にいくつか好き嫌いを示しながらも、今まで不足していた分を補うようによく食べ、よく眠る。ここまでは普通の子供と同じだ。しかし何も喋らない。
まだ重い頭を少しばかり揺らしながらもしっかり歩く。でもまだ時々は転び、もちろん泣くこともあった。
しかし、それでもなんの声も発しない。ただ静かに涙を流す。打ち付けたせいで赤くなった額よりもよっぽどその様子のほうが痛ましい。
ヴィがニヤニヤしながら差し入れてきた新品の育児本を隅から隅まで読み、成長については栄養不足以外問題がないと安心したあとだっただけに、バクスチャーは頭を抱えることとなった。再度医師のもとに連れて行って診断を頼んだが身体的な異常は一切なく、原因は不明のまま。
唯一良かったのは、誠司が母親の不在に気付いているであろうにバクスチャーにすぐ懐いたことくらいだろう。バクスチャーの姿が見えないと、そのぱっちりとした焦げ茶の瞳であちこち探し回り――さすがにゴミ箱の中まで探しているのを見た時はどうしたものかと思った――見つけると満面の笑みで近付いてくる様はまるでカルガモの雛だった。
言葉がなくても、バクスチャーが誠司を愛おしく思う気持ちに変わりはない。むしろ日を追うごとに気持ちは強くなっていく。
「せいじ」
ソファから、寒さで曇った窓辺で振り続ける雪を眺めていた小さな背中に声をかければすぐに振り向いて嬉しそうに笑う。ふっくらとしてきた頬を見るのが嬉しいなどと、誠司に出会う前のバクスチャーは考えもしなかった。
目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。バクスチャーにとって、誠司の瞳が語る様々な気持ちや言葉は万華鏡のように美しく見える。
「お昼寝をしましょうか、誠司。いらっしゃい」
抱き上げればすぐに細い腕が首に回る。もう何度も繰り返した動作で、変わったことと言えば誠司の体重が増えたことと、子供らしい肉付きになったことくらい。
誠司を拾ってから3ヶ月、年が変わり春の気配が少しずつ近付いているというのに、相変わらず誠司は言葉を話さないまま。
* * *
月日は流れ、バクスチャーが誠司を拾ってから1年半後の5月14日。誠司は3歳の誕生日を迎えた。
ヴィやジェイからの進言もあり、今年の春から誠司は保育園に通っている。言葉は相変わらず出ていないが、環境を変え、同年代との関わりを持つことで刺激になるんじゃない? と言われてしまえば反対は難しい。事実、仕事がある以上ずっと誠司に付いているわけにもいかないのだ。取引場所に連れて行くわけにもいかない。
言葉が喋れない誠司が無邪気な悪意に晒されないかとやきもきしていたが、事前のお試し入園を多めにしてもらえたことと、先生方の配慮の甲斐もあって誠司は毎日楽しそうに通っている。保育園へのお迎えはバクスチャーだったりヴィだったりしたが、特にぐずったり急に体調を崩すこともなかった。
保育園で聞かされる「きらきら星」が誠司は特にお気に入りのようで、誕生日のプレゼントとして与えた小さな木製のオルゴールに夢中になっている。どうしても1人で過ごさなければならない時、ソファやベッドの上でオルゴールを開いてはにこにこと眺め、いつの間にか寝てしまうこともあるらしい。
時々、眠るときにバクスチャーが「きらきら星」を歌ってやると誠司はひどく喜んで布団の中で足をパタパタと動かしている。この子が喜ぶのならいくらでも、と繰り返し歌えば、いつでも誠司は幸せそうな顔で眠りについた。
「……あなたの声を聴きたい、と願うのは、傲慢なことでしょうか」
出会った時の冷たさなど微塵も感じさせない、子供らしい少し高めの体温。同年代の子供と遜色ない体形。元気いっぱいに駆け回ることのできる足。転んでも、ちょっとやそっとじゃ泣かなくなった。ヴィと庭でボール遊びをしていることもある。寒さで曇った窓に指で落書きをするのが好きで、たまにイタズラもするようになった。食べ物の好き嫌いは相変わらずあるけれど、食欲があることが何より大切だと思う。
誠司はたくさんのものを取り戻し、新しく獲得したのに。なのにずっと声だけが足りない。それが酷くもどかしい。いつか話してくれればいいと思っていたのに、バクスチャーはその「いつか」を待ちきれなくなっている自分に気付かされた。
「どうか、あなたの最初の言葉は私に与えてくださいね、誠司」
布団の中、小さな手のひらにキスを落とす。腕の中に仕舞いこんで眠れば願いが叶うような気がして、バクスチャーはそっと小さな背中と腰に手を回し、目を閉じた。
* * *
「きーあーきーらーひーかーうー、おーそーらーのーほーしーよー」
小さな歌声が眠りに夢に混ざる。
「まーばーたーきーしーてーはー、みーんーなーをーみーてーうー」
小さな手のひらが、頭を撫でる感触。
「きーらーきーらーひーかーうー、おーしょーらーのーほーしーよー」
くふくふと笑う声で、一気に目が覚めた。そんな、まさか。
寝起きの悪いバクスチャーにしては珍しく、文字通り飛び起きた。直後に真横を見れば、小さな手で口元を隠すようにして笑う誠司の姿がある。
「……せいじ?」
「せんせぇ、おきたぁ!」
「誠司、あなた、声が……声が出て、ああ、どこか痛んだりはしていませんか」
突然のことで脳が上手く動かない。初めて聞いたはずなのに、もうずっと聞いていたような声だった。これが夢でないことを確認するように、バクスチャーは両手で誠司の頬を包み、ぬくもりを確かめる。
「んんぅ、せんせぇ、くすぐったい」
「ああ、本当に、なんということだ……しかしさっきからなぜ私を『先生』などと呼ぶのです、誠司」
「だって、びぃさんもほかのひとも『せんせぇ』ってよぶから」
「確かにそうですが……せめて最初くらい、名前を呼んでいただきたいものです」
「なまえ?」
「エドワード・バクスチャー。あなたに名乗ったことはなかったですが、これが私の名前です」
「えどわぁど、ば、ば?」
「バクスチャー」
「ばくすちゃあ」
「そうです。エドワード・バクスチャー」
「えどわぁど、ばくすちゃあ! せんせぇのなまえ!」
そこでもう堪えきれなくて、力の限りバクスチャーは誠司を抱き締める。きゃらきゃらと笑う声が愛おしくて愛おしくて、涙が頬を伝っても気にならなかった。
▲ ▲ ▲
その年のクリスマス・イヴに行われたパーティーは盛大なものだった。突然喋るようになった誠司にヴィもジェイも、はては組織の幹部である真夜までも今まで以上にちょっかいを出すようになったせいだ。大きなツリーの下には大量のプレゼントが置かれ(もちろん危険なものが混ざることのないようチェックは怠らない)特別に夜更かしを許された誠司も終始楽しそうに声を上げて笑っている。
それでも日付が変わる前にはパーティーは終わり、屋敷にはバクスチャーと誠司だけが残された。外では粉雪が舞っている。このまま降り続ければ明日は一面の銀世界だろう。
「せんせぇ」
「どうしました、誠司」
名前を教えた後も誠司はバクスチャーを「せんせぇ」と呼び続けた。時々「えどわーどせんせぇ」と呼ぶので妥協したとも言える。誠司はクリスマスツリーのてっぺんに飾られた星を眺めながら口を開いた。
「おれねぇ、さいしょせんせぇをみたとき、おほしさまがおちてきたとおもったんだぁ」
「最初、とは?」
「んーと、せんせぇがおれをさいしょにだっこしてくれたとき」
まさかと思うが、2年前のことを覚えているのかのような発言だった。驚きに声を出せないでいるバクスチャーには気付かない様子で誠司は話し続ける。
「さむくて、いたくて、ねむくて、でもきゅうにあったかくなって、びっくりしてたらキラキラがめのまえにあったから、おほしさまだとおもって」
「……ええ」
「せんせぇのこと、おほしさまのひとだとおもってたんだ」
「今は、どうですか」
「いまもねぇ、せんせいはきらきらぼし。おれのいちばんすきなもの! それから」
せんせぇ、おたんじょうび、おめでとー。
そう続けられた言葉に、バクスチャーは思わず目を見開いた。パーティーの途中ジェイから何かを耳打ちされてとてもはしゃいでいたことには気付いていたが、いちいち詮索するのも憚られて聞けずにいたことを思い出す。もしかしたら、今日がバクスチャーの誕生日だと教えたのも、パーティーが日付の変わる前に終わったのも全員がグルのサプライズだったのかもしれない。
「ありがとうございます。とても、とても嬉しいですよ、誠司」
「えへへ、おれもねぇ、うれしい」
「……誠司、どうかひとつ、お願い事を聞いてくれませんか」
「なぁに?」
「眠るまで『きらきら星』を歌っていただきたいのです」
「いいよ!」
いちもにもなく頷かれて、思わず苦笑する。ベッドに向かい合わせで横になり、毛布を掛けてしまえばそこは2人だけの秘密の場所になる。いつかと同じように、小さな歌声が――あの頃よりしっかりとした発音の『きらきら星』が降りそそぐ中、エドワード・バクスチャーは眠りにつく。
おやすみなさい、またあした。
小さな呟きが、星と共に流れた気がした。
