時にときめく 4
公開 2026/03/20 07:51
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誠の信条は「忠恕(ちゅうじょ)」だった。小学校の卒業担任が誠に相応(ふさわ)しい言葉をあげようとノートにしたためてくれた有難い文句だ。真心と思いやり、素直に納得の行った誠は以来、事ある毎にこの言葉を自分の信条として公にしてきた。だから、二人の間に(いや、自分の側だけでも)いかに固い約束があっても、また、たとえ心砕いて接しはしないと決めた百合花であっても、無碍(むげ)な返答はできなかった。それで次のように言葉を手繰(たぐ)り出した。熟考(じゅっこう)した割にはどぎまぎしながらだったけれど。
「藤野さん、それは拙いよ。家族の人に内緒なんて……」。
「? ……何言ってるの。家族が留守って誰が言ったのよ」
「?! ……お墓参りに行く家族に、自分は勉強があるから留守番するわって言うのはアルアル、でしょ? 僕もそうするだろうから。……その隙を衝いてというのは公明正大じゃないと思った……勘違い? いやあ……」
「清州君、何言ってるの? なんかエッチ」
「えっ! ちょっと待ってよ。一緒に勉強しようってことでしょ?」
慌てる誠も、思ったままの使い辛い言葉を吐いてしまって赤面する百合花も、それぞれの謂(い)いが勘違いされたことに気付いた。
「もう、知らない!」
 と言うが早いか、百合花は誠の傍らを過ぎて父親の車目掛けて駆け出した。
「待って!」と誠は鋭い一声を投げ掛ける。周囲にいる者たちの手前、今一緒にいながらも、いや、一緒にいたからこそ「藤野さん」とは呼べなかった。尤も名前を呼んでも彼女は止まってくれはしない。ここはどうしたって追い掛けるのが筋だ。けれど誠の足は一歩も出なかった。車に乗り込む直前に彼女がこちらを向いた気はしたけれど……。
誠は狼狽(ろうばい)した。そもそも「遊びにきてくれる?」という言い方は百合花のような綺麗な子の常套(じょうとう)手段と了解はできても、「家」に呼ばれたという事態が誠には初のことで衝撃が肌を泡立たせ、心の臓の周期を速めた。つい数分前まで覚悟を見せていた筈の誠は早、何処かにぶっ飛んでいた。    
一方、父の車に逃げ込みシートに躰(からだ)を埋(うず)めたところで、誠の動揺振りが百合花をにんまりさせた。大胆な招待を堅物(かたぶつ)の誠がどう受け止めるか興味があった。試してみたくさせる魅力があった。するとあの反応である。自信家の彼女をまんまと微笑ませたけれども賢い筈の誠の頓珍漢な回答は一体何だったのか。何と破廉恥(はれんち)な、瞬時に彼女の頭に浮かんだこと、浮かべられたこと……「穴があったら」どころじゃなく、マグマに飛び込んだ。慌てて逃げて車に飛び乗った時点で手足を捥(も)がれた状態に陥った、さきほどの笑みが嘘のように茹(ゆだ)って両手で顔を扇いだ。
だけど誠が一向に追って来なかったのはなぜだろう。ひょっとしてわたしと同様「捥がれちゃった?」、でも、あの勘違いは無いわよねぇ。
残された誠は佇んでいた。一旦は熱意なく彼女の隣に座れる自分に自信を持てていたのに、その覚悟はものの見事に消え去り、のぼせていた頃の自分に切り替わった。あの頃だってお互いの家にまで踏み入れることは無かった。そこまで行かぬでも自分は我慢できる、恋が芽生えても「成就」までは望まぬ、まだ中学生じゃないか。好きになることと惚れることとは違う。確かにぼうっと彼女を眺めた。これが恋か、ときめきか。恋人同士になったら毎日デートしてもときめきは消滅(しょうめつ)しないものなのか。それなら自分の思いはその段階に至っていないと判断された。そもそも自分は一対一で女の子とどこかへ遊びに行ったことが無い。だから初めて耳にした誘いの言葉に動転するあまり、あまりと言えばあまりの恥辱的な勘違いをしてしまったのだろう。それも羞恥を増幅させる諫言(かんげん)まで弄(ろう)するほどに……。
おとなには程遠い自分だから、どんなに好きな子ができても自身が腑抜(ふぬ)けになるほどでないなら思いを結晶化すべきではない。そう、そこまで沸騰(ふっとう)してこそ初めて永遠なる愛を獲得するものではないか……、なのにその決意、覚悟はかくも軟(やわ)なものだった。何たることだろう、仮初(かりそめ)の忠恕を傾けることは時に相手を侮辱(ぶじょく)することにもなるとの教えを刹那に思い出したというのに……。頭でっかちの意外な面を見せつけられた百合花は車内で憤懣(ふんまん)やるかたない心情を持ち扱いかねたろう。自分のことをどう思って誘ってきたのか。果たして呼ばれた理由は何だったのだろう。ひょっとすると他にも呼ばれた者がいるのかも。いや、一対一の男女交際? 自分の頭はそんな俗っぽい雑事に占められていたのか、勘違いも甚(はなは)だしい。エッチ? そうかも知れない。いや、そうだと開き直るとしたらどうだ? 
それよりも自分の普段を知れば、家に呼んでも応じぬ人間ではないと百合花は判断できなかったのか。そうとすれば自分を低く評価していたものだ。ところがその評価、当たらずとも遠からずであったのが悔しい、情けない。招待に応じたい底意(そこい)があったのを伏せて、それを堪(こら)えながら明後日(あさって)の方角の応答をしたのだった。しかも、その時には考える余裕が無かったけれど、もし承諾した場合には次の問題が出来(しゅったい)する。経験値の無い誠は当日百合花の家でどんな行動を取ればいいのか、多分慌ててミスをする。その際の焦慮や不安も想像するに難くなく、これまで無難にこなしてきた矜持(きょうじ)が瓦解(がかい)の憂き目に遭うかも知れない。
とまれ、初めの失態の修復を怠って、結果、取り戻しの付かぬ大事に至ることはよくある。後で電話して謝ろうと殊勝に心を決めて、父親の待つ車に乗るとすぐさま怒号を浴びた。
「誠、いったいどれだけ待たせる? 女の子といちゃいちゃする為の塾通いなのか? 親に土下座してまで通わせてくれと言った、あの時の言葉、よもや忘れたわけじゃないよな」
ぐうの音も出ない。正に弱り目に祟(たた)り目、平身低頭をひたすら徹(とお)すばかり。
ただ最後に「後で謝っておけ。女の子の心は良くも悪くも深いものだ、届けられなかったらどうにもならなくなるぞ」との言葉はついぞ無かった父からの有難い言葉であった。けれども、「別に深い仲じゃないし……」と誠は最後まで毅然とした態度が取れなかった。

その夜、受話器を取る勇気が出なかった。電話を掛けるには相応しくない時刻となって救われた気になる阿呆だった。大ごとに扱えば却って向こうも要件を切り出しにくくなるではないかとか、誠が思うほどには百合花は気にしてはいず、切り出さずに立ち去ったのは駆け引き上手な手管だったのかも知れないとか、考えることは自分の都合のよいものばかりで、暗い想像をしなかっただけ自分は強くなったとも思えて、百合花との間に起こることにはいつか慣れてきていたのかと考えながらも電話機は遠かった。
翌日、さり気なく「こんにちは」と言って隣に座ってきた百合花に、誠も「やあ」とだけ応じて素知らぬふりで様子を窺っていたら、リュックから小さな水色の封筒を取り出し誠の机上に置いた。手紙? なんて古風な手段を取るのかと驚き、直ぐに奪い取るようにして膝上に隠した。百合花が怪訝な表情で手紙を指さし次に読書するジェスチャーをしたから、誠も読書サインを返したが、それでも封筒は膝上で開いた。糊付けすらしていない。

八月八日
清州くん                  
 昨日はごめんなさい。ひょんなことで用件を具(つぶさ)に言えませんでした(清州くん
にも責任はありますよね)。
手紙なんかにすると清州くんが構えてしまいそうで……口頭で招待しようと思
っていたのに……、でも、形を残すのもいい気がしました。

私、百合花は来たる八月十四日、満十五歳の誕生日を迎えます。ついてはそ
の祝宴の席に君を招待致します。午前十一時にはお越しください。
 
ね、構うちゃうでしょ。これからは普段の調子で書くわ(だけど「招待状」な
んだからいい加減に読んじゃダメよ)。
幼稚園の頃から仲良しグループ四人で誕生日会に招待し合ってきたんだけど、
今年は新井朋美ちゃんと相良綾子ちゃんの二人がご家族で遠くへ墓参に行くんだ
って。恐らく受験前ということもあるんじゃないのかな。それで武藤美香ちゃん
一人では却って負担を掛けるから今年はうちの家族だけですることにしたのね。
そしたら父が「代わりにボーイフレンドを呼んだらどうだ、一人くらいいない
  いのか」、なんて言うじゃない、だから今一番仲良くしている清州くんを呼ぶこ
とにしたわけ。迷惑だとは思ったけど私のお願い、承知してくれるよね。
返事は明日の塾でOKサインを。都合が悪い場合は「シェー」してください。
                      藤野 百合花

こちらを窺う百合花が見えるのだから、相手の気持ちと立場を考え、ひとまず誠はOKサインを机下から控えめに送った。もし、不都合の「シェー」だったら、どう控えめにできたろうか。これじゃ最初から断れないよう企んだとも言える。したたかな女の子の業(わざ)と見抜いたけれど、軽く頷いてにっこりした百合花を見ると、たちまち、事情があっても断らなかったろうとにやけてしまう。それ以上の何かを望んだわけもないが、百合花は実に捌(さば)けていた。昨夜の自分の苦悶(くもん)はいったい何だったのか。取り越し苦労の性格は改善せねばならない。
八月十四日とは随分暑い中で生まれたんだなと意味なく思った。女の子の「誕生日会」かぁ、隣のカヨ坊が幼かった時のそれに呼ばれて以来のことだよなあと比べようもないのに考え込んだ。ボーイフレンドを呼んだらと言った父親の酔狂(すいきょう)に百合花がまんまと嵌(は)められたということだろう。初めはいないわと拒否したのに、母親も乗じて唆(そその)かしたのじゃあるまいか。白状させられた格好で僕は出向くのか? 当然、誠実で成績優秀、塾でもいろいろ教わっていると紹介したのだろう。だってそれ以上の付き合いは無いのだから。……一旦、想像が始まると止まらない。反省した思いなど構っちゃくれないのだ。自我の分裂症状だ。
ひょっとしたら返事の仕方が軽過ぎていい加減な印象を与えなかったろうか。いかなる血の迷いだったろう、普段の自分らしくなかった。きちんとした「交際」は高校合格後にと約束したことはまさか漏らしていないだろうな。自分が咀嚼(そしゃく)し切れていない合格前後の二人の在り方、そんなことは横に置いての「お呼ばれ」? さして気を遣わぬでもいいのかも知れない。友達を招いてのものなら美帆もやってるけれど、小学校三、四年生のものとはどう違うのだろうな。団栗の背比べさと軽くあしらえはしまい、判断材料も根拠も持ってはいないのだから。当日までまたも煩悶(はんもん)するのだろうなと沈着を欠く最近の自分を惨めに思った。十四日の日曜日か。そわそわする気持ちを先ずは落ち着けよう、どの道、返事したのだからジタバタしても始まらない。そう腹を括(くく)って講義に頭を切り替えた。

……あん時ゃしんどかったなあ(こう思うのも当時の自分に立ち戻ってのことで、老年を待ち受ける親父としては余裕しゃんしゃん楽しく少年劇を眺めているのだ)。何しろ「受験合格後から交際を」と期限を切られて、だんだん気重になってきた当の子の招待だし、その枠に押し込まれちゃ嫌だと思い始めた矢先の意想外の誕生日会というのだから、どう考えても仕組まれたようで、或いは天の悪戯のようにも……正に雪の雷だった。
確か前日の土曜に母親の買い物に付いて街に出かけた。誕生日プレゼント購入の為だったけれども、彼女の趣味も好みも知らずに何を選べばよいのか、その前に何を持っているのかも知らないでは買い様も無かった。窮余の末に、女の子の誕生日会だと母親にだけは明かし、父親や妹には内緒にして欲しいと切に頼んだ。でも、結局は猫のオブジェの可愛い背板(せいた)の目覚まし時計に決めたのは誠だった。母は母で人生初のお呼ばれなんだからとお洒落っぽい空色の半袖シャツを買ってくれた。ケーキは出るだろうからフルーツ飲料はどうだい? などと「初のお呼ばれ」を我がことのように喜んでたっけ。もういいよと母の背中を押した時に随分堅いな、ストレスなんかあるのかなと感じたのを覚えてる。今思えば、それが生きてる母の体に触れた最後だった(還暦前に癌で亡くなった)……

「遊びにきてくれる?」という百合花の軽い言葉を記憶している。そう言うからにはクイズとかゲームとかをやるのだろう、ならばジャージかTシャツでいいんじゃないかと見当を付ける。洒落(しゃれ)た祝いの言葉を考えておくべきだろうかと思った時に、既に充分制御されている間柄だったのかと釈然(しゃくぜん)としない気持ちになった。同時に自分が言動を制約されることに随分(ずいぶん)拘(こだわ)る性格なのだと痛切に感じた。思い起こせば何かを任され、やり遂げては褒められ感謝されたりしていい気分を味わうことが多かった子供時代への反動なのだろうか。一体いつからこんな気持ちが燻(くすぶ)り始めたのか。何だか不愉快な人間になったようで落ち込む日が少なからずあった。だから中学校卒業を機に自分の殻を破ってやり直そうと決意したのは事実だ。高校生になれば人間的な幅を広げ、飛躍的な成長を遂げられると夢を見た。本望(ほんもう)ではないのに一気に別次元に掬い取られ呆然(ぼうぜん)としながら結果オーライで気が楽になるなんていうことが人生にはままあるのではなかろうか。それは世界が自分を中心に回っていないことの証であり、だからこそ自力で解決できない窮地(きゅうち)にある者は「時」が解決してくれるという甘言で慰撫(いぶ)されるのかも知れない。それを拒みはせずとも我が道は自分で切り開きたいとの思いが次第に強まっていた。
誕生日プレゼントの決定に難儀し、ついに追い詰められて母にだけ打ち明けてしまった土曜日の、その二日前に、実は帰宅した父親から青天の霹靂(へきれき)、転勤話が持ち込まれていた。
α支店の偉い方が突然死しての玉突き人事で、いわゆる栄転の由。なれば四の五の言わず母親は喜んだし、受験生の誠も命じられれば了解と簡単に返事した。小四の美帆一人が友達と別れると聞いて涙腺(るいせん)を暴発(ぼうはつ)させた。それを母が胸に抱き込んだ、可愛いものだ。誠はどうするのと改めて聞かれて、地方都市から別の地方都市への転校なら受験先の考え直しくらいだと表向き口にしたが、内面では百合花のことを真っ先に考えていた。受験はもう半年に迫っている、新天地に行っても塾に入るのは当然のことで、益々真剣みを要求されるだろう。隣に座る百合花を不都合な存在に思い始めてもいたけれど、寧ろ勉強する励みとなる存在だったのも事実だった……、そこまで思考展開してハッと思ったのは既にして過去形を使っていたからだ。もっと先を考えると気持ちの負担になるかも知れないと弱腰になっていた心理を考慮すれば、この際、少し遠ざかるのは天恩と感謝するのが正直な心であった。「少し」は彼女と近しく接せられなくなる思いからすれば妥当しない、高々北海道の中でのこと、また、ゴールを目指す者同士の半年間を指してのものだったが、合格後も地理的に離れて生きていく現実を誤魔化していたのかも知れない、高校三年間は離れていても百合花との縁が運命的なものであれば大学で再び遭えるかも知れないではないかと本気で思ったところもあった。いずれにしろ情緒的に理性を欠くことなく極めて冷静に考えられたことが自分をホッとさせもした。
天からの恵みと思い切るほど自信の持てない心弱き男だとは自分が一番知っている。正直、転勤の話を聞いた時に即座に転校もいいかと思えた。ところがいくら考え込んでも「事実」に変化は無いのに、気楽に現実が呑み込めなくなった。ほっとしたのは本音で、だから願ったり叶ったりと思った筈なのに、引っ掛かる感じが頭のどこかにあった。いざ百合花との関係を断つと意識した途端、止せばいいのに彼女の折々の表情を蘇らせた。胸がこれほど痛むものと初めて知る。胸に閊(つか)えて膨満するのをどうにも処理できかねる時が増える。煮え切らぬ奴だと唾棄すべきなのに……。実らぬことの多い悲しい「初恋」は人生における一つの節目、中学卒業の前に越えねばならぬ節目なのだとも思えた筈なのに……。
だから、日曜当日の誠の心はカオスに叩き込まれ未だ出口を見つけられぬまま酸素吸入管を咥(くわ)えてアップアップしているような塩梅(あんばい)だった。玄関を出る時の暗く冴えない顔つきは眩しい光を放つ天(あま)つ神の敵、その光の刃を必死に堪えていた証しであった。突如決まった転校のことを打ち明けるべきか。実は特別人事の今回は七月末の引っ越しまで内示扱いだから学校にも伏せてもらう方がいいだろうと父が言い、塾も同様ねと母が肯(うべな)った時に、百合花とも別れらしい別れなく去るのは運命だから仕方が無いのだと弁明するために。正直浮かんだ安堵は悟られてはならぬ、それは取りも直さずお互いのためなのだから。どう切り出せばいいのか、誠には見当も付かぬほど悩ましく辛いことなのに「時間」は解決どころか徐々に辛さを増大させてくれるのだった。誠意を尽くして打ち明けるのが正しいに決まっていても百合花に与える衝撃を少しでも和らげられるならそれに越したことはない。だが自分にその巧みさは無い、だから打ち明けずに去るのが良策なのだ。
何度も逢着した答えが段々濁りを帯びてきた。百合花のことを案じる以上に自分の居た堪れなさを回避するのに好都合だからではないかと。誕生日会にそぐわぬ話題を初めに切り出すのは拙いだろうし、かと言って心地よい閉会時に言うわけにもいかない気がした。彼の地へ行ってから電話や手紙で知らせる手もあろうがそれは卑怯に思えたし裏切り者のレッテルを自ら貼る気もした。百合花の家に着くまでの思案投げ首は卑劣な意識が足取りを重くした。もはや百合花の誕生日会など出席するに相応しくない心情だった。途中に公衆電話はなく元々金も持っていない(昭和時代に勿論ケータイなどという軽敏なものは無かった)。だが、百合花の心を優先するなら恥を忍んでも荊(いばら)の席に着くべきだとの愚かな潔さもある。誕生日会に臨む前の緊張、戸惑い、懊悩(おうのう)はやはり百合花が好きだからであり、自分の責任でなくとも逃避するような事態になった今にしてその気持ちを伝えることは卑怯だと思った。来春の合格後の交際などもうあり得ぬことで、ここは好きな女の子を慕いながらも諦めることが、遥かに広い未来に向かって適切な道を辿(たど)ることになると思えたことが気持ちを幾分(いくぶん)か楽にした。が、その「幾分」で直ぐに次のような思考に移せた自分をどう捉えよう。“もし伝えられたら、藤野さんは泣いてくれるだろうか。しょってるかも知れないけど合格後の交際を約束した仲なのだから涙しないわけはない。しかし、自分はどうだろう。彼女が自分の身近にいなくなることが心を苛(さいな)む。けれど、時間が経つに及んでそれも希薄となり、やがて藤野さん以上に魅力的な女性と対面するかも知れない。人生とはそんなものさ”と嘯いたのを。矛盾を押し切る鉄面皮をいつ手に入れたのか、そんな自分を唾棄したくもなった。
事態の軽重(けいちょう)を誤るほど誠の神経は疲れていた。だから最後は若さで立ち上がる。散々行ったり来たりと苦悩してきても心も頭もちっとも晴れ間が見えてこない地獄、またいつもの無意味な堂々巡りの思考回路に入ったと充分理解ができているのにそこから逃れられずのたうち回る地獄を誠は味わったと思う。しかし、それも今日で停止でもう後戻りはできぬほど百合花の家に近づいていた。それでも整理しなければ、整理しようと誠は藻搔き、最後は観念して丹田に力を入れる。いかに時間が経っても思い出すたびに心を痛めるかも知れない。けれど、高校、大学の青春期に入ればもっと熾烈(しれつ)に欲望と理性との鬩(せめ)ぎ合いを通して愛というものを獲得するのではないか。そう考えれば今の自分の立ち位置が見えてきて細やかでも気を紛(まぎ)らわせられた。……真実、薄っぺらな感情の舞い上がりに過ぎなかったと反省するのは賢明ではない。しかし、僕はまだまだ若い。これからが時空間の広がる中で己を磨き成長して行かねばならないのだ。とすれば今は冷たく思われようと涙を振り切って歩んでいくべきだ。会うは別れの始まりともよく聞く。確かに涙する百合花を想像すれば自分がどうしようもない奴だとも思える。忠恕はどこへ行ったか。気分、感情、感覚を優先する生き方を否定してきたのは一体誰か。そもそも矛盾を含み持っていた自分を棄捨(きしゃ)するより、今日は笑顔で百合花と会おう。
それにしても、悶々と思い悩む性格は一度考え始めると際限無く自分を追い込む。それでいて明解な回答には辿り着けないのだが、そんな際にも他者と会う時には爽やかな笑顔を取り繕える自信がかつての誠にはあったけれども、今回ばかりは目は充血し下瞼(したまぶた)の隈はどうにも隠しようがなかった。
馬齢重ねて……若人等に紛れて文字に遊び親しむ……未だにそれが楽しくて……貴ブログにも手を引いて貰いました。

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