よろしくスパイダー
公開 2010/10/06 22:14
最終更新
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ある日、蜘蛛に名前をつけた。くも彦。私は「彦」の字が好きだった。蜘蛛は、きらいだった。だが家蜘蛛はころすなと言われて、びくびくしながらもその様子を遠巻きに眺め、少しでも愛着がわくようにと名づけたのだった。くも彦は専ら夜に現れては私をおどろかせた。小指の爪ほどのささやかな体格であるにもかかわらず、かれの存在感は凄まじかった。くも彦はおどろくべき跳躍力で移動し、その動きは大胆かつ周到で、少なくとも私の数十倍はすぐれた生物だった。かれが現れるたびに私は驚愕し、怯えながらその行動を見守り、寝床に入られたときにはべそをかきながら雑誌の先で追い払った。概ね私はくも彦にかしずくように暮らしていたが、それでも、その姿を見かけない夜はなんとなく物足りなかった。寝ぼけて水をのむときに、いっしょにのみこんでしまっても気づかないだろうと思った。誤って踏んでしまっても、掃除機で吸いこんでしまっても、きっと分からないだろう。私は恐怖とおぞましさに震えながら図鑑をめくり、くも彦がハエトリグモと呼ばれる蜘蛛の一種だと知った。ハエトリグモのほとんどは、一年足らずでしんでしまうことも知った。くも彦を、私はわすれるだろうと思った。ほかの蜘蛛とは見分けられないだろう。名づけたことを少しだけ悔やんだ。勝手に名前をつけるのは、昔から私の悪癖である。そうすることで私は、名づけたものを勝手に私の世界に所有する。一方的な振る舞いだ。けれども私はいつもそうすることでしかじぶんを慰められなかった。くも彦、ころしてしまったらごめんね、勝手に名づけてごめんね、わすれてしまったらごめんね。感傷的にそう呟いたあとで、くも彦は私を恨んだり憎んだりしないし、そもそも私のことを知らないだろうと考える。いま私は、まだくも彦をおぼえている。
車の運転と犬が好き
他人に話すほどでもなく日記に書くほどでもないメチャクチャどうでもいい話と過去の習作置き場です
「いま私は静かにしている」はいちおう連作ですが、それぞれの話につながりはないです
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