伝わらない愛情
公開 2024/12/08 00:16
最終更新
2024/12/08 00:53
楽しみにしていた未散ソノオさんの「Dr.ポンコツの伝わらない愛情」8話を読む。
このお話は初めから本当に面白い。
ポンコツ先生が自分のこころがちゃんと「在る」事をわかった後の、自分の心を縛っているもの、手放せないものがある事に思いを至らせる所。
心というのは環境ありきというのがわかる。感情を出すには出せる環境が必要なのだ。
ポンコツ先生の心はカウンセリングの技術を持った八木先生との対話のおかげで明らかになり、豊かになっていくのだけど、ぼくはこの八木先生というキャラクターに初めからずっと痛みを感じている。
八木先生は児童養護施設の出身で、大学を卒業するために貸付型の「奨学金」を受けた。教師になれば返済免除だったが、教員採用試験には合格できず塾の講師になったという経歴である。ポンコツ先生の提案したカウンセリングは副業として、返済に充てられた。
八木先生は施設での過去を追想し、自分もポンコツ先生のようになりたかったとは思うが(甲斐性のある男性への羨望)、持っている人間から奪いたいとは思わない、降りかかって来た問題をあくまで自分に集約させて解決を試みて来た、とても善良な人間である。
これが辛い。
自己責任論が政治の意図的な社会サービスの低下に悪用される前から、労働市場に出ていく人間は徹底した自己責任論で行動し、「自己の価値を高めて」来たのだ。
学生に勉強時間と創造的な自由時間の両方を保証しない社会の構造を批判しなかった。先進国の多くが採用している大学の学費無料を求めて声をあげなかった。
長期返済の義務がある学生ローン(奨学金を名乗ってほしくない)に反対の声をあげなかった。自分の価値を高めることと社会のありようを批判することのバランスを作らなかった。社会に無批判で、ひたすら自己責任論を内面化させ、自分のことだけ考えて来たのがぼくたちの世代だと思う。
先日感じたセラピー的行動のしんどさがここでぴったりはまる。
この社会に「自分を変えて」適合しつづけて、結果的に社会サービスもモラルも平均給与も低下したのだ。ぼくたちは何ということをしてしまったのか。「騒がず」、「自分のことをした」結果だ。
八木先生はしあわせになることを恐れている。それを望むことじたい自分のものだと思っていない。せめて物語のなかでもしあわせを望んで欲しい。
このお話は初めから本当に面白い。
ポンコツ先生が自分のこころがちゃんと「在る」事をわかった後の、自分の心を縛っているもの、手放せないものがある事に思いを至らせる所。
心というのは環境ありきというのがわかる。感情を出すには出せる環境が必要なのだ。
ポンコツ先生の心はカウンセリングの技術を持った八木先生との対話のおかげで明らかになり、豊かになっていくのだけど、ぼくはこの八木先生というキャラクターに初めからずっと痛みを感じている。
八木先生は児童養護施設の出身で、大学を卒業するために貸付型の「奨学金」を受けた。教師になれば返済免除だったが、教員採用試験には合格できず塾の講師になったという経歴である。ポンコツ先生の提案したカウンセリングは副業として、返済に充てられた。
八木先生は施設での過去を追想し、自分もポンコツ先生のようになりたかったとは思うが(甲斐性のある男性への羨望)、持っている人間から奪いたいとは思わない、降りかかって来た問題をあくまで自分に集約させて解決を試みて来た、とても善良な人間である。
これが辛い。
自己責任論が政治の意図的な社会サービスの低下に悪用される前から、労働市場に出ていく人間は徹底した自己責任論で行動し、「自己の価値を高めて」来たのだ。
学生に勉強時間と創造的な自由時間の両方を保証しない社会の構造を批判しなかった。先進国の多くが採用している大学の学費無料を求めて声をあげなかった。
長期返済の義務がある学生ローン(奨学金を名乗ってほしくない)に反対の声をあげなかった。自分の価値を高めることと社会のありようを批判することのバランスを作らなかった。社会に無批判で、ひたすら自己責任論を内面化させ、自分のことだけ考えて来たのがぼくたちの世代だと思う。
先日感じたセラピー的行動のしんどさがここでぴったりはまる。
この社会に「自分を変えて」適合しつづけて、結果的に社会サービスもモラルも平均給与も低下したのだ。ぼくたちは何ということをしてしまったのか。「騒がず」、「自分のことをした」結果だ。
八木先生はしあわせになることを恐れている。それを望むことじたい自分のものだと思っていない。せめて物語のなかでもしあわせを望んで欲しい。