いつかの秋
公開 2010/12/02 22:15
最終更新
2025/07/06 09:02
夜が長くなったと私は言って障子を閉めるべく立ちあがった。窓越しの空に雲はなく、欠けゆく月が置き去りにされた檸檬のように浮かんでいる。小林は傍らの一升瓶に手を置いて、足を投げ出すように座っていた。何度か声をかけたつもりだったが曖昧にでも相槌を打ってくれればいいほうで大方はそのまま私の独り言として消えた。こういう小林はめずらしい。ふだんは飲むほどに舌鋒鋭くなると評判で、最近では言葉でねじ伏せられるのを恐れて近寄りすらしない若いのが増えているとも聞くのだが、きょうの小林は酒の相手をしろと呼び寄せておきながら手酌でぱっぱと盃をあおり一人むっつりと黙りこんでいるのである。仕方なく私は、そう言えば、と切り出した。きょうは、先生の命日だね。すると彼は親指で撫でていた瓶のくちをぽん、と外し、中身を盃に注いだ。最後の一滴がぽたりと落ち、ありゃあ、いいひとだった、と呟く。ああ、と私は頷いて障子を閉める。さほど親しいわけでも、共通の趣味があるわけでもない私たちが、お互い「先生」と呼ぶのは一人だけで、今夜こうして私が招かれたのだって何も特別話したいことがあるわけでなし、ただ、いまは亡きひとの思い出を偲ぶのに、一人では気恥ずかしかったのだろう。いいひとだった、と重ねて言い、あれだけのひとはもう出てくるまい、と彼は頷く。きみはほんとうに先生が好きだった、と声に出したつもりはなかったのだが、ふと小林が私を不思議そうに見て、ようやく少しだけ、整ったくちもとを曲げてみせた。きみにすら、そう察せらるることをあの先生は半分も分かっちゃいなかったろう。皮肉るような調子だったがその目は寂しく澄んでいた。そんなことはない、あのひとはただ、最後まで照れていただけなのだと、言葉が喉もとにこみあげたがついぞ私はそれをくちに出来ず、燗をつけるために立ちあがった彼のやけに細いくるぶしを見ながら、いま私は風の音を聞いていた。
車の運転と犬が好き
他人に話すほどでもなく日記に書くほどでもないメチャクチャどうでもいい話と過去の習作置き場です
「いま私は静かにしている」はいちおう連作ですが、それぞれの話につながりはないです
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