人間的な
公開 2023/12/03 19:03
最終更新
2023/12/03 19:03
シャンタル・アケルマンの短編(お腹すいた さむい)を観てふと、頭のなかで未散ソノオさんの漫画「野良猫に首輪を」と繋がった部分があった。
他者目線で生きないことの人間性(知性)といったらいいのか。
あたまと身体すべてで生きているしなやかさともいうか。
自分がそうしたいからそうする、というごくシンプルな解だ。
身体とはあたまと同じくらい想像し思考し判断する能力があるのだけど、内面化した他者目線に無自覚だと(社会化が進んでいると)身体のもっている力に気づかなくなるし、「わかる」範囲も狭くなるよな、あと「わかる」事じたいほんとはそれほど必要でもない、などと考えた。
社会化され整合性を求めるひとに説明するなら「矛盾」という言葉をつかえば良いのだろうか。
先だって読んだジャック・リヴェットの、ヴェラ・ヒティロバへのインタビューにあった「矛盾こそ生そのものではないか」という問いかけを思い出す。
ひとりの人間があたまと身体すべてで生きる姿を、他の人間がわかろうとするとき、矛盾という言葉になるのかもしれない。
(お腹すいた さむい)も「野良猫に首輪を」も、登場人物たちはなんか幸せそうで良い。そして少し寂しい感じを抱かせる。
完全に自由なひとをみてしまった寂しさだと思う。
他者目線で生きないことの人間性(知性)といったらいいのか。
あたまと身体すべてで生きているしなやかさともいうか。
自分がそうしたいからそうする、というごくシンプルな解だ。
身体とはあたまと同じくらい想像し思考し判断する能力があるのだけど、内面化した他者目線に無自覚だと(社会化が進んでいると)身体のもっている力に気づかなくなるし、「わかる」範囲も狭くなるよな、あと「わかる」事じたいほんとはそれほど必要でもない、などと考えた。
社会化され整合性を求めるひとに説明するなら「矛盾」という言葉をつかえば良いのだろうか。
先だって読んだジャック・リヴェットの、ヴェラ・ヒティロバへのインタビューにあった「矛盾こそ生そのものではないか」という問いかけを思い出す。
ひとりの人間があたまと身体すべてで生きる姿を、他の人間がわかろうとするとき、矛盾という言葉になるのかもしれない。
(お腹すいた さむい)も「野良猫に首輪を」も、登場人物たちはなんか幸せそうで良い。そして少し寂しい感じを抱かせる。
完全に自由なひとをみてしまった寂しさだと思う。
