気が弱い
公開 2024/03/16 17:14
最終更新
-
ふだんほとんどテレビを観ないんだが、こいぬとふたりきりのときはテレビをつけておくことにしている。神経質なこいぬが、静かすぎると余計にピリピリするからだ。
で、だいたいEテレをつけている。朝のテレビ体操をして、そのままにしてある。特に何のめあてもないのだが流しておくだけでかなり情報量が多い。一ミリも知らんハングル講座を観て「パッチム……て何?!」て思ったり、番組を卒業するひとの涙を見てもらい泣きしたり、ねんどをこねるおねいさんが職場のお局に似てるな……とひとりでウケてたりする。
で、そのうちのひとつに、東日本大震災のときの原発事故で被曝した肉牛を、飼育しつづけているひとの特集があった。
人間の都合で命を切り捨てていい、という考えを否定したいのだとそのひとは言った。私は牛が好きなのでそうだそうだと思ったが、とは言え肉牛としての商品価値をうしなった数百頭の牛たちを養っていくのはたいへんなことだ。ほかの多くの牛たちは餓死したり、生き延びても殺処分されたりしたそうだ。
牛が死ぬのはかなしい……。
しかし、では震災のときに牛たちを置き去りにしたひとを責められるだろうか。殺処分に同意したひとたちを責められるだろうか。私が人間ぎらい過激派だったら「そうだ! 人間は死んでもいいから動物を守れ!」と言えたかも知れないが、そこまでじゃない。
(そもそも過激派だったら、人間の肉食のために牛を育てて殺すな! という向きもあるかも知れん)
あの震災のとき、牛だけではなくさまざまな動物たちが置き去りにされたと聞いている。うちにもこいぬがいるので、何かあったときどうするだろう、とは常々不安になる。動物を置き去りにしていったひとたちに、あなたがたは命を切り捨てたんだと言えるだろうか。私は言えない。だってたぶんそれは、置いて行った本人がいちばん思ってる。
被曝した牛たちを飼育しつづけることが、いいのかどうか私には分からない。牛たちがどう思ってるのかは知りようがないしな。世のなかには、何が正しかったのか、最良だったのか、確かめようがないことがとても多い。そういう確かめようのないこと、意味がないと思われるようなことをつづけていくには、やはり強固な意思、「絶対にそれだけはやらない」という強烈な否定が必要なのだ。
仮に、じぶんがおなじ立場になったら、おなじことができるかと考えると、たぶん無理で、周りもおなじように、泣く泣く殺処分に同意したのだと言われたら、私もそうしなくてはならない、と考える気がする。じぶんの「絶対にこうはしたくない」という意思のために、どれだけ周りを否定できるだろう。どれだけ「仕方ない」という気持を、「みんなだってつらいんだ」という気持を否定できるだろう。そうして、何を考えているのか分からない動物たちのために、どこまで意思を貫けるだろう。どちらをえらんでも苦しく救いがないとき、いったい何を、どういう意思でえらべるだろうか。
とかなんとか流し見していただけでメチャクチャ考えこんでしまうので毎日テレビを観ていたらほかに何もできないな……と思った。
ところで鳥インフルエンザに感染した鳥たちを殺処分するときなども必ず抗議や非難があるらしい。去年うちの地元でクマ祭りがあったときも、クマを殺すなとかなりのクレームがあったようだ。私も鳥やクマが好きなのでそうだそうだと言いたいが、じゃあその鳥やクマを養っていけるかと言われたら絶対に無理だ。私はこういう無責任なクレーマーがだいきらいなのだが、クレーマーは死ね! とも言えない。気が弱いのだ。
で、だいたいEテレをつけている。朝のテレビ体操をして、そのままにしてある。特に何のめあてもないのだが流しておくだけでかなり情報量が多い。一ミリも知らんハングル講座を観て「パッチム……て何?!」て思ったり、番組を卒業するひとの涙を見てもらい泣きしたり、ねんどをこねるおねいさんが職場のお局に似てるな……とひとりでウケてたりする。
で、そのうちのひとつに、東日本大震災のときの原発事故で被曝した肉牛を、飼育しつづけているひとの特集があった。
人間の都合で命を切り捨てていい、という考えを否定したいのだとそのひとは言った。私は牛が好きなのでそうだそうだと思ったが、とは言え肉牛としての商品価値をうしなった数百頭の牛たちを養っていくのはたいへんなことだ。ほかの多くの牛たちは餓死したり、生き延びても殺処分されたりしたそうだ。
牛が死ぬのはかなしい……。
しかし、では震災のときに牛たちを置き去りにしたひとを責められるだろうか。殺処分に同意したひとたちを責められるだろうか。私が人間ぎらい過激派だったら「そうだ! 人間は死んでもいいから動物を守れ!」と言えたかも知れないが、そこまでじゃない。
(そもそも過激派だったら、人間の肉食のために牛を育てて殺すな! という向きもあるかも知れん)
あの震災のとき、牛だけではなくさまざまな動物たちが置き去りにされたと聞いている。うちにもこいぬがいるので、何かあったときどうするだろう、とは常々不安になる。動物を置き去りにしていったひとたちに、あなたがたは命を切り捨てたんだと言えるだろうか。私は言えない。だってたぶんそれは、置いて行った本人がいちばん思ってる。
被曝した牛たちを飼育しつづけることが、いいのかどうか私には分からない。牛たちがどう思ってるのかは知りようがないしな。世のなかには、何が正しかったのか、最良だったのか、確かめようがないことがとても多い。そういう確かめようのないこと、意味がないと思われるようなことをつづけていくには、やはり強固な意思、「絶対にそれだけはやらない」という強烈な否定が必要なのだ。
仮に、じぶんがおなじ立場になったら、おなじことができるかと考えると、たぶん無理で、周りもおなじように、泣く泣く殺処分に同意したのだと言われたら、私もそうしなくてはならない、と考える気がする。じぶんの「絶対にこうはしたくない」という意思のために、どれだけ周りを否定できるだろう。どれだけ「仕方ない」という気持を、「みんなだってつらいんだ」という気持を否定できるだろう。そうして、何を考えているのか分からない動物たちのために、どこまで意思を貫けるだろう。どちらをえらんでも苦しく救いがないとき、いったい何を、どういう意思でえらべるだろうか。
とかなんとか流し見していただけでメチャクチャ考えこんでしまうので毎日テレビを観ていたらほかに何もできないな……と思った。
ところで鳥インフルエンザに感染した鳥たちを殺処分するときなども必ず抗議や非難があるらしい。去年うちの地元でクマ祭りがあったときも、クマを殺すなとかなりのクレームがあったようだ。私も鳥やクマが好きなのでそうだそうだと言いたいが、じゃあその鳥やクマを養っていけるかと言われたら絶対に無理だ。私はこういう無責任なクレーマーがだいきらいなのだが、クレーマーは死ね! とも言えない。気が弱いのだ。
車の運転と犬が好き
他人に話すほどでもなく日記に書くほどでもないメチャクチャどうでもいい話と過去の習作置き場です
「いま私は静かにしている」はいちおう連作ですが、それぞれの話につながりはないです
他人に話すほどでもなく日記に書くほどでもないメチャクチャどうでもいい話と過去の習作置き場です
「いま私は静かにしている」はいちおう連作ですが、それぞれの話につながりはないです
最近の記事
タグ
