アヤ・エイジア
公開 2024/06/23 10:58
最終更新
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小学生の頃ハマった『魔人探偵脳噛ネウロ』というジャンプの作品にアヤ・エイジアという女性が登場する。

彼女は世界的な歌姫。
彼女によれば、人間には国や人種を越えて「ある構造」の脳を持つ人がたくさんいて、彼女はそういった人たちの脳を歌でダイレクトに「揺らす」ことができ、コンサートで彼女の歌声を聴いた観客は次々と失神していく。
「ある構造」の脳を持つ人たちとは、「私は世界でひとりきり」としか感じられない人たちである。
彼女は自分に寄り添ってくれる存在であったプロデューサーとマネージャーを殺してしまう。
その動機は、彼らの温もりに触れて「私は世界でひとりきり」と感じられなくなってしまい歌えなくなってしまったから、自らの歌を取り戻すために大切な2人を殺す、というものだった。
長い時間誰かと一緒にいると、自分が自分でなくなってしまうと思うときがある。
「人といると疲れる」といえばそうであるが、疲れるという表現よりも、もっと不安の混じった感覚だ。
背中に望まない風船を取り付けられてふわふわとどこか知らないところへ飛ばされていくような感じ。
それは思考停止に近く、良く言えばネガティブに具体的なことをあれこれ考えなくなるということであり、大丈夫になっていく感覚なのかもしれない。
けれどそれは、少し引いた目で見ると、ごまかしに過ぎないと思ってしまう。
要するに、孤独な人、つまり少し前の自分とどんどん距離が開いていって、誰かに寄り添えなくなっていく感じ、自分を救えなくなっていく感じがあって、それは恐怖に近い。
「ひとりでいるよりも一緒にいるときの方が寂しい」とはこういうことなのだろうか…
…たぶん違う。それは他人とどうにかやっていこうという指向性を持つ人から出る言葉で、あくまでおれは自分のことしか考えていないのだ。
風船で空中をぷかぷかと漂っている状況はいつまでも続かないことを経験から知っている。
だから、いつか風船が割れて地上に落ちたときに歩き方を忘れてしまっていたらどうしよう、みたいなことを考えていて、つまりいつか必ずひとりに戻ってしまうことを確信していて、だからせめて知らないところに不時着する前に、自分の意志で帰るべきところに迷わず帰れるように、遠くへ行き過ぎてしまう前に「帰りたい」と思っている。
いつも、どこかへ帰りたい。
孤独を求め、孤独になることでなにかを補給しているように思う。
そのなにかとは、誰かといることで放出してしまったエネルギーと、誰かに寄り添う優しさと、人間の「ふかみ」なのかもしれない。
奥深い人間でありたい、簡単に分かられたくないという強迫観念がある。
そのきっかけはきっと、地頭以上のレベルのところに入った高校で、この人は奥深いなあ、宇宙を持っているなあと思う人にたくさん出会って、彼らに今でも憧れているからであって、
そして彼らにつまらない人間と思われるのを心底恐れてきたからだと思う。
誰かといる時間は自分にとって発表会のようなものだ。
どんどん注ぎ足していかないと空っぽの自分をお披露目してしまう。
注ぎ足すべきそのリソースは、孤独という空間からのみ発掘されるのだ。
健康とは、栄養と、運動と、睡眠と、あと「他者との関わり」から成ると勝手に納得している。
どれが欠けてもいけないが、4つめについては、肥大し過ぎても自分の場合不健康になる。
その塩梅はとても絶妙で、まだ定量化できない。
だから8時間×週5日他者と関わり続ける働き方はまだまだ自分には出来ないと思うし、誰かと2人で暮らすなんて尚更想像できない。
この時代、そうしなくても生きていけることは知っているけど、やっぱり不安で
不安は、絶対に嫌なのだ。
こういう生きることの根幹みたいな問題との向き合い方を、学校で教えてくれればいいのになあと思う。
いまの日本の政治を見ても思うことだけど
「平気な」人たちが指揮を取る社会って、誰かにとってはとても息苦しいよねえ


彼女は世界的な歌姫。
彼女によれば、人間には国や人種を越えて「ある構造」の脳を持つ人がたくさんいて、彼女はそういった人たちの脳を歌でダイレクトに「揺らす」ことができ、コンサートで彼女の歌声を聴いた観客は次々と失神していく。
「ある構造」の脳を持つ人たちとは、「私は世界でひとりきり」としか感じられない人たちである。
彼女は自分に寄り添ってくれる存在であったプロデューサーとマネージャーを殺してしまう。
その動機は、彼らの温もりに触れて「私は世界でひとりきり」と感じられなくなってしまい歌えなくなってしまったから、自らの歌を取り戻すために大切な2人を殺す、というものだった。
2人の死体を確認した瞬間に
光が消えていくのを感じた
戻れるのだ
完璧に閉じた世界へ
心地好い「ひとりきり」の暗闇へ
(2巻より)
長い時間誰かと一緒にいると、自分が自分でなくなってしまうと思うときがある。
「人といると疲れる」といえばそうであるが、疲れるという表現よりも、もっと不安の混じった感覚だ。
背中に望まない風船を取り付けられてふわふわとどこか知らないところへ飛ばされていくような感じ。
それは思考停止に近く、良く言えばネガティブに具体的なことをあれこれ考えなくなるということであり、大丈夫になっていく感覚なのかもしれない。
けれどそれは、少し引いた目で見ると、ごまかしに過ぎないと思ってしまう。
要するに、孤独な人、つまり少し前の自分とどんどん距離が開いていって、誰かに寄り添えなくなっていく感じ、自分を救えなくなっていく感じがあって、それは恐怖に近い。
「ひとりでいるよりも一緒にいるときの方が寂しい」とはこういうことなのだろうか…
…たぶん違う。それは他人とどうにかやっていこうという指向性を持つ人から出る言葉で、あくまでおれは自分のことしか考えていないのだ。
風船で空中をぷかぷかと漂っている状況はいつまでも続かないことを経験から知っている。
だから、いつか風船が割れて地上に落ちたときに歩き方を忘れてしまっていたらどうしよう、みたいなことを考えていて、つまりいつか必ずひとりに戻ってしまうことを確信していて、だからせめて知らないところに不時着する前に、自分の意志で帰るべきところに迷わず帰れるように、遠くへ行き過ぎてしまう前に「帰りたい」と思っている。
いつも、どこかへ帰りたい。
孤独を求め、孤独になることでなにかを補給しているように思う。
そのなにかとは、誰かといることで放出してしまったエネルギーと、誰かに寄り添う優しさと、人間の「ふかみ」なのかもしれない。
奥深い人間でありたい、簡単に分かられたくないという強迫観念がある。
そのきっかけはきっと、地頭以上のレベルのところに入った高校で、この人は奥深いなあ、宇宙を持っているなあと思う人にたくさん出会って、彼らに今でも憧れているからであって、
そして彼らにつまらない人間と思われるのを心底恐れてきたからだと思う。
誰かといる時間は自分にとって発表会のようなものだ。
どんどん注ぎ足していかないと空っぽの自分をお披露目してしまう。
注ぎ足すべきそのリソースは、孤独という空間からのみ発掘されるのだ。
健康とは、栄養と、運動と、睡眠と、あと「他者との関わり」から成ると勝手に納得している。
どれが欠けてもいけないが、4つめについては、肥大し過ぎても自分の場合不健康になる。
その塩梅はとても絶妙で、まだ定量化できない。
だから8時間×週5日他者と関わり続ける働き方はまだまだ自分には出来ないと思うし、誰かと2人で暮らすなんて尚更想像できない。
この時代、そうしなくても生きていけることは知っているけど、やっぱり不安で
不安は、絶対に嫌なのだ。
こういう生きることの根幹みたいな問題との向き合い方を、学校で教えてくれればいいのになあと思う。
いまの日本の政治を見ても思うことだけど
「平気な」人たちが指揮を取る社会って、誰かにとってはとても息苦しいよねえ

