無いものにびびる
公開 2024/06/04 17:51
最終更新
2024/06/04 17:51
6月4日
今日も仕事は夕方から。
午前中に井の頭公園でやりたいことがある。
こう書くとなんだかギター持って歌いにいくんか、という感じだがそうではなく、まあただの散歩みたいなものである。
駅のホームで電車を待つ。
ひとつ隣の列の先頭に、落ち着きのない様子のお兄さんがいた。
おそらくは自分と同じ20代後半か少し上くらい。
青いパーカーに青のキャップ、裾が汚れたベージュのゆるめのチノパン、ランニングシューズ、左右傾いたマスクと、かなり幼めの装いをしている。
知的障がい者だろうな、と思った。
小学校の通学路には障がい者支援施設があって、子どもの頃からすこし変わった人を目にすることは多かったし、
小中学校の特別支援学級の子たちが身近な存在だったから、街や駅にそういう人が一定数いるのは自分の中で当たり前のことになっている。
たまに、そういう人を物珍しそうに(または不審そうに)ガン見する人を街で見かけると、その人が育った環境では当たり前ではなかったのかな、と思う。
お兄さんがわりと大きな声で喋り出す。
「まもなく、3番ホーム、各駅停車、〇〇行きが、10両編成で、まいります。黄色い線の内側で、お待ちください。」
電車を待っている人たちは、一瞬スマホから顔を上げたけれど、慣れた様子で、すぐにまたスマホへ視線を戻した。
おれはお兄さんのアナウンスが素晴らしくハイクオリティだったので、「すげー、うまいな」と感心していた。
もしかしたら、本物のアナウンスだと思った人もいたかもしれない。
待っていた電車が到着し、自分は長椅子の一番右側に、お兄さんは一番左側に座った。
お兄さん「西武線をご利用下さいまして、ありがとうございます。この電車は、各駅停車、××行きです。……」
だんだん乗客が増えてきて、車内は割とぎゅうぎゅうになる。
会話をする人はいない。
隣の人と距離も近くて、なんとなく、声を出すのが憚られるような状況。
電車は出発する。
本物のアナウンスに先を越されまいとするように、またお兄さんお手製アナウンス。
「(自動音声っぽく)次は、△△、△△です。お出口は、左側です。〇〇線は、お乗り換えです」
「(車掌さんの肉声っぽく)あーお待たせいたしました、この電車は××行き、次は、△△です。〇〇線はお乗り換えください。次に4番線に参りますのは、8時××分発、各駅停車、××行きです」
「左のドアが開きます、ご注意ください」
それが満員電車の中で延々と続くので、おそらく周りの人たちは「うるさいな」と思い始めた。
誰も、何も言わなかったけれど。
自分も、なんとなくいたたまれなくなって、イヤホンで音楽を聴いて自分の世界に入ろうとした。
しかし、バッグの中にイヤホンが見当たらない。
家に置いてきてしまった。
結局、お兄さんは誰かに制止されることはなくひとりでアナウンスをし続け、自分もまたそれをひとり聴き続け、終着駅に到着し、全員が電車を降りて行った。
中央線のホームに立ち、考える。
この10分で、何が起きたのだろう。

お兄さんのひとりごとを、「聞いていられない」と思ったのは何だったんだろう。
彼は、誰かに危害を与える攻撃的な言動をしていたわけではない。
お兄さんのアナウンスはまるで本当の車掌さんのように洗練されたもので、むしろ心地よくて、全然聞いていられなくなかったはずだ。
あのお兄さんは、電車が大好きなんだろう。
もしかしたら小さい頃から、自分か誰かが録音した車内放送を聞いて、口ずさみ、完コピするまでそれを何度も何度も繰り返してきて、家族や周りの人も、お兄さんが夢中になっていることを認め、好奇心のままにやりたいことをやらせてあげてきたのかもしれない。
一方TPOをわきまえた振る舞いや空気を読むということが苦手で、純粋な心がそのまま行動に出てしまう人なのかもしれない。
そんな純粋な人が傷つくのを、見たくなかったのだろうか。
たぶん自分があのとき耳を塞ぎたかったのは、
「静寂な車内」と「ひとり喋り続けるお兄さん」というミスマッチが続く空間の、ほんのひと突きで壊れてしまいそうな危うさ・脆弱さに対してであったと思う。
もし誰かがお兄さんを制止したら、その誰かは怒りを滲ませてそれを言ったかもしれないし、そしたらお兄さんはきっとびっくりして、戸惑って、申し訳なさそうにしていただろう。そして車内中の乗客が、お兄さんに悪気がないことがわかっているからこそ、気まずさにいたたまれなくなっていたことだろう。
無関心が充満する車内で、突然人間の感情が姿をあらわし、自分の心もまた平穏でいられなくなることを恐れていたのかもしれない。
じゃあ、もっと大事なことだが、
どうして自分はそんな事態を想定したんだろうか。
つまりどうして、車内でうるさくする知的障がい者に誰かが怒って注意をするという状況が、起こりうると思ったのだろう?
実際は、何も起こらなかったのに。
きっと、
「この世の中は、公共の場で秩序を乱すようなことをすると、それが知的障がい者であれ、それに我慢ならない人がクレームをつける世の中である」
という固定観念が自分の中に根付いているからだと思う。
実際にはあの車内は、そのようにしんどい社会の生き写しではなかった。
自分だけが、この社会はそういう社会だと、決めつけていたに過ぎない。

最近どの同級生に会っても結婚が話題にあがるし、インスタを見ていると誰かの結婚報告ばかりが目に止まって、しんどいなあと思う。
結婚は本当におめでたいと思うし、幸せにしてくれよなと心から思っている。
でもこのしんどさは、それとは全く別物で、どちらもたしかに自分の中にあるものだ。
この間も、大学の同期が、7年間付き合っていた彼女にプロポーズをしたという報告をくれた。
ついに結婚するんだ、よかったね、おめでとう、彼女によろしく伝えてね
この種の話題で大抵きかれるのが
〇〇は最近どうなの?
これは自分もつい言ってしまうことがあるが、
どうして結婚に関して何かしら動いていることが前提であるかのようなことを言ってしまうんだろう。
結婚について考えるとしんどくなるのは、
結婚がひとつのゴールであるかのように、幸せになるため必ず目指すべきものであるかのように、諭されている気がするからだ。
そして、みんながその価値観のもとで人生を進めているような気がして、置いてけぼりをくらう感覚になるからだ。
だけど実際、誰もそんなことを言ってない。
結婚した方がいいとか、早く結婚してくれとか、そういうことを言う人は幸いにも自分の周りにいない。
結局、やはり自分自身が、結婚して幸せになるべきという規範を内面化していて、勝手に焦っているのだ。

おれは新卒で入った会社を1年で辞め、転職して入った会社も5ヶ月で休職したのち7ヶ月目で辞めて、今は個人事業主として働いている。
学生のときから、自分は組織で働くことは向いていないからそのうち独立するだろうな、と何となく思っていた。
でも、それは早くても30代以降だろうと見積もっていたし、20代は組織で揉まれ苦労をしながら、着実にスキルや経験を身につけていく算段だった。
実際は24の歳でドロップアウトして、思っていたよりもずっと早く起業することになった。
また会社員に戻る可能性も無くはないけれど、当分はないだろうなと思う。
やりたい自分の事業を持っていて、なりたい自分の姿が明確で、自分のオールで舟を漕いでいることは、かなり誇りに思っている。
でも、堅実にキャリアを積み重ねていく友人たちを見ていると、会社員としてうまくやれないことにコンプレックスを禁じ得ないし、そういうときには、この誇りが虚勢というものに表情を変えてしまう。
20代の非正規雇用やフリーターは決して少なくなく、正社員で働くことだけが生きる道ではない。
今の働き方が自分に合っていて、健康的だし、充実しているし、家族を心配させることもなくなって、この道を選んで良かったと心から思っている。
そうやって今の自分を肯定していながらも、20代のうちは会社で働いておいた方がいいという規範は、まだ覆せていない。
自分の周りにそんなことを言う人は、誰もいないんだけど。

まとまりのない文章だなあ、、
しかもなんか暗い感じになってしまったが、最近の気分は悪くない。
ただ俯瞰してみると、いつも自分が作り上げた妄想的規範が自分の首を絞めているなあということだ。
自分の問題だから、いつかどうにかなると思う。
今日も仕事は夕方から。
午前中に井の頭公園でやりたいことがある。
こう書くとなんだかギター持って歌いにいくんか、という感じだがそうではなく、まあただの散歩みたいなものである。
駅のホームで電車を待つ。
ひとつ隣の列の先頭に、落ち着きのない様子のお兄さんがいた。
おそらくは自分と同じ20代後半か少し上くらい。
青いパーカーに青のキャップ、裾が汚れたベージュのゆるめのチノパン、ランニングシューズ、左右傾いたマスクと、かなり幼めの装いをしている。
知的障がい者だろうな、と思った。
小学校の通学路には障がい者支援施設があって、子どもの頃からすこし変わった人を目にすることは多かったし、
小中学校の特別支援学級の子たちが身近な存在だったから、街や駅にそういう人が一定数いるのは自分の中で当たり前のことになっている。
たまに、そういう人を物珍しそうに(または不審そうに)ガン見する人を街で見かけると、その人が育った環境では当たり前ではなかったのかな、と思う。
お兄さんがわりと大きな声で喋り出す。
「まもなく、3番ホーム、各駅停車、〇〇行きが、10両編成で、まいります。黄色い線の内側で、お待ちください。」
電車を待っている人たちは、一瞬スマホから顔を上げたけれど、慣れた様子で、すぐにまたスマホへ視線を戻した。
おれはお兄さんのアナウンスが素晴らしくハイクオリティだったので、「すげー、うまいな」と感心していた。
もしかしたら、本物のアナウンスだと思った人もいたかもしれない。
待っていた電車が到着し、自分は長椅子の一番右側に、お兄さんは一番左側に座った。
お兄さん「西武線をご利用下さいまして、ありがとうございます。この電車は、各駅停車、××行きです。……」
だんだん乗客が増えてきて、車内は割とぎゅうぎゅうになる。
会話をする人はいない。
隣の人と距離も近くて、なんとなく、声を出すのが憚られるような状況。
電車は出発する。
本物のアナウンスに先を越されまいとするように、またお兄さんお手製アナウンス。
「(自動音声っぽく)次は、△△、△△です。お出口は、左側です。〇〇線は、お乗り換えです」
「(車掌さんの肉声っぽく)あーお待たせいたしました、この電車は××行き、次は、△△です。〇〇線はお乗り換えください。次に4番線に参りますのは、8時××分発、各駅停車、××行きです」
「左のドアが開きます、ご注意ください」
それが満員電車の中で延々と続くので、おそらく周りの人たちは「うるさいな」と思い始めた。
誰も、何も言わなかったけれど。
自分も、なんとなくいたたまれなくなって、イヤホンで音楽を聴いて自分の世界に入ろうとした。
しかし、バッグの中にイヤホンが見当たらない。
家に置いてきてしまった。
結局、お兄さんは誰かに制止されることはなくひとりでアナウンスをし続け、自分もまたそれをひとり聴き続け、終着駅に到着し、全員が電車を降りて行った。
中央線のホームに立ち、考える。
この10分で、何が起きたのだろう。

お兄さんのひとりごとを、「聞いていられない」と思ったのは何だったんだろう。
彼は、誰かに危害を与える攻撃的な言動をしていたわけではない。
お兄さんのアナウンスはまるで本当の車掌さんのように洗練されたもので、むしろ心地よくて、全然聞いていられなくなかったはずだ。
あのお兄さんは、電車が大好きなんだろう。
もしかしたら小さい頃から、自分か誰かが録音した車内放送を聞いて、口ずさみ、完コピするまでそれを何度も何度も繰り返してきて、家族や周りの人も、お兄さんが夢中になっていることを認め、好奇心のままにやりたいことをやらせてあげてきたのかもしれない。
一方TPOをわきまえた振る舞いや空気を読むということが苦手で、純粋な心がそのまま行動に出てしまう人なのかもしれない。
そんな純粋な人が傷つくのを、見たくなかったのだろうか。
たぶん自分があのとき耳を塞ぎたかったのは、
「静寂な車内」と「ひとり喋り続けるお兄さん」というミスマッチが続く空間の、ほんのひと突きで壊れてしまいそうな危うさ・脆弱さに対してであったと思う。
もし誰かがお兄さんを制止したら、その誰かは怒りを滲ませてそれを言ったかもしれないし、そしたらお兄さんはきっとびっくりして、戸惑って、申し訳なさそうにしていただろう。そして車内中の乗客が、お兄さんに悪気がないことがわかっているからこそ、気まずさにいたたまれなくなっていたことだろう。
無関心が充満する車内で、突然人間の感情が姿をあらわし、自分の心もまた平穏でいられなくなることを恐れていたのかもしれない。
じゃあ、もっと大事なことだが、
どうして自分はそんな事態を想定したんだろうか。
つまりどうして、車内でうるさくする知的障がい者に誰かが怒って注意をするという状況が、起こりうると思ったのだろう?
実際は、何も起こらなかったのに。
きっと、
「この世の中は、公共の場で秩序を乱すようなことをすると、それが知的障がい者であれ、それに我慢ならない人がクレームをつける世の中である」
という固定観念が自分の中に根付いているからだと思う。
実際にはあの車内は、そのようにしんどい社会の生き写しではなかった。
自分だけが、この社会はそういう社会だと、決めつけていたに過ぎない。

最近どの同級生に会っても結婚が話題にあがるし、インスタを見ていると誰かの結婚報告ばかりが目に止まって、しんどいなあと思う。
結婚は本当におめでたいと思うし、幸せにしてくれよなと心から思っている。
でもこのしんどさは、それとは全く別物で、どちらもたしかに自分の中にあるものだ。
この間も、大学の同期が、7年間付き合っていた彼女にプロポーズをしたという報告をくれた。
ついに結婚するんだ、よかったね、おめでとう、彼女によろしく伝えてね
この種の話題で大抵きかれるのが
〇〇は最近どうなの?
これは自分もつい言ってしまうことがあるが、
どうして結婚に関して何かしら動いていることが前提であるかのようなことを言ってしまうんだろう。
結婚について考えるとしんどくなるのは、
結婚がひとつのゴールであるかのように、幸せになるため必ず目指すべきものであるかのように、諭されている気がするからだ。
そして、みんながその価値観のもとで人生を進めているような気がして、置いてけぼりをくらう感覚になるからだ。
だけど実際、誰もそんなことを言ってない。
結婚した方がいいとか、早く結婚してくれとか、そういうことを言う人は幸いにも自分の周りにいない。
結局、やはり自分自身が、結婚して幸せになるべきという規範を内面化していて、勝手に焦っているのだ。

おれは新卒で入った会社を1年で辞め、転職して入った会社も5ヶ月で休職したのち7ヶ月目で辞めて、今は個人事業主として働いている。
学生のときから、自分は組織で働くことは向いていないからそのうち独立するだろうな、と何となく思っていた。
でも、それは早くても30代以降だろうと見積もっていたし、20代は組織で揉まれ苦労をしながら、着実にスキルや経験を身につけていく算段だった。
実際は24の歳でドロップアウトして、思っていたよりもずっと早く起業することになった。
また会社員に戻る可能性も無くはないけれど、当分はないだろうなと思う。
やりたい自分の事業を持っていて、なりたい自分の姿が明確で、自分のオールで舟を漕いでいることは、かなり誇りに思っている。
でも、堅実にキャリアを積み重ねていく友人たちを見ていると、会社員としてうまくやれないことにコンプレックスを禁じ得ないし、そういうときには、この誇りが虚勢というものに表情を変えてしまう。
20代の非正規雇用やフリーターは決して少なくなく、正社員で働くことだけが生きる道ではない。
今の働き方が自分に合っていて、健康的だし、充実しているし、家族を心配させることもなくなって、この道を選んで良かったと心から思っている。
そうやって今の自分を肯定していながらも、20代のうちは会社で働いておいた方がいいという規範は、まだ覆せていない。
自分の周りにそんなことを言う人は、誰もいないんだけど。

まとまりのない文章だなあ、、
しかもなんか暗い感じになってしまったが、最近の気分は悪くない。
ただ俯瞰してみると、いつも自分が作り上げた妄想的規範が自分の首を絞めているなあということだ。
自分の問題だから、いつかどうにかなると思う。
