星にときめく ……あえかなる誠の往交記
公開 2026/03/12 22:49
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☆連載Start☆ ……本日より1日置きに送信す
星にときめく……あえかなる誠の往交記
高柳 龍
1
ずっしりと腹の上に覆い被さるものがあって身動きが取れない……その不快さに両腕で押し上げる。意想外の柔らかな感触に驚いて手を緩めた時、目が開いた。
うわっ! なな、なんだよ……
沈着冷静が信条の一つである自分が瞬時にそれを見失い、それでも辛うじて目で捉えたことがある。ここが自分のベッドでないこと(どだい堅過ぎる)、紛れもなく屋外であること(その「重し」以外は肌にひんやりとしている)。いや、それより本領を裏切る身も蓋(ふた)もない叫び声を発したことに恥辱(ちじょく)を禁じ得なかった。だが、全ては一(いっ)刹那(せつな)の事だ。冷静に抑える間も無かったし、反動でググっと重力を掛けてきた相手の眼が寸前にあったのだから阻(はば)めなかった。迫る眼は大きな白目を剥(む)き中心にゴマ粒大の瞳があった。感情を宿さぬ爬虫類の眼のよう。なのに、誠は一転、突き飛ばし切る直前で堪え得た、その俊敏(しゅんびん)さを自賛(じさん)し、また、それが香代子の悪ふざけと直ぐに悟った判断力も誇れた(多分にナルシシスト的だがこのくらいは誰でも隠し持っているものだろう)。
だが、そう分析し得ても歯止めの利(き)かなかった悲鳴は何としよう。瞬間的驚愕(きょうがく)の抗(あらが)えぬ発露で、まさか「キャーッ」ではなく(この悲鳴は多分に人工的な、あるいは猛練習で生み出されるものだろう)、ギャーッでもなければウォーッでもない。腹の底から呻(うめ)き出た轟音(ごうおん)とでも言おうか、とても知性が伴うとは思えぬ音声だった。これが男の悲鳴というものなのか? 生まれて十五年、誰にも聞かれるべきでない初の無様(ぶざま)な叫び、これは地声の範疇(はんちゅう)に入れたくないと真に念じた。男にとって涙以上に人前で出すのを憚(はばか)るべきものと思い、己を恥じた。なのに、それをこ奴に聞かれた。瞬く間に蘇(よみがえ)った誠の知性が直ぐに己の収拾を図ろうとする。そう、相手が香代子だったからでなく<女体>が自分を襲うという尋常(じんじょう)ならざる事態に狼狽(ろうばい)したからだ。また、敢(あ)えて告白するなら言い様の無い快感が正気付く前まで存在した事実からだ。開き直りは下劣(げれつ)と知りながらも、やはりそれは別の「自分」の男性本能の具現であって、まだ中学生の誠が決まり悪さを覚えたのも無理からぬことだった。
ストップモーションが掛かっていた。中途半端に伸ばした誠の両腕は、明確に言うと香代子の胸の辺りに宛(あて)がわれその体重を支えていた。ハッと気づいた誠が勢いよく押し上げる、すると腰で中折れになった香代子の顔がさらに接近することになって、今や衝突寸前に、
「なにすんだよッ、カヨ坊のばか!」
隣に住む幼馴染の、いつもポニーテールを弾ませている小五の子だ。二つも年下なのに不相応に発育した体を持て余し、やたらとぶつかって来るような奴なのだが、喧嘩するほど仲の良い友だちとも言えた。幼い頃は相撲を取って転がし、小五になった記念にはプロレスに興じて「四の字固め」を掛けてやった。そんな奴と突如、仲が遠退(とおの)いたのは誠が中学に上がったことが原因だろう。目を合わせば挨拶はしてもそれ以上の関わりは避けるようになった。誠はそれを自然なこと、いや、当然なことと了解した。小学生にとって中学生がぐんとおとなに見えるのは香代子の態度を見るまでもなく自身が経験したことでもある。そうなれば誠も当たり障りの無い言葉すら掛けるのを躊躇(ためら)った。誠はそうした変化をなんだか誇らしくも感じていた。
夏の明るい夕刻に香代子の家族とよくバーベキューをした。うちの庭には大きな木机に縁台、床几(しょうぎ)などがいつも片付けられぬまま置かれていた。子供らの微妙な変化など頓着(とんちゃく)しない親たちは今夏も、だから今宵(こよい)も意気投合した。思春入門期に入った誠にすればよくもそんなに愉快になれるものだと半ば呆れ、半ば感心しながら、その雰囲気に同調する自分をおとなになったという感慨(かんがい)で味わってもいた。みんなにとっては珍しくなくなったバーベキューだが、小一の妹、美帆だけは半端ない興奮を示して落ち着かない。大勢集まるのが、中でも香代子と一緒なだけで単純に舞い上がらせてしまうのだろう。だから、その頃は美帆が眠くなるのをしおにお開きにするのが通例だった。今夕も半睡半醒で抵抗しながら結局は父親の腕に掬(すく)われて家に入った。愚図(ぐず)ついたと見えて父親の戻るのが遅かった。中学生の誠にすれば妹は年齢以上に幼く思え、年近い香代子は生意気に映った。したがって庭の後片付けはおとな五人とこども一人で厳(おごそ)かに行われた。いつ何どき美帆が目を覚ますか分からなかったからである。
誠も久しぶりのバーベキューで人に酔った興奮があり睡魔を遠ざけた。夜に入って暑気が緩んだのを幸い、一人外に出て、縁台を寝床に夜空を見上げた。普段は気にもしない天体だが、三日月の弱さに力を得て星々が瞬(またた)いていた。けれども、家々の窓から漏れ出る明かりが更に強くて雲霞の無い空全体をぼんやりさせていたから、美光を放つ星でも随分疎(まば)らにされているのだろうなと、瞬く星の陰に隠れる星々にちょっぴり感傷的になった誠だが、直ぐに都会の夜空なんかこんなものさと吐き捨てた。
そうして、薄ぼんやりした視界に取り込まれるように誠はいつか眠りに落ちた。縁台の長さを優に超える体だったから腕と脚を左右にだらりと垂らし、これ以上無防備な体勢は考えられぬ仰向けのカエルだった。そこへ、「五年ぺ」の香代子がいったいどういう了見でこの時間、この場所へやって来たものか。その上、事もあろうに誠の隙(すき)だらけを衝(つ)いて覆(おお)い被(かぶ)さる挙措(きょそ)に出るとは。
「カヨ坊、ふざけんなよ、びっくりしたろうが。それに重いぞ、早く降りろ」
「カヨは重かぁないわ。失礼しちゃう」
と言って藻搔(もが)いているのは、香代子の体が誠の両腕にすっかり乗っていた為だった。降りるに降りられなくてジタバタしているわけである。待てよ、ひょっとしたら降りたくないのか……、冗談みたような認識の根拠は少々前からの微妙な快感から来ていた。香代子は誠の胸にではなく腹の上に跨(またが)っていたから。互いに一丁前の成長を遂げた年頃故に、何だか擽(くすぐ)ったい感応(かんのう)に捉われたのか。総じて女の子の感覚や思考には及び難い少年期の幼さ、ましてその典型的タイプの誠だから理解は曖昧極まりなかった。
「どっちが失礼だよ。こんなことダメだ、ダメだ、絶対……」
「それならマコちゃんはなに? あたしのオッパイをさっきから掴んでるじゃないの!」
「バカ!」
とっさに誠が反発、両腕を突っぱねたから香代子は堪(たま)らない、もんどり打ってどうと落ちた。ごめんよ、と誠が謝るより早く泣き出した香代子の声を隣家にまで届かせちゃならぬ、素早く香代子の口を手で塞ぎ、丸ごと体を包み込んだ。首を振って嫌がる香代子を更に力を込めて胸に押し込む、ごめんよ、ごめんよと繰り返しながら。
するとふと泣き止み、
「痛い! 痛いよ、マコちゃんのばか――」と。
「ごめん」と「ばか」の応酬の後、幾分かトーンダウンした香代子の非難に多少は互いの立場を慮(おもんぱか)っているのかとありがたく思う余裕ができて、丸め込んでいた腕を優しく弱められたんだと思う。ポニーテールの頭頂の匂いが鼻を衝き、右の掌に付着した唾液の温さも与って嫌でも官能が擽(くすぐ)られた。素早く二回首を打ち奮(ふる)い、なんてぺちゃぱいだ、主張する部分が全く無いじゃないか、と自分の内で言い放つ。実際、白のブラウスを通して女の子の柔らかな体を意識していた。不思議にそういう感覚は容易に消えない。五年ぺの癖に自分に覆い被さってキスしようとしたのか? 股間が反射的に蠢(うごめ)く。最近は何かと勃起(ぼっき)したから手に負えなかった。
「痛かった? ごめん、香代坊が変なこと言うからだよ」
「何が? わたし何も言っちゃないわ。それよりマコちゃんがオッパイ掴んでたも……」
また泣きじゃくって縋(すが)り付いてきた。な、なんだ。ふと狡猾(こうかつ)さを感じた、理解の外だ。
「ごめん、もう許してよ。触ろうとしたんじゃないんだから。たまたまさ。それに、カヨ坊はまだ掴めるほど、無いだろ?」
拙(まず)かった! ひと回り泣き声が大きくなった。
「カヨだって大きくなったもん」
「いやいや、ごめん。そうだよねえ、女の子だもんね。ぼくのやり過ぎだった、悪い。ぐっすり寝てたもんだから吃驚(びっくり)したんだよ、もう勘弁して。後で昔みたいにお菓子を買ってあげるからさ」
「ばっかじゃないの。カヨはもう子供じゃないわ」
「子供は子供だろ、小学生なんだから」
「そういう意味じゃないでしょ」
どういう意味だ? 誠にはよく呑(の)み込めない。
「じゃあ、どうすれば許してくれるのさ」と一応開き直って。
今度は香代子の方が口を噤(つぐ)んだ。泣くのは止めていた。何を考えてる? 沈黙が怖い。
「……マコちゃん、さっき、もっこりしてた……」
「バカッ!」
血流が一挙に速まり香代子を突き放した。確かめるまでも無く誠の頬は火照った。香代子はそんな誠をじいっと見ている。狼狽(ろうばい)から睥睨(へいげい)が首を擡(もた)げた。
「バカッ、そういうのはダメだ、言っちゃダメなんだぞ」
「だって腿に当たってたもん……」
「さ、起きろ」と言って誠はやや強引に香代子を立たせ、尻を払ってやった。途端に勃起する。どうかしている。敏感過ぎるやろ。威厳を取り戻すべく演技をせねばと両の手を肩に載せた。思ったより背が高かった。
「カヨ坊は女だから、分らなくて当たり前なんだ。だから教えてあげる。生理現象って言ってね、こいつは自分の意のままにはならんのだぞ。ぼくくらいになると下着に擦(こす)れたってそうなるんだ。おとなになる通過点さ。……自分でもどう言やいいか分からなくて、もどかしいんだから、女の子は指摘したり口にするだけでもダメなんだ。それは恥ずかしいことなんだから」
「子供を作る準備なんだよね。学校で教わったもん」
「そ、そうか。それならその通りなんだろ、きっと」
股間が元通りになってホッとしながら誠は続けた。
「香代坊は賢いな。もう……」
思い浮かんだ言葉を誠は慌てて飲み込んだ。
……再任用がさも有難いように目前に吊り下げられれば、働かずとも貰える年金暮らしへの不安が無いわけでもない身としてパン食い競走よろしく跳びつくしかなかった。何より悲しいのは「働く」ことが習性と化していたこと、だから苦も無く「毎日」を繰り返している。四十年あまりの経年者に降って湧いた新業務などお茶の子さいさい、あまりに軽量過ぎて申し訳ないくらいだが、そこはそれ、お手当てがそれに見合うペイペイならぬ「ぺえぺえ」期と同額と来ている。けれども誰かはやらねば会社も困るお仕事と言われりゃ途端に発動する愛社精神、これも習い性となった賜なのだ。
かくなる事情で「還暦」過ぎての第二の人生、今春で数え四つと相成った。午後六時には帰宅できる毎日がすっかり板につき時間を持て余す虞も無かった三年間だったのに、最近、気付けば泡沫の如く湧き出す「昔」にどっぷり浸かっているじゃないですか。それで小学校の絵日記以来無縁だった日次(ひなみ)の記録でもパソコンで綴ってみようと思い至ったのである。日々の備忘録ではなし、縁者に読ませようとの腹も無い。途切れ途切れの曖昧至極な記憶の萌芽なのだから、時系列に纏められようもないし、無論「紀伝体」などあり得ない。思い付くまま気の向くままの体よい手記にと臨んでいるのだ。そ、暇を手に入れた年寄りの手遊(すさ)びなのである。
が、奇妙なことに何だか「昔」に戻って興奮気味なのだから面白い。
さて、「懐かしい」と思う対象は過去全体の何割に相当するだろうとお考えか? 人生をよく登山に例えるけれどもその頂きは幾歳くらいを指すものか。個人差の甚だ大であろうが、六十路(むそじ)を越えた私には、四十代が一番油が乗って、その広大な裾野を従える頂上であった気がする。そうして懐旧の色濃きは山巓(さんてん)の向こう側に多く、しかも五感の色取りの点でもそう言えるのだ。少年期、青年期という区分より“青春期”と一括してもいい。自分の芯を肥大させ中核を形成していた時代なのだが、良くも悪くもノスタルジーに彩られ、帯びていた筈の破壊的堕落的な要素は見事に削ぎ落とされている。人はどんなに窮まっても一たび解決すれば艱難辛苦は影を薄くし消去される。「時の流れの浄化作用」という秘技を人は幼くから持っているのだろう。
あるいはこうも言える。
意中の人との至高の思い出はその馴れ初めからピークを経て落ち着きを得るまで(もしくは潰(つい)えるまで)を分明(ぶんめい)に蘇(そ)生(せい)できるかも知れないが、多くの「昔」は歓喜雀躍、悲哀辛苦、凹凸激しきものだろうから浄化の魔法の洗礼を浴びて来るのだろう。剰(あまつさ)えそれら全てを「昔」と一(ひと)括(くく)りしてしまえる老年期になると、タイミングよく刮目(かつもく)瞑目(めいもく)を繰り返して喜悦(きえつ)溢(あふ)れる懐古に浸ってはまた貪欲(とんよく)に遡(さかのぼ)っていくらしい。
私も今、小学校高学年の頃の「昔」が無性に恋しい。性に目覚める前のまだ齟齬(そご)も軋轢(あつれき)も知らない純心に戻った気持ちが妄想とも言えるロマンティックな夢を見せてくれるだろうし、見るに留まらず追いかけることもできる気がするのだ。一方、性的覚醒は紛(まぎ)れもなく接近していて、下手すれば二律背反に苦悩し始める時期でもあった。思い出すにつれ妙に生々しくて驚愕(きょうがく)する。所詮(しょせん)、人間も動物なのだからその「生」の範疇(はんちゅう)で捉えねば嘘になるだろう。だが、自覚は戸惑いを生み、当時の私は自覚・無自覚いずれでも独り相撲的苦悩に駆られた気もしてくる。……とここまで考えてきて立ち止まった。深みから浮かび来る記憶の断片がなぜか異姓との思い出に集中しているのだ。異性を気に掛けながら近寄りがたいものと感じる一方で、「女嫌い」をことさら標榜(ひょうぼう)する自家撞着の本性は人生の頂き近くまで変わらなかった気がする。さすればこの手記、恐れ多くも我が「ヰタ=セクスアリス」の体となるやと思った時点で雷霆(らいてい)轟(とどろ)き我が脳天を劈(つんざ)くに違いない。けれども熟考してみれば、己の誇りと思えるものとて未熟・恥辱・反省等が付着していないもの無ければ早々自慢話の続くことなし、それならいっそ己の弱点、苦手、失敗、羞恥の思い出綴りの方に却って仄(ほの)かな幸せ気分が彷彿してくるのではあるまいか。大方そんな心理であったろうが、元々思い出しては浮かび来るものをか弱き糸でその順に繋いでいこうとしたものであり、今さら内容整理などする気も起こらぬものなのだから、ともかく大仰(おおぎょう)に言わせてもらえば、しょうもない我が女性遍歴となりそうである。
幼馴染みの「カヨ坊」から始めたが、無論、恋愛の対象である筈はなくても、ある意味記憶に残る異姓の端くれであったわけで、私には無性に懐かしい存在なのだった。
その線で振り返ると、もっと遡って小四の頃にこんなこともあった。当時のガキ・ギャング団は男同士でどれほどやんちゃな遊びに興じたものであったか。ところがもう一方で家族レベルの近所付き合いもあり、中で幼馴染みの香代子はまだ小学校二年生であった。母親同士、仲がよくて互いの家に行ってはお喋りに夢中になる時間帯、子供たち三人もじゃれるように遊んでいたのである……
土曜の午後、今日もおやつに与(あずか)ろうと香代子が母親に付いて来たのへ、幼稚園児の美帆が喜色満面で出迎えその手を取って座敷まで連れて来た。そこには美帆に命じた誠がいて素材が紙製でもいつもとは全く違って見える煌(きら)めく剣を握っていた。また、「お姫さまごっこ」をしようと待ち構えていたのだ。
敷居を香代子が跨いだ瞬間、躍り出た誠が「成敗してやる」とばかりに煌めく剣を振り下ろした。すると香代子が尻もちを付いて、途端に美帆が香代子に抱き着き「カヨちゃん、ごめんね」と謝ったのだ。となると誠の立場は無く、「だから女の子はダメなんだよなあ」と空とぼける。おまけに、「ケンちゃん達だったら『何をッ』って掛かってくるところなのにな……」と言ってしまったから、慌てて事態収拾に向かった。「カヨ坊、ごめん。でも、切っちゃいないだろ」、見ると涙が出ていない、そもそも泣いていなかった、驚いただけだったのだ。良かった。居間にいる親たちも泣いちゃいないのだから気づかれなかったようだ。清廉潔白、一目(いちもく)十行(じゅうぎょう)の誠でも時々失敗することはある。今こそこうすべきだと判断し、煌(きら)めく剣の解説に入った。「お兄ちゃんがカヨちゃんだったら、必ず向かってくるぞって言ってたもん」と美帆が余計なことを言うから目の端で窘(たしな)めた。五歳差の兄の権威は絶対なのだ。「金紙と銀紙だけで貼ったんだ。折り紙セット十冊も買ったんだよ。だから後で金銀以外の折り紙、全部上げるからさ」と言うと、もう喜びのパッチリ眼(まなこ)になっている。傍から「ズルいよ! お兄ちゃん。私にも折り紙ちょうだい」とまた美帆が言うからガンつけすると「半分コしよ」と香代子がかわいいことを言った。
さて一(ひと)悶着(もんちゃく)が終わって「お姫さまごっこ」の開演だ。三人はここ最近これに嵌(はま)っていた。「白雪姫」や「シンデレラ」「眠れる森の美女」など毎年のようにディズニー映画を観てきた影響だろうか。お姫さまを悪者が攫(さら)い、正義の使者(その日からはキラ剣を携(たずさ)える出所不明の輩(やから)となる)が救い出すというロマン劇場。言い出しっぺは年長の誠だが、立場を替え同じ筋を繰り返すうちに、思いもつかぬバリエーションを生み出す才を発揮したのは女の子二人で、熱中度は加速度的に高まり常に時間を忘れ汗を流して楽しんだ。度(たび)毎(ごと)の青天井の興奮は下着をぐっしょりにするどころか、幼い美帆の声帯を涸(か)れさせもした。お姫さまだって盗賊だって「らしい」声色、「らしい」表情を取り繕(つくろ)うのだから香代子や美帆の喉には辛かろうし、誠にしたってお姫様は脳天から声を出すような具合で普段の遊び心では対処できない。お姫様を無事救出し結婚に至る正義のヒーローは一体だれを模しているのか、シンドバットか赤胴鈴之助かハリマオか、一部の隙もない勇者であり、そのお姫様だって赤ずきんちゃんかシンデレラ、はたまた清姫、あんみつ姫か。役柄(やくがら)で声色を替える念の入れように、もし傍で見る者がいたなら捧腹絶倒間違い無しだろうが、三人は観客を意識しないからこそ純粋に子供なりの奥義を窮められるのだ。全身全霊を掛けてのエンディングに漕ぎつけた時には三人揃って息が上がり畳に倒れ込んで、やり切った快感で笑い合う。三人とも髪の毛ももうべちゃべちゃで、美帆の額など髪の毛がへばり付いている。そして間もなく、誰言うともなく立ち上がるとすぐさま新たなストーリーに入るのである。
……一体そんな遊びを何度繰り返したろう。一年近くは続けた筈だから……。学校の友人達にはけっして言えない遊戯だが、秘密にする労は無かった。
子供が同じ遊びの繰り返しに飽きないのは、その都度の真剣勝負だからであり、意識するにしろ無意識にしろ少しずつ脚色を施して行ける想像力、尽きない欲求が生む集中力のお陰だろうと思えるがどうだろう。
六十路の現在も飽きの来ぬ付き合いはあっても、それには一定の限界があって後に引き摺る感覚は青年期を過ぎると途端に薄れた。生物の本能である自己複製にしたって既に途絶えて久しい。根気も執着心も次第に無くなってゆくのをしばしば感じる、考える。
と言って、たとえ「タイムマシーン搭乗券」を手にしたとしても一度切りというなら間違っても児童期に戻りたいとは思わない。あまりに面倒な気がしてしまう。過ぎ越し人生は重く永い。児童期はそれに続く青春期との間に高い壁がありそうな気がする。だって、可愛いじゃないか。でも……壁がある、一期を選ぶには勿体ないではないか。
ただ、無性に懐かしく擽(くすぐ)られる感じがするのだった……
「カヨちゃーん、お姫様は、やっぱあぁ『あれえー』かなあ。悪いやつに引き摺(ず)られちゃう時の……」
激しく抵抗するか、盗賊の恐ろしさに声も出せずうち震えるか、園児の美帆でも役作りに拘(こだわ)る。男の誠は王女役に徹しきれず、二人が寧ろ喜んで時々替えてくれるのに感謝したが、とかく女の子はこんな際に寛大な態度を取りたがる。二人は誠の意中など心に無くそれぞれの役に没入する、それが年嵩(としかさ)の誠をわくわくさせもする。「ごっこ」の中で心は高揚するから空も飛べるし忍者にもなれるのだ。
女の子二人とどう相手するか、誠は正直困ることがある。香代子は飽くまで年の近い他所の子であり、美帆は妹でまだ幼稚園児だった。悪者が小さなお姫様を誘拐すれば激怒したろうし、相手が小悪党ならお姫様を攫(さら)う方に注力してしまう。誠が悪党なら小さなお姫様は軽々と持ち去るし、大きなお姫様ならぎゅっと掻き抱いて略奪する。体の大小に加えて身内か他人か、無意識に、否(いな)、かなり意識的に遊んでいる気がする……。女の子の、役になり切れる能力、そうしてその維持に長(た)けているのに感心しながら、誠も男役二つを女の子二人に掛け合わせる分だけ情動を区別できる自分にも興奮した。
今しも、居間にいたお姫様をぎゅうっと誠が抱きしめた。途端に「痛い!」って真顔で怒ったかと思うと直ぐに切り替え「あれえーッ、助けて―」とカヨ坊が悲鳴を上げる。「キャーッ」が「あれえーッ」に変えたのは香代子かも知れない。とにかくワンパターンの悲鳴でも「お姫様」は本気だ。彼女の脳天から発した悲鳴が「正義の使者」を呼ぶ。悲鳴は部屋を貫いて轟く。玄関待機の美帆は救済に行くタイミングを計っている。誠から何度も教わり美帆も深く頷いていたから直ぐには出動しない。「溜め」を作るのがその劇の盛り上がりに与(あずか)る正義の使者の大事な役割だった。
「声を出せば殺すぞ」と煌めく剣を背中に当てる。それにはこの剣、長過ぎた。いつものナイフを持っているジェスチャーで良かったかな、とちょっぴり反省(「「遊び」はジェスチャーでいいのだ。ピストルでもマシンガンでも何でもござれだ。たとえ大砲であっても、正義の使者の剣には歯が立たないのだから)。
香代子姫が這って逃げようとしたのを両足を脇に挟んで捕まえた。体が一回りしか小さくないのでかなり手強い、いや重い。スカートが捲れて白いパンツが現れた。とっさに悪いことをしたと悔いたが、相手は小一、そもそもミニスカートなんだし、そして、今の自分は悪者なのだし、構いはしないのだと打ち消す。ただ、下着を随分緩めに履いていると感じた。
さて、座敷のどこに閉じ込めようかと見回したが“見えない壁”を悪者と共有するのには飽きていた。
「よおし、押し入れに閉じ込めてやる」
咄嗟(とっさ)の思い付きに香代子の表情が困惑に覆われた。布団類でいっぱいだろうと今まで使っていなかった場所、いや、女の子は押し入れや物置といった暗い場所を怖がる、いや、嫌がるものなのだ。加えて、未知の展開になりそうな不安、戸惑いもあったろうか。押し入れの上の隙間があまりに僅かだったのは想定外で、けれど、ここで布団を降ろすのでは話にならぬ、張り詰めた緊張が解けてしまう。
「助けてーッ」とまた大声を出す香代子。
星にときめく……あえかなる誠の往交記
高柳 龍
1
ずっしりと腹の上に覆い被さるものがあって身動きが取れない……その不快さに両腕で押し上げる。意想外の柔らかな感触に驚いて手を緩めた時、目が開いた。
うわっ! なな、なんだよ……
沈着冷静が信条の一つである自分が瞬時にそれを見失い、それでも辛うじて目で捉えたことがある。ここが自分のベッドでないこと(どだい堅過ぎる)、紛れもなく屋外であること(その「重し」以外は肌にひんやりとしている)。いや、それより本領を裏切る身も蓋(ふた)もない叫び声を発したことに恥辱(ちじょく)を禁じ得なかった。だが、全ては一(いっ)刹那(せつな)の事だ。冷静に抑える間も無かったし、反動でググっと重力を掛けてきた相手の眼が寸前にあったのだから阻(はば)めなかった。迫る眼は大きな白目を剥(む)き中心にゴマ粒大の瞳があった。感情を宿さぬ爬虫類の眼のよう。なのに、誠は一転、突き飛ばし切る直前で堪え得た、その俊敏(しゅんびん)さを自賛(じさん)し、また、それが香代子の悪ふざけと直ぐに悟った判断力も誇れた(多分にナルシシスト的だがこのくらいは誰でも隠し持っているものだろう)。
だが、そう分析し得ても歯止めの利(き)かなかった悲鳴は何としよう。瞬間的驚愕(きょうがく)の抗(あらが)えぬ発露で、まさか「キャーッ」ではなく(この悲鳴は多分に人工的な、あるいは猛練習で生み出されるものだろう)、ギャーッでもなければウォーッでもない。腹の底から呻(うめ)き出た轟音(ごうおん)とでも言おうか、とても知性が伴うとは思えぬ音声だった。これが男の悲鳴というものなのか? 生まれて十五年、誰にも聞かれるべきでない初の無様(ぶざま)な叫び、これは地声の範疇(はんちゅう)に入れたくないと真に念じた。男にとって涙以上に人前で出すのを憚(はばか)るべきものと思い、己を恥じた。なのに、それをこ奴に聞かれた。瞬く間に蘇(よみがえ)った誠の知性が直ぐに己の収拾を図ろうとする。そう、相手が香代子だったからでなく<女体>が自分を襲うという尋常(じんじょう)ならざる事態に狼狽(ろうばい)したからだ。また、敢(あ)えて告白するなら言い様の無い快感が正気付く前まで存在した事実からだ。開き直りは下劣(げれつ)と知りながらも、やはりそれは別の「自分」の男性本能の具現であって、まだ中学生の誠が決まり悪さを覚えたのも無理からぬことだった。
ストップモーションが掛かっていた。中途半端に伸ばした誠の両腕は、明確に言うと香代子の胸の辺りに宛(あて)がわれその体重を支えていた。ハッと気づいた誠が勢いよく押し上げる、すると腰で中折れになった香代子の顔がさらに接近することになって、今や衝突寸前に、
「なにすんだよッ、カヨ坊のばか!」
隣に住む幼馴染の、いつもポニーテールを弾ませている小五の子だ。二つも年下なのに不相応に発育した体を持て余し、やたらとぶつかって来るような奴なのだが、喧嘩するほど仲の良い友だちとも言えた。幼い頃は相撲を取って転がし、小五になった記念にはプロレスに興じて「四の字固め」を掛けてやった。そんな奴と突如、仲が遠退(とおの)いたのは誠が中学に上がったことが原因だろう。目を合わせば挨拶はしてもそれ以上の関わりは避けるようになった。誠はそれを自然なこと、いや、当然なことと了解した。小学生にとって中学生がぐんとおとなに見えるのは香代子の態度を見るまでもなく自身が経験したことでもある。そうなれば誠も当たり障りの無い言葉すら掛けるのを躊躇(ためら)った。誠はそうした変化をなんだか誇らしくも感じていた。
夏の明るい夕刻に香代子の家族とよくバーベキューをした。うちの庭には大きな木机に縁台、床几(しょうぎ)などがいつも片付けられぬまま置かれていた。子供らの微妙な変化など頓着(とんちゃく)しない親たちは今夏も、だから今宵(こよい)も意気投合した。思春入門期に入った誠にすればよくもそんなに愉快になれるものだと半ば呆れ、半ば感心しながら、その雰囲気に同調する自分をおとなになったという感慨(かんがい)で味わってもいた。みんなにとっては珍しくなくなったバーベキューだが、小一の妹、美帆だけは半端ない興奮を示して落ち着かない。大勢集まるのが、中でも香代子と一緒なだけで単純に舞い上がらせてしまうのだろう。だから、その頃は美帆が眠くなるのをしおにお開きにするのが通例だった。今夕も半睡半醒で抵抗しながら結局は父親の腕に掬(すく)われて家に入った。愚図(ぐず)ついたと見えて父親の戻るのが遅かった。中学生の誠にすれば妹は年齢以上に幼く思え、年近い香代子は生意気に映った。したがって庭の後片付けはおとな五人とこども一人で厳(おごそ)かに行われた。いつ何どき美帆が目を覚ますか分からなかったからである。
誠も久しぶりのバーベキューで人に酔った興奮があり睡魔を遠ざけた。夜に入って暑気が緩んだのを幸い、一人外に出て、縁台を寝床に夜空を見上げた。普段は気にもしない天体だが、三日月の弱さに力を得て星々が瞬(またた)いていた。けれども、家々の窓から漏れ出る明かりが更に強くて雲霞の無い空全体をぼんやりさせていたから、美光を放つ星でも随分疎(まば)らにされているのだろうなと、瞬く星の陰に隠れる星々にちょっぴり感傷的になった誠だが、直ぐに都会の夜空なんかこんなものさと吐き捨てた。
そうして、薄ぼんやりした視界に取り込まれるように誠はいつか眠りに落ちた。縁台の長さを優に超える体だったから腕と脚を左右にだらりと垂らし、これ以上無防備な体勢は考えられぬ仰向けのカエルだった。そこへ、「五年ぺ」の香代子がいったいどういう了見でこの時間、この場所へやって来たものか。その上、事もあろうに誠の隙(すき)だらけを衝(つ)いて覆(おお)い被(かぶ)さる挙措(きょそ)に出るとは。
「カヨ坊、ふざけんなよ、びっくりしたろうが。それに重いぞ、早く降りろ」
「カヨは重かぁないわ。失礼しちゃう」
と言って藻搔(もが)いているのは、香代子の体が誠の両腕にすっかり乗っていた為だった。降りるに降りられなくてジタバタしているわけである。待てよ、ひょっとしたら降りたくないのか……、冗談みたような認識の根拠は少々前からの微妙な快感から来ていた。香代子は誠の胸にではなく腹の上に跨(またが)っていたから。互いに一丁前の成長を遂げた年頃故に、何だか擽(くすぐ)ったい感応(かんのう)に捉われたのか。総じて女の子の感覚や思考には及び難い少年期の幼さ、ましてその典型的タイプの誠だから理解は曖昧極まりなかった。
「どっちが失礼だよ。こんなことダメだ、ダメだ、絶対……」
「それならマコちゃんはなに? あたしのオッパイをさっきから掴んでるじゃないの!」
「バカ!」
とっさに誠が反発、両腕を突っぱねたから香代子は堪(たま)らない、もんどり打ってどうと落ちた。ごめんよ、と誠が謝るより早く泣き出した香代子の声を隣家にまで届かせちゃならぬ、素早く香代子の口を手で塞ぎ、丸ごと体を包み込んだ。首を振って嫌がる香代子を更に力を込めて胸に押し込む、ごめんよ、ごめんよと繰り返しながら。
するとふと泣き止み、
「痛い! 痛いよ、マコちゃんのばか――」と。
「ごめん」と「ばか」の応酬の後、幾分かトーンダウンした香代子の非難に多少は互いの立場を慮(おもんぱか)っているのかとありがたく思う余裕ができて、丸め込んでいた腕を優しく弱められたんだと思う。ポニーテールの頭頂の匂いが鼻を衝き、右の掌に付着した唾液の温さも与って嫌でも官能が擽(くすぐ)られた。素早く二回首を打ち奮(ふる)い、なんてぺちゃぱいだ、主張する部分が全く無いじゃないか、と自分の内で言い放つ。実際、白のブラウスを通して女の子の柔らかな体を意識していた。不思議にそういう感覚は容易に消えない。五年ぺの癖に自分に覆い被さってキスしようとしたのか? 股間が反射的に蠢(うごめ)く。最近は何かと勃起(ぼっき)したから手に負えなかった。
「痛かった? ごめん、香代坊が変なこと言うからだよ」
「何が? わたし何も言っちゃないわ。それよりマコちゃんがオッパイ掴んでたも……」
また泣きじゃくって縋(すが)り付いてきた。な、なんだ。ふと狡猾(こうかつ)さを感じた、理解の外だ。
「ごめん、もう許してよ。触ろうとしたんじゃないんだから。たまたまさ。それに、カヨ坊はまだ掴めるほど、無いだろ?」
拙(まず)かった! ひと回り泣き声が大きくなった。
「カヨだって大きくなったもん」
「いやいや、ごめん。そうだよねえ、女の子だもんね。ぼくのやり過ぎだった、悪い。ぐっすり寝てたもんだから吃驚(びっくり)したんだよ、もう勘弁して。後で昔みたいにお菓子を買ってあげるからさ」
「ばっかじゃないの。カヨはもう子供じゃないわ」
「子供は子供だろ、小学生なんだから」
「そういう意味じゃないでしょ」
どういう意味だ? 誠にはよく呑(の)み込めない。
「じゃあ、どうすれば許してくれるのさ」と一応開き直って。
今度は香代子の方が口を噤(つぐ)んだ。泣くのは止めていた。何を考えてる? 沈黙が怖い。
「……マコちゃん、さっき、もっこりしてた……」
「バカッ!」
血流が一挙に速まり香代子を突き放した。確かめるまでも無く誠の頬は火照った。香代子はそんな誠をじいっと見ている。狼狽(ろうばい)から睥睨(へいげい)が首を擡(もた)げた。
「バカッ、そういうのはダメだ、言っちゃダメなんだぞ」
「だって腿に当たってたもん……」
「さ、起きろ」と言って誠はやや強引に香代子を立たせ、尻を払ってやった。途端に勃起する。どうかしている。敏感過ぎるやろ。威厳を取り戻すべく演技をせねばと両の手を肩に載せた。思ったより背が高かった。
「カヨ坊は女だから、分らなくて当たり前なんだ。だから教えてあげる。生理現象って言ってね、こいつは自分の意のままにはならんのだぞ。ぼくくらいになると下着に擦(こす)れたってそうなるんだ。おとなになる通過点さ。……自分でもどう言やいいか分からなくて、もどかしいんだから、女の子は指摘したり口にするだけでもダメなんだ。それは恥ずかしいことなんだから」
「子供を作る準備なんだよね。学校で教わったもん」
「そ、そうか。それならその通りなんだろ、きっと」
股間が元通りになってホッとしながら誠は続けた。
「香代坊は賢いな。もう……」
思い浮かんだ言葉を誠は慌てて飲み込んだ。
……再任用がさも有難いように目前に吊り下げられれば、働かずとも貰える年金暮らしへの不安が無いわけでもない身としてパン食い競走よろしく跳びつくしかなかった。何より悲しいのは「働く」ことが習性と化していたこと、だから苦も無く「毎日」を繰り返している。四十年あまりの経年者に降って湧いた新業務などお茶の子さいさい、あまりに軽量過ぎて申し訳ないくらいだが、そこはそれ、お手当てがそれに見合うペイペイならぬ「ぺえぺえ」期と同額と来ている。けれども誰かはやらねば会社も困るお仕事と言われりゃ途端に発動する愛社精神、これも習い性となった賜なのだ。
かくなる事情で「還暦」過ぎての第二の人生、今春で数え四つと相成った。午後六時には帰宅できる毎日がすっかり板につき時間を持て余す虞も無かった三年間だったのに、最近、気付けば泡沫の如く湧き出す「昔」にどっぷり浸かっているじゃないですか。それで小学校の絵日記以来無縁だった日次(ひなみ)の記録でもパソコンで綴ってみようと思い至ったのである。日々の備忘録ではなし、縁者に読ませようとの腹も無い。途切れ途切れの曖昧至極な記憶の萌芽なのだから、時系列に纏められようもないし、無論「紀伝体」などあり得ない。思い付くまま気の向くままの体よい手記にと臨んでいるのだ。そ、暇を手に入れた年寄りの手遊(すさ)びなのである。
が、奇妙なことに何だか「昔」に戻って興奮気味なのだから面白い。
さて、「懐かしい」と思う対象は過去全体の何割に相当するだろうとお考えか? 人生をよく登山に例えるけれどもその頂きは幾歳くらいを指すものか。個人差の甚だ大であろうが、六十路(むそじ)を越えた私には、四十代が一番油が乗って、その広大な裾野を従える頂上であった気がする。そうして懐旧の色濃きは山巓(さんてん)の向こう側に多く、しかも五感の色取りの点でもそう言えるのだ。少年期、青年期という区分より“青春期”と一括してもいい。自分の芯を肥大させ中核を形成していた時代なのだが、良くも悪くもノスタルジーに彩られ、帯びていた筈の破壊的堕落的な要素は見事に削ぎ落とされている。人はどんなに窮まっても一たび解決すれば艱難辛苦は影を薄くし消去される。「時の流れの浄化作用」という秘技を人は幼くから持っているのだろう。
あるいはこうも言える。
意中の人との至高の思い出はその馴れ初めからピークを経て落ち着きを得るまで(もしくは潰(つい)えるまで)を分明(ぶんめい)に蘇(そ)生(せい)できるかも知れないが、多くの「昔」は歓喜雀躍、悲哀辛苦、凹凸激しきものだろうから浄化の魔法の洗礼を浴びて来るのだろう。剰(あまつさ)えそれら全てを「昔」と一(ひと)括(くく)りしてしまえる老年期になると、タイミングよく刮目(かつもく)瞑目(めいもく)を繰り返して喜悦(きえつ)溢(あふ)れる懐古に浸ってはまた貪欲(とんよく)に遡(さかのぼ)っていくらしい。
私も今、小学校高学年の頃の「昔」が無性に恋しい。性に目覚める前のまだ齟齬(そご)も軋轢(あつれき)も知らない純心に戻った気持ちが妄想とも言えるロマンティックな夢を見せてくれるだろうし、見るに留まらず追いかけることもできる気がするのだ。一方、性的覚醒は紛(まぎ)れもなく接近していて、下手すれば二律背反に苦悩し始める時期でもあった。思い出すにつれ妙に生々しくて驚愕(きょうがく)する。所詮(しょせん)、人間も動物なのだからその「生」の範疇(はんちゅう)で捉えねば嘘になるだろう。だが、自覚は戸惑いを生み、当時の私は自覚・無自覚いずれでも独り相撲的苦悩に駆られた気もしてくる。……とここまで考えてきて立ち止まった。深みから浮かび来る記憶の断片がなぜか異姓との思い出に集中しているのだ。異性を気に掛けながら近寄りがたいものと感じる一方で、「女嫌い」をことさら標榜(ひょうぼう)する自家撞着の本性は人生の頂き近くまで変わらなかった気がする。さすればこの手記、恐れ多くも我が「ヰタ=セクスアリス」の体となるやと思った時点で雷霆(らいてい)轟(とどろ)き我が脳天を劈(つんざ)くに違いない。けれども熟考してみれば、己の誇りと思えるものとて未熟・恥辱・反省等が付着していないもの無ければ早々自慢話の続くことなし、それならいっそ己の弱点、苦手、失敗、羞恥の思い出綴りの方に却って仄(ほの)かな幸せ気分が彷彿してくるのではあるまいか。大方そんな心理であったろうが、元々思い出しては浮かび来るものをか弱き糸でその順に繋いでいこうとしたものであり、今さら内容整理などする気も起こらぬものなのだから、ともかく大仰(おおぎょう)に言わせてもらえば、しょうもない我が女性遍歴となりそうである。
幼馴染みの「カヨ坊」から始めたが、無論、恋愛の対象である筈はなくても、ある意味記憶に残る異姓の端くれであったわけで、私には無性に懐かしい存在なのだった。
その線で振り返ると、もっと遡って小四の頃にこんなこともあった。当時のガキ・ギャング団は男同士でどれほどやんちゃな遊びに興じたものであったか。ところがもう一方で家族レベルの近所付き合いもあり、中で幼馴染みの香代子はまだ小学校二年生であった。母親同士、仲がよくて互いの家に行ってはお喋りに夢中になる時間帯、子供たち三人もじゃれるように遊んでいたのである……
土曜の午後、今日もおやつに与(あずか)ろうと香代子が母親に付いて来たのへ、幼稚園児の美帆が喜色満面で出迎えその手を取って座敷まで連れて来た。そこには美帆に命じた誠がいて素材が紙製でもいつもとは全く違って見える煌(きら)めく剣を握っていた。また、「お姫さまごっこ」をしようと待ち構えていたのだ。
敷居を香代子が跨いだ瞬間、躍り出た誠が「成敗してやる」とばかりに煌めく剣を振り下ろした。すると香代子が尻もちを付いて、途端に美帆が香代子に抱き着き「カヨちゃん、ごめんね」と謝ったのだ。となると誠の立場は無く、「だから女の子はダメなんだよなあ」と空とぼける。おまけに、「ケンちゃん達だったら『何をッ』って掛かってくるところなのにな……」と言ってしまったから、慌てて事態収拾に向かった。「カヨ坊、ごめん。でも、切っちゃいないだろ」、見ると涙が出ていない、そもそも泣いていなかった、驚いただけだったのだ。良かった。居間にいる親たちも泣いちゃいないのだから気づかれなかったようだ。清廉潔白、一目(いちもく)十行(じゅうぎょう)の誠でも時々失敗することはある。今こそこうすべきだと判断し、煌(きら)めく剣の解説に入った。「お兄ちゃんがカヨちゃんだったら、必ず向かってくるぞって言ってたもん」と美帆が余計なことを言うから目の端で窘(たしな)めた。五歳差の兄の権威は絶対なのだ。「金紙と銀紙だけで貼ったんだ。折り紙セット十冊も買ったんだよ。だから後で金銀以外の折り紙、全部上げるからさ」と言うと、もう喜びのパッチリ眼(まなこ)になっている。傍から「ズルいよ! お兄ちゃん。私にも折り紙ちょうだい」とまた美帆が言うからガンつけすると「半分コしよ」と香代子がかわいいことを言った。
さて一(ひと)悶着(もんちゃく)が終わって「お姫さまごっこ」の開演だ。三人はここ最近これに嵌(はま)っていた。「白雪姫」や「シンデレラ」「眠れる森の美女」など毎年のようにディズニー映画を観てきた影響だろうか。お姫さまを悪者が攫(さら)い、正義の使者(その日からはキラ剣を携(たずさ)える出所不明の輩(やから)となる)が救い出すというロマン劇場。言い出しっぺは年長の誠だが、立場を替え同じ筋を繰り返すうちに、思いもつかぬバリエーションを生み出す才を発揮したのは女の子二人で、熱中度は加速度的に高まり常に時間を忘れ汗を流して楽しんだ。度(たび)毎(ごと)の青天井の興奮は下着をぐっしょりにするどころか、幼い美帆の声帯を涸(か)れさせもした。お姫さまだって盗賊だって「らしい」声色、「らしい」表情を取り繕(つくろ)うのだから香代子や美帆の喉には辛かろうし、誠にしたってお姫様は脳天から声を出すような具合で普段の遊び心では対処できない。お姫様を無事救出し結婚に至る正義のヒーローは一体だれを模しているのか、シンドバットか赤胴鈴之助かハリマオか、一部の隙もない勇者であり、そのお姫様だって赤ずきんちゃんかシンデレラ、はたまた清姫、あんみつ姫か。役柄(やくがら)で声色を替える念の入れように、もし傍で見る者がいたなら捧腹絶倒間違い無しだろうが、三人は観客を意識しないからこそ純粋に子供なりの奥義を窮められるのだ。全身全霊を掛けてのエンディングに漕ぎつけた時には三人揃って息が上がり畳に倒れ込んで、やり切った快感で笑い合う。三人とも髪の毛ももうべちゃべちゃで、美帆の額など髪の毛がへばり付いている。そして間もなく、誰言うともなく立ち上がるとすぐさま新たなストーリーに入るのである。
……一体そんな遊びを何度繰り返したろう。一年近くは続けた筈だから……。学校の友人達にはけっして言えない遊戯だが、秘密にする労は無かった。
子供が同じ遊びの繰り返しに飽きないのは、その都度の真剣勝負だからであり、意識するにしろ無意識にしろ少しずつ脚色を施して行ける想像力、尽きない欲求が生む集中力のお陰だろうと思えるがどうだろう。
六十路の現在も飽きの来ぬ付き合いはあっても、それには一定の限界があって後に引き摺る感覚は青年期を過ぎると途端に薄れた。生物の本能である自己複製にしたって既に途絶えて久しい。根気も執着心も次第に無くなってゆくのをしばしば感じる、考える。
と言って、たとえ「タイムマシーン搭乗券」を手にしたとしても一度切りというなら間違っても児童期に戻りたいとは思わない。あまりに面倒な気がしてしまう。過ぎ越し人生は重く永い。児童期はそれに続く青春期との間に高い壁がありそうな気がする。だって、可愛いじゃないか。でも……壁がある、一期を選ぶには勿体ないではないか。
ただ、無性に懐かしく擽(くすぐ)られる感じがするのだった……
「カヨちゃーん、お姫様は、やっぱあぁ『あれえー』かなあ。悪いやつに引き摺(ず)られちゃう時の……」
激しく抵抗するか、盗賊の恐ろしさに声も出せずうち震えるか、園児の美帆でも役作りに拘(こだわ)る。男の誠は王女役に徹しきれず、二人が寧ろ喜んで時々替えてくれるのに感謝したが、とかく女の子はこんな際に寛大な態度を取りたがる。二人は誠の意中など心に無くそれぞれの役に没入する、それが年嵩(としかさ)の誠をわくわくさせもする。「ごっこ」の中で心は高揚するから空も飛べるし忍者にもなれるのだ。
女の子二人とどう相手するか、誠は正直困ることがある。香代子は飽くまで年の近い他所の子であり、美帆は妹でまだ幼稚園児だった。悪者が小さなお姫様を誘拐すれば激怒したろうし、相手が小悪党ならお姫様を攫(さら)う方に注力してしまう。誠が悪党なら小さなお姫様は軽々と持ち去るし、大きなお姫様ならぎゅっと掻き抱いて略奪する。体の大小に加えて身内か他人か、無意識に、否(いな)、かなり意識的に遊んでいる気がする……。女の子の、役になり切れる能力、そうしてその維持に長(た)けているのに感心しながら、誠も男役二つを女の子二人に掛け合わせる分だけ情動を区別できる自分にも興奮した。
今しも、居間にいたお姫様をぎゅうっと誠が抱きしめた。途端に「痛い!」って真顔で怒ったかと思うと直ぐに切り替え「あれえーッ、助けて―」とカヨ坊が悲鳴を上げる。「キャーッ」が「あれえーッ」に変えたのは香代子かも知れない。とにかくワンパターンの悲鳴でも「お姫様」は本気だ。彼女の脳天から発した悲鳴が「正義の使者」を呼ぶ。悲鳴は部屋を貫いて轟く。玄関待機の美帆は救済に行くタイミングを計っている。誠から何度も教わり美帆も深く頷いていたから直ぐには出動しない。「溜め」を作るのがその劇の盛り上がりに与(あずか)る正義の使者の大事な役割だった。
「声を出せば殺すぞ」と煌めく剣を背中に当てる。それにはこの剣、長過ぎた。いつものナイフを持っているジェスチャーで良かったかな、とちょっぴり反省(「「遊び」はジェスチャーでいいのだ。ピストルでもマシンガンでも何でもござれだ。たとえ大砲であっても、正義の使者の剣には歯が立たないのだから)。
香代子姫が這って逃げようとしたのを両足を脇に挟んで捕まえた。体が一回りしか小さくないのでかなり手強い、いや重い。スカートが捲れて白いパンツが現れた。とっさに悪いことをしたと悔いたが、相手は小一、そもそもミニスカートなんだし、そして、今の自分は悪者なのだし、構いはしないのだと打ち消す。ただ、下着を随分緩めに履いていると感じた。
さて、座敷のどこに閉じ込めようかと見回したが“見えない壁”を悪者と共有するのには飽きていた。
「よおし、押し入れに閉じ込めてやる」
咄嗟(とっさ)の思い付きに香代子の表情が困惑に覆われた。布団類でいっぱいだろうと今まで使っていなかった場所、いや、女の子は押し入れや物置といった暗い場所を怖がる、いや、嫌がるものなのだ。加えて、未知の展開になりそうな不安、戸惑いもあったろうか。押し入れの上の隙間があまりに僅かだったのは想定外で、けれど、ここで布団を降ろすのでは話にならぬ、張り詰めた緊張が解けてしまう。
「助けてーッ」とまた大声を出す香代子。
馬齢重ねて……若人等に紛れて文字に遊び親しむ……未だにそれが楽しくて……貴ブログにも手を引いて貰いました。
目眩く二月の朝の雪の照り騒ぐ小鳥にこころ合はせる
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