カンフーマスター
公開 2024/12/02 00:03
最終更新
2024/12/02 18:26
アニエス・ヴァルダの「カンフーマスター」を観てきた。
三十年越しに叶った、というよりやっと観ても大丈夫と思えるようになった。自分が。
中年にさしかかった女性が娘のクラスメイトと恋に落ちる、というシチュエーションにどうしても抵抗があり、アニエス・ヴァルダの主要作の中でこれだけは観ることができなかった。
今やっと観たい気持ちになって、観れる事が出来て良かったと思う。
冒頭、空手道着を身につけたマチュー・ドゥミがパリの舗道をヒョコヒョコ進む。習い事にいくのかな?くらいのゆるさだ。
すぐにこのシーンはリアルではない、彼の頭の中の映像だったとわかる。懐かしのドットピクチャー。ビデオゲームが大好きなのだ。
1988年の映画で、ビデオゲームはカフェにジュークボックスなどと一緒に置かれている。コンピューターゲームが家庭に入り込んでくる直前だ。
ジェーン・バーキンは短髪が少しルーズに伸びたヘアスタイルで、相変わらず手足が長くマニッシュな外見だが、儚い風情で常に揺らいでいる。観ているほうが惚れてまうやろ!と慌ててしまう危うさだ(関係ないけど映画館で上映中ぼくの真後ろにいらしたご高齢の男性が感に耐えない様子で「ジェーーン…バーキン…」と声を絞り出していた。気持ちは一緒である)
15歳にしてヒゲも無く華奢で小柄で上着が萌え袖状態のマチュー・ドゥミと惹かれ合う様子は、年齢も性も立場も何重にも倒錯的に思えた。アニエス・ヴァルダによく似た大きな瞳のマチューは、穿った見方をすればアニエスの自己投影的存在だったかも知れない。ジェーンと恋愛するための。そらぼくだってジェーンと恋愛してみたい。
ニキビを気にするシャルロット・ゲンズブール、ママ大好きな小さなルー・ドワイヨン、ポートレートで見たことのあるジェーン・バーキンの実の父母に兄、赤ちゃんを抱くのはケイト・バリーだろうか。ロンドンの休暇では親族たちが集まり、フィクションとリアルの波間をゆらゆら漂うようだ。
物語はいや待て待て待てそれは無いだろう、という方向へ進んでいく。
潮の迫る岩場でマチューがジェーンに話すのはビデオゲームの世界のルール、剣を手にした時、HPを得るには、失うことは…etc。
マチュー・ドゥミは現実でもゲーム大好きだったそうだが、このシーンで冒頭の脳内ピコピコからの一連の不穏なフラグが立った。中二的なものの的確な描写に震える。頭の中の世界に生きてる感じ。
物語はそう…なっちゃうよな、そりゃね。ぼくがマチューの親だったらと思うとやり切れない。エディプスコンプレックスだ、目を覚ませ。ぼくたちが悪かった。ごめんなさい。くらいは言うと思う。
これも「幸福」の系譜になるのだろうか。
代替不可能な生を生きる事は幸福のいち側面でしかなく、幸福と呼べるものはむしろ生の営みそのものであり代替可能であると。
冷徹が過ぎる。
パリの場面もロンドンの場面も、当時猛威をふるい始めたAIDS(フランスではSIDA)への言及がちょくちょく挟まれる。ジョークでの消費、コンドームの普及、セックスの啓蒙etc…。物語に特に影響するところはない。
1990年に亡くなったジャック・ドゥミの死因がSIDAであったと十五年以上経ってアニエス・ヴァルダが公表したときは正直面食らった。何で今頃と。
この映画を観ると預言的に感じるし、記録に徹する非情さを思う。
三十年越しに叶った、というよりやっと観ても大丈夫と思えるようになった。自分が。
中年にさしかかった女性が娘のクラスメイトと恋に落ちる、というシチュエーションにどうしても抵抗があり、アニエス・ヴァルダの主要作の中でこれだけは観ることができなかった。
今やっと観たい気持ちになって、観れる事が出来て良かったと思う。
冒頭、空手道着を身につけたマチュー・ドゥミがパリの舗道をヒョコヒョコ進む。習い事にいくのかな?くらいのゆるさだ。
すぐにこのシーンはリアルではない、彼の頭の中の映像だったとわかる。懐かしのドットピクチャー。ビデオゲームが大好きなのだ。
1988年の映画で、ビデオゲームはカフェにジュークボックスなどと一緒に置かれている。コンピューターゲームが家庭に入り込んでくる直前だ。
ジェーン・バーキンは短髪が少しルーズに伸びたヘアスタイルで、相変わらず手足が長くマニッシュな外見だが、儚い風情で常に揺らいでいる。観ているほうが惚れてまうやろ!と慌ててしまう危うさだ(関係ないけど映画館で上映中ぼくの真後ろにいらしたご高齢の男性が感に耐えない様子で「ジェーーン…バーキン…」と声を絞り出していた。気持ちは一緒である)
15歳にしてヒゲも無く華奢で小柄で上着が萌え袖状態のマチュー・ドゥミと惹かれ合う様子は、年齢も性も立場も何重にも倒錯的に思えた。アニエス・ヴァルダによく似た大きな瞳のマチューは、穿った見方をすればアニエスの自己投影的存在だったかも知れない。ジェーンと恋愛するための。そらぼくだってジェーンと恋愛してみたい。
ニキビを気にするシャルロット・ゲンズブール、ママ大好きな小さなルー・ドワイヨン、ポートレートで見たことのあるジェーン・バーキンの実の父母に兄、赤ちゃんを抱くのはケイト・バリーだろうか。ロンドンの休暇では親族たちが集まり、フィクションとリアルの波間をゆらゆら漂うようだ。
物語はいや待て待て待てそれは無いだろう、という方向へ進んでいく。
潮の迫る岩場でマチューがジェーンに話すのはビデオゲームの世界のルール、剣を手にした時、HPを得るには、失うことは…etc。
マチュー・ドゥミは現実でもゲーム大好きだったそうだが、このシーンで冒頭の脳内ピコピコからの一連の不穏なフラグが立った。中二的なものの的確な描写に震える。頭の中の世界に生きてる感じ。
物語はそう…なっちゃうよな、そりゃね。ぼくがマチューの親だったらと思うとやり切れない。エディプスコンプレックスだ、目を覚ませ。ぼくたちが悪かった。ごめんなさい。くらいは言うと思う。
これも「幸福」の系譜になるのだろうか。
代替不可能な生を生きる事は幸福のいち側面でしかなく、幸福と呼べるものはむしろ生の営みそのものであり代替可能であると。
冷徹が過ぎる。
パリの場面もロンドンの場面も、当時猛威をふるい始めたAIDS(フランスではSIDA)への言及がちょくちょく挟まれる。ジョークでの消費、コンドームの普及、セックスの啓蒙etc…。物語に特に影響するところはない。
1990年に亡くなったジャック・ドゥミの死因がSIDAであったと十五年以上経ってアニエス・ヴァルダが公表したときは正直面食らった。何で今頃と。
この映画を観ると預言的に感じるし、記録に徹する非情さを思う。