ひゃくえむ。
公開 2026/02/14 22:23
最終更新
2026/02/14 22:38
色鉛筆で描いたような荒く砂っぽい質感の風景が印象的だった。とりわけ小学生時代の河川敷と終盤の夕焼けのシーンでは、その独特な風景描写があたたかみを出していて心に残った。
主人公のトガシは、小学生時代には虚無的で冷めた雰囲気を漂わせていた。ところが高校時代になると、他人との間に築いていた壁が消え、むしろ親しみやすささえ感じさせる人物に変化する。小学校時代の彼であれば、男女混合リレーへの参加など到底考えられなかっただろう。そして社会人になると、血の通った温かみのある人間性を獲得していく。陸上を通じて、主人公は「人間」になったのだと感じた。
対照的に小宮君は、小学生時代から社会人時代へと進むにつれて、人間としての熱さが失われていく。走ることだけを養分にして生きている、そんな印象を受けた。
高校時代のパートでは、レース時以外の日常の動き方がディズニーの白雪姫のように人間の動画をトレースしたロトスコープの技法が使われている。一方、レース中の描写では、線が筆のように太く荒々しくなっていく。人物の顔が画面いっぱいにアップになっても、その線の変化だけでゴールが近づいていることが伝わってくる、素晴らしい表現だ。
キャラクターが不安を抱えている場面では、線画が荒くブレる演出が使われている。原作でも同じ表現なのかは分からないが、観る側にもその不安感がダイレクトに伝わってくる。
ちょっと前の少年漫画のスポーツものにありがちなブッチギリの才能を持って無双する主人公ものではなく、「ダイヤモンドの功罪」のように主人公が才能のせいで孤立してしまうわけでもなく、それぞれの才能が交差するのがいい。
この作品は、少し前の少年漫画のスポーツものにありがちな、突出した才能で無双する主人公の物語ではない。かといって『ダイヤモンドの功罪』のように、才能ゆえに孤立する主人公を描くわけでもない。それぞれの才能が交差し、響き合う様子が描かれているのが良かった。
『ミュータント・タートルズ』とはまた異なる、コミック感や漫画のタッチを残した筆跡を感じられるアニメーションだった。
ちょうど今、ミラノ・コルティナオリンピックが開催されているので、現地での選手のインタビューを聞いていると、「ひゃくえむ。」のキャラクターたちとついつい重ねてしまう。4年間という長い月日に比べれば一瞬の勝負に向けて、毎日積み重ねてきた鍛錬をこの作品の鑑賞後だと考えずにはいられなくなった。
主人公のトガシは、小学生時代には虚無的で冷めた雰囲気を漂わせていた。ところが高校時代になると、他人との間に築いていた壁が消え、むしろ親しみやすささえ感じさせる人物に変化する。小学校時代の彼であれば、男女混合リレーへの参加など到底考えられなかっただろう。そして社会人になると、血の通った温かみのある人間性を獲得していく。陸上を通じて、主人公は「人間」になったのだと感じた。
対照的に小宮君は、小学生時代から社会人時代へと進むにつれて、人間としての熱さが失われていく。走ることだけを養分にして生きている、そんな印象を受けた。
高校時代のパートでは、レース時以外の日常の動き方がディズニーの白雪姫のように人間の動画をトレースしたロトスコープの技法が使われている。一方、レース中の描写では、線が筆のように太く荒々しくなっていく。人物の顔が画面いっぱいにアップになっても、その線の変化だけでゴールが近づいていることが伝わってくる、素晴らしい表現だ。
キャラクターが不安を抱えている場面では、線画が荒くブレる演出が使われている。原作でも同じ表現なのかは分からないが、観る側にもその不安感がダイレクトに伝わってくる。
ちょっと前の少年漫画のスポーツものにありがちなブッチギリの才能を持って無双する主人公ものではなく、「ダイヤモンドの功罪」のように主人公が才能のせいで孤立してしまうわけでもなく、それぞれの才能が交差するのがいい。
この作品は、少し前の少年漫画のスポーツものにありがちな、突出した才能で無双する主人公の物語ではない。かといって『ダイヤモンドの功罪』のように、才能ゆえに孤立する主人公を描くわけでもない。それぞれの才能が交差し、響き合う様子が描かれているのが良かった。
『ミュータント・タートルズ』とはまた異なる、コミック感や漫画のタッチを残した筆跡を感じられるアニメーションだった。
ちょうど今、ミラノ・コルティナオリンピックが開催されているので、現地での選手のインタビューを聞いていると、「ひゃくえむ。」のキャラクターたちとついつい重ねてしまう。4年間という長い月日に比べれば一瞬の勝負に向けて、毎日積み重ねてきた鍛錬をこの作品の鑑賞後だと考えずにはいられなくなった。
