星にときめく 3-① 改めて。続きは3-②へ。
公開 2026/03/15 21:56
最終更新
-
3
同一学区なので白川智子と同じクラスになるかも知れないとの淡い期待は中学校入学式当日の玄関に貼られたA4の紙で早くも散った。入学後もクラス数の多いマンモス中学だったから見かけることはまず無くなった。それでも何かの拍子に遠くに認めれば互いに目礼を交わすくらいはしたものの決して歩み寄ったりはしない。そもそも女の子は苦手と自認する誠だから身近な場所で智子を眺めていたいとの願望は二律背反の苦しみでもあったのであり、それ以上に望めるシチュエーションではないと思い切ればさほどショックは無いのだった。お互いおとなになったのだからと程なく誠は考えるようになったが、相手もそうは違わない筈、それが自然なことだと受け止めた。山下泉もクラスが智子と違った為だろう、一学期後半には行動を一にすることは無くなったようだ。もちろん、泉とも目礼を交わすのは君子の務めだけれど、一体いつまでそうすべきか甚だ心許なかったのも事実だった。
……中学生かぁ、思い返せば制服に身を包んで通学し始めた年齢だ。毎朝ハンガーから外しては真新しい制服の袖に手を通す時のわくわくした気持ちが忘れがたい。ランドセルの小学生とは一線を画すと誰もが意識したろう。実際僅か三年間で身長すら一〇センチ以上伸びて「おとな」に近づく。髪型や姿勢などもやたらと気にし始める思春期は悲喜こもごも、多種多様なことがあって喜怒哀楽の織り目を綿々と綴ってゆく。
しかし、無情なるかな、駆け足で過ぎ去って行くのをどうしようもできなかった。目前に可能性が大きく広がっていると意識するあまりの焦慮だったのか。それだけ思考力も行動力も付いていたし、常に駆使しようと腹積もりしながらベクトルだって想定したのに、実現を図るに時間の短さはどうにもならぬと歯噛みしていたのだろう。
不十分だった三年間を次なる高校三年間に託す心の震えを痛烈に感じたものだ。そして、だからこそ学生時代を貴重な時期と言うんだろうな。消しゴム一つにさえ心が奪われる懐かしい時代……
誠が中三になると隣家のおませ先行の香代子も中学生、多少は大人っぽくなって「マコちゃん」と呼ぶのも気恥ずかしくなったのか、むしろ誠を避けるようになった。そうなると逆に誠の方が積極的に出て「カヨ坊」と呼び掛ける、と何やらモゴモゴ言って逃げてしまう。やっぱり僕のことが好きなんだなと香代子に対しては能天気に扱えるのだった。
誠の生活に一大転機が訪れたのは三年になって学習塾に通うことになった時のことだ。そこで塾通い本来の目的から外れて思いを寄せる子ができた。藤野百合花、たまたま自由席で隣同士となり向こうから数学の時間に質問してきたことがきっかけだった。同じ中学なのになぜ今までその存在に気づかなかったのか、こんなに魅力的な子なのに奇々怪々な自分の頭を当初疑ったが、多くの男子が硬派を自任していた時代だったから意識対象外の事物はなかなか見えないのかも知れないと考えた。また皆んな同じ制服だから個性も隠れて見え辛いこともあるのかも知れないとも推察した。だから、スイッチが入るか入らぬかはほんのタイミングで決まるのだろう。誠も無意識のうちに嵌(はま)ったということだ。
相も変わらず「お姫様」タイプを夢見るばかりで恋愛無縁だった誠に好みの変容など起こり得ない。素直なロン毛にまず目が行くのは今や性癖、けれど、幽霊のように顔半分を隠す手合いは好みの埒外(らちがい)であり、両耳が覗けそうで見えない程度に顔を見せて額に掛かる前髪は流行のカール越しに美肌が透けて見えるふうなのがお気に入りだった。サラサラの長い髪はスポーツなどする時は後ろに結わえる。女剣士のごときポニーテールが大気を泳ぐ。クラスが違えば校内で見かけることはあまり無く、バドミントン部にいたというから局員として図書館に閉じ籠っているような誠に拝める機会はとんと無かったわけである。
美麗な長髪がまず決めてというまるで平安貴族的性向で次にその気質を窺(うかが)う手順。上品で淑(しと)やかというのが塾での初見だ。控えめな質問の仕方にそそられた。そもそも隣席に着く際の「隣、いいですか」の透けるようなメゾソプラノに被ってきた黒髪の艶に心打たれていた誠だったから、質問された時にはどんなに高揚したことだろう。「そんなのいるか」とこっそり打ち明けた親友の安田に揶揄(からか)われたけれど、受験が遠くないこの時期に心が時めくなんて由々しき事態だと冷静になった自分が憂慮したのも事実ではあった。
一度燃え立った心は、昼休みに友達と並んでお喋りしながら通っていく彼女を見逃さずその度にボルテージは跳ね上がった。まるで淑やかさを具現化した彼女の容姿はそこだけ空気を変容させ彼女の足取りの儘にその美空間が移動していくようにさえ見えた。まるで天女のご来臨である。ある日は地味に光る太めのカチューシャが彼女らしさを際立たせ、またある時は赤く可憐なヘアピンだけでも彼女の美しさを助長した。同じ材質の濃紺のブレザー&スカートでさえ寸法も素材も全て別注なのかと誠には見えて、聊(いささ)か意識過剰な自分が気恥ずかしくなって笑い飛ばしてもみた。病疾とどこが違うのだろう? 心身の浮き立つ感じはインフルエンザに罹患して四〇度近く発熱した時と似ていた。
肝心の百合花は誠をどう見ていたのか? 学校では誠に気付かぬふうを装っているようなのが気になった。けれどその確認の時期では毛頭(もうとう)無いと塾での二人の状況が疑心を制した。塾では甘え掛かってくるような彼女の言動にややもすれば気圧(けお)されてつい目を周囲に配ってしまう誠も日を追って恋心が熟したのだろう、堅物(かたぶつ)を返上したような緩やかな表情となり、他人の目がある場所でも彼女の姿を平気で目で追うようになった。そこで持ち上がるのが嫉妬心、百合花が美形であれば尚(なお)のこと、誠だけでなく周りの男の視線も集めていることが腹立たしい、憎らしくなる。また、彼女は学校でも平気で男子と話す姿を誠に見せる。とすると、このジェラシーという概念(がいねん)は彼女に対するものなのか、相手の男たちに向けたものなのか、怪しくなる。誠の判断力を狂わせ、もはや考えるのは煩(わずら)わしく、いや、どっちにもだと言い放つ始末だった。
最初は誠の方がのぼせていたのは確かだ。百合花は色恋には無頓着(むとんちゃく)な純な子に思えたから。異姓にも動じることなく自然にしな垂れることの今時の子(もしくは先鋭的な子)とも思えたからだ。
塾で二人はいつも隣同士の席に着く。噂されても百合花は何ら気にせず誠の隣に陣取った。飽くまで勉強仲間、受験者同士というのが百合花の気持ちだったのだろう。けれど誠の方が次第に状況に臆し始め、不本意な噂に敏感になってきた。それでも、あまりに泰然(たいぜん)と見える百合花に対して却ってその気持ちを問うことができなかった。塾での学習時間以外は一切無視の態度を続けてくれるお陰で誠としては願ったり叶ったりの現状維持なのだから余計なことはしない、いや、できなかった。
だが、噂は瞬く間に広がる。それでも百合花の意志的姿勢に委ねて安息できるほど彼女は頼もしかった。噂の伝播(でんぱ)はやがて同学年内の誰もが指を差すほどとなり、奔出する間欠泉のように羞恥が昂じる誠だったけれど、そうなってしまうと今度は百合花を支えて他を無視する姿勢を貫(つらぬ)いた。今さら噂を打ち消そうにも元へ戻すことは困難であり、「プラトニックなんだから騒がないでよ」なんて文句はふざけてるとしか受け取られないほどになった。足掻(あが)けばそれこそ百合花に対して失礼千万なことになり、実際は噂されるほどの関係ではないのだが、彼女に自分をどう思っているのか今さら聞くこともままならず、いっそ付き合うことにするかと妄想段階では言ってみたり……と悩みの種が今や恥じらい色に開花したようだった。
ある日の学校帰り、住宅が途切れる辺りで仲の良い安田と余所目には素っ気ない別れをした時に後ろから声を掛けられた。女性のか細い声に初めは自分じゃないのではと疑い、二回目で振り返ると百合花だった。誠は驚いて一、二歩身を退いた。普段とはあまりにも違う装い(フレアのある焦げ茶の長めのスカートに薄茶のジャケットを着て、大人っぽかった)と物腰だったから。
「あ、藤野さんかぁ、どうして……」
これがちょっと前なら時めいたろうし、それ以上に連れ立つことが叶うなら誇らしくも思う相手だったのに、「時の人」となってしまった居心地の悪さに誠の心は波立ち頭はカオス状態、既に恋心には及び腰、逃げ腰状態となっていた。拙(まず)いだろ、お互い気をつけなくちゃ。ここはいかにも場所が悪い、自宅にも近過ぎるだろ、と避難するに敏捷(びんしょう)な判断力・行動力の持ち主、裏の路地へと誘った。合わせるように百合花もそそくさと従う。そこは互いに背の高い塀を廻らせている路地なのである。
「ごめんね、驚かせちゃって。生まれて初めてストーカーみたいなこと、しちゃった」
首を竦めて茶目っ気のある物言いの百合花に、誠は腹立たしさが幾らか救われるように思って、釣られて軽く笑ってしまった。
「でも、どうして? 塾でも会えるじゃない」
「だけど誰にも聞かれないところで話したかったの」
誠の心がどきんと鳴る。が、立ち位置がやや判明して余裕ができた。
「それじゃ、どうするかな。ともかく向こうの河原まで行こうか。そんなに遠くはないから」
「そうね、ここは落ち着かないし、道々話もできるしね」
歩きながら誠が背を屈(かが)めるようにしたのは百合花が小柄な所為だけではなかった。寄り添ってやりたい意識があったからだ。夕暮れにはまだ遠いのに、この道に子どもの姿が見えない。陽の落ちるのが早くなったからか。抑々(そもそも)今時の子供は殆どが塾に行くか、家でゲームでもするかなのだろう。ともかく河原は子供たちには近づいてはならぬ時代でもあった。
河原まで行けば完璧に人の目から逃れられると思ったわけだが、意外に距離があったのと百合花の足の運びの遅さに合わせたこともあって、堤防に上がったところで立ち止まった。陽は少し前に沈んだけれど西空は茜色に光っていて綺麗だった。春の風が幾分強く当たった。回りの雑草もいつの間にか背丈を伸ばして、河原も日の入り前だったら若草色に染まっていたのだろう。百合花とこんなにのんびりとした時間の流れの中にいることが信じられなかった。
「なあに」
無意識にお洒落な装いの百合花をぼおっと見ていた迂闊な誠に彼女が聞いてきた。
「いや、……いつものスタジャンじゃないから」
「似合わない?」
「とても似合ってる」
こんな調子の女の子の物言いが苦手だ。わざとらしいから。
「わたしたちの噂、周囲の視線、……嫌よね。ほんとにごめんね……」
「いや、別に藤野さんが悪いんじゃないから」
「でも、わたしが清州君に数学教わろうと思って隣に座ったことからよ」
「そうだとしても、ちょっと仲良くしたからってうるさ過ぎるだろ」
「清州君、人気があるから……」
「ちょっと待ってよ。藤野さんをす、……好む男子が多いからさ、絶対」
『好き』という言葉が言い出し難くって、却って変な物言いになってしまった。
「いや違う。清州君といちゃいちゃしてるって女子が騒いでるのよ。男子はそれに乗っかってるだけ」
「男子のやっかみさ。みっともない」
会話が捗々(はかばか)しく進まぬように感じたらしい百合花が息を飲んで、
「それでね。わたしたち受験生なんだから、邪魔にならないようにするには、どうしたらいいかを相談したかったの」
「……ふむ、そうだね」
お互い結論めいたものはとっくに頭に描いている。なのに……。
「自分ひとりで決めて行動に出るのは、いけないと思った、だから。清州君に悪く取られても嫌だし……」
「うん? 藤野さんの言う通りだと僕も思う」
「……気にしないでもっと仲良くしちゃう?」
百合花が池に小石を落とすように言った。下を向いていた誠が波紋の広がりに驚いて百合花を見た。
「ごめん、冗談、冗談よ。だったら相談なんかしない」
女の子と話をすると、とかく動揺させられる。小学生の頃それが苦手だった誠なのに、今は何やら香の異なるドキドキ感に惹き付けられた……、でも、百合花はけっして穏やかな表情ではなかった。何か言わねばと誠は焦った。
「無視していれば普通は収まっていくだろうけど。受験生のイライラ気分の餌食にされちゃったかな……」
「イライラしちゃ学力増進の阻害になるわね……。わたしは都合よく清州君を利用しただけだったのに」
都合よく? 軽いショックを受けた。そんな言い方、普通する? 自分は最初から好意を持ったのにな、誠は咄嗟(とっさ)に百合花の心が測りかねた。
「でも『餌食』にするなんて酷(ひど)過ぎる。黒板に相合傘を描かれるくらいなら良かったのに」
百合花の言った『相合傘』を想像してしまい、思わず相好を崩した自分に気づいて、誠が態勢を立て直した。
「打つ手なんか、ある?」
「女子のお喋り連中を使って同情を引くとか」百合花が考え込むように言う。
「えっ、どういうこと?」
「わたしの方から彼女たちにお願いするの。手も繋(つな)いだことのない間柄なのに、周囲で騒がれちゃ育つものも育たないわ。どうぞ、今は温かく見守って、と言ってやるの」
こういう女の子の大胆さに、誠は往々にして置いてき堀を食らわされる。
「逆効果にならないかなァ」
「じゃあ、二人して怒鳴り捲(まく)る?」
「それじゃ、益々逆効果だ。藤野さんは結構ギャグをかますんだな、付いていくの、大変だ」
「ごめん、深刻な話をしてるのに冗談なんか言って……でも、半分本気だったりして。……ん、あのね、昨夜考えた最良の策がさっきの方法なんだけど。……実はもう一つあるの、けどあんまり気が進まない……」
「何? 藤野さんに頼ってばかりだけど、……僕はさっぱり思い付かないから」
「あのね、清州君が友達にこっそり打ち明けるの、もちろん、噂が広まるようによ。自分は迷惑してるんだけど相手がしつっこくて、って言うの。そしていやいや教えてくれるわけ。演技よね……最悪、わたしが隣に来たらさっと席を移るのも効果的だわ」
「いやあ、それは、だめだ。藤野さんに悪いもの」
「でも実際、……そんなところもあるんじゃない?」
百合花に鋭く指摘されたようで、動悸が早まる。どうする、素直に好きだって言うべきかな? 清州誠は漢(おとこ)でござる。でも反面、恋愛事は確実に受験の妨げナンバーワンなのだ。それに自分が今、男女交際を真剣に求めているかといえば極めて怪しい。実際、重荷と感じている部分はあるのだから。早期解決後に何とか少し巻き戻して合格まで温い状況を築けるなんて虫がいいだろうか。直ぐに陥る無意味な考えに愛想を尽かして溜息が出てしまう。
「そうだなあ、ベスト、ベターの二策かぁ。要は相思相愛じゃなく片思いなんだと周知させるんだね。……でも、後の方は男子が頼りってことでしょ。思うような結果は出ないと思うなぁ。元凶(げんきょう)が女子たちなんだから。それに、僕は迷惑なんかじゃないよ、……どんどん教えてあげる。藤野さんと勉強するのは楽しいし、僕のためにもなるんだから。藤野さんが隣に座った時に席を移動するなんてこと、簡単だけど最も嫌なことだ」
言ってしまって気恥ずかしい表情を隠しきれない誠に、
「嬉しい、清州くんがそう言ってくれるんだったら……」
百合花はまた意味深な物言いをする。
土手を歩いているうちに陽が沈んで辺りが薄暗くなった。草の生い茂る河原に風のそよぐ音がざわめく。降りなくて良かった。辺りの暗さが二人を常より大胆にしている気がした。それが良いのか悪いのか、板挟みの感覚に捉われた。
「受験ぎりぎりまで、ずっと教えてくれるの?」
後ろから殊勝な声が聞こえた。誠はなぜ背を向けていたろう。
「そうして欲しいなら僕の方は構わないよ」
「……いい人ね、清州君は」
「何ならいっそ、僕たち、付き合ってまーす、って宣言しちゃう?」
と冗談に紛らわせ、それでも勇気を奮って振り向いた。
百合花が見開いた目を向けていた。月光が当たって瞳が光る。魅力的な強い眼差しだ。誠は途端に焦って竦(すく)んでしまう。
「冗談、冗談……。恥ずかしくってとってもできない」
ホントは「冗談」の後に「そんな暇無いよね、受験生は……」と言いそうになったのだ。自分はいったい誰を庇っているのか。この際、客観的判断で最善策を考えなければ……。
俯いてしまった誠に、今の百合花の表情は捉えられない。……そうなんだよな。昔っから僕は、もう一歩足を踏み入れたら局面が打開され幸運幸福が得られそうなところで自己顕示を押し込めた。よほど面白い展開になりそうな着想が閃(ひらめ)いても自分のキャラじゃない、恥ずかしいなどと口を噤んでしまった。興味を持っても込み入った難点が複層しそうなものには尻込みして他愛無い恐怖心から実行を避けた。堅実な選択と嘯きながら、その実、後悔してジ・エンドにすることが何度あったろう。単に気力が足りず、勇気も無い根性無しなのだ。だから、その時も案の定、それ以上に切り込めなかった。……塾の時間が迫っていた。
同一学区なので白川智子と同じクラスになるかも知れないとの淡い期待は中学校入学式当日の玄関に貼られたA4の紙で早くも散った。入学後もクラス数の多いマンモス中学だったから見かけることはまず無くなった。それでも何かの拍子に遠くに認めれば互いに目礼を交わすくらいはしたものの決して歩み寄ったりはしない。そもそも女の子は苦手と自認する誠だから身近な場所で智子を眺めていたいとの願望は二律背反の苦しみでもあったのであり、それ以上に望めるシチュエーションではないと思い切ればさほどショックは無いのだった。お互いおとなになったのだからと程なく誠は考えるようになったが、相手もそうは違わない筈、それが自然なことだと受け止めた。山下泉もクラスが智子と違った為だろう、一学期後半には行動を一にすることは無くなったようだ。もちろん、泉とも目礼を交わすのは君子の務めだけれど、一体いつまでそうすべきか甚だ心許なかったのも事実だった。
……中学生かぁ、思い返せば制服に身を包んで通学し始めた年齢だ。毎朝ハンガーから外しては真新しい制服の袖に手を通す時のわくわくした気持ちが忘れがたい。ランドセルの小学生とは一線を画すと誰もが意識したろう。実際僅か三年間で身長すら一〇センチ以上伸びて「おとな」に近づく。髪型や姿勢などもやたらと気にし始める思春期は悲喜こもごも、多種多様なことがあって喜怒哀楽の織り目を綿々と綴ってゆく。
しかし、無情なるかな、駆け足で過ぎ去って行くのをどうしようもできなかった。目前に可能性が大きく広がっていると意識するあまりの焦慮だったのか。それだけ思考力も行動力も付いていたし、常に駆使しようと腹積もりしながらベクトルだって想定したのに、実現を図るに時間の短さはどうにもならぬと歯噛みしていたのだろう。
不十分だった三年間を次なる高校三年間に託す心の震えを痛烈に感じたものだ。そして、だからこそ学生時代を貴重な時期と言うんだろうな。消しゴム一つにさえ心が奪われる懐かしい時代……
誠が中三になると隣家のおませ先行の香代子も中学生、多少は大人っぽくなって「マコちゃん」と呼ぶのも気恥ずかしくなったのか、むしろ誠を避けるようになった。そうなると逆に誠の方が積極的に出て「カヨ坊」と呼び掛ける、と何やらモゴモゴ言って逃げてしまう。やっぱり僕のことが好きなんだなと香代子に対しては能天気に扱えるのだった。
誠の生活に一大転機が訪れたのは三年になって学習塾に通うことになった時のことだ。そこで塾通い本来の目的から外れて思いを寄せる子ができた。藤野百合花、たまたま自由席で隣同士となり向こうから数学の時間に質問してきたことがきっかけだった。同じ中学なのになぜ今までその存在に気づかなかったのか、こんなに魅力的な子なのに奇々怪々な自分の頭を当初疑ったが、多くの男子が硬派を自任していた時代だったから意識対象外の事物はなかなか見えないのかも知れないと考えた。また皆んな同じ制服だから個性も隠れて見え辛いこともあるのかも知れないとも推察した。だから、スイッチが入るか入らぬかはほんのタイミングで決まるのだろう。誠も無意識のうちに嵌(はま)ったということだ。
相も変わらず「お姫様」タイプを夢見るばかりで恋愛無縁だった誠に好みの変容など起こり得ない。素直なロン毛にまず目が行くのは今や性癖、けれど、幽霊のように顔半分を隠す手合いは好みの埒外(らちがい)であり、両耳が覗けそうで見えない程度に顔を見せて額に掛かる前髪は流行のカール越しに美肌が透けて見えるふうなのがお気に入りだった。サラサラの長い髪はスポーツなどする時は後ろに結わえる。女剣士のごときポニーテールが大気を泳ぐ。クラスが違えば校内で見かけることはあまり無く、バドミントン部にいたというから局員として図書館に閉じ籠っているような誠に拝める機会はとんと無かったわけである。
美麗な長髪がまず決めてというまるで平安貴族的性向で次にその気質を窺(うかが)う手順。上品で淑(しと)やかというのが塾での初見だ。控えめな質問の仕方にそそられた。そもそも隣席に着く際の「隣、いいですか」の透けるようなメゾソプラノに被ってきた黒髪の艶に心打たれていた誠だったから、質問された時にはどんなに高揚したことだろう。「そんなのいるか」とこっそり打ち明けた親友の安田に揶揄(からか)われたけれど、受験が遠くないこの時期に心が時めくなんて由々しき事態だと冷静になった自分が憂慮したのも事実ではあった。
一度燃え立った心は、昼休みに友達と並んでお喋りしながら通っていく彼女を見逃さずその度にボルテージは跳ね上がった。まるで淑やかさを具現化した彼女の容姿はそこだけ空気を変容させ彼女の足取りの儘にその美空間が移動していくようにさえ見えた。まるで天女のご来臨である。ある日は地味に光る太めのカチューシャが彼女らしさを際立たせ、またある時は赤く可憐なヘアピンだけでも彼女の美しさを助長した。同じ材質の濃紺のブレザー&スカートでさえ寸法も素材も全て別注なのかと誠には見えて、聊(いささ)か意識過剰な自分が気恥ずかしくなって笑い飛ばしてもみた。病疾とどこが違うのだろう? 心身の浮き立つ感じはインフルエンザに罹患して四〇度近く発熱した時と似ていた。
肝心の百合花は誠をどう見ていたのか? 学校では誠に気付かぬふうを装っているようなのが気になった。けれどその確認の時期では毛頭(もうとう)無いと塾での二人の状況が疑心を制した。塾では甘え掛かってくるような彼女の言動にややもすれば気圧(けお)されてつい目を周囲に配ってしまう誠も日を追って恋心が熟したのだろう、堅物(かたぶつ)を返上したような緩やかな表情となり、他人の目がある場所でも彼女の姿を平気で目で追うようになった。そこで持ち上がるのが嫉妬心、百合花が美形であれば尚(なお)のこと、誠だけでなく周りの男の視線も集めていることが腹立たしい、憎らしくなる。また、彼女は学校でも平気で男子と話す姿を誠に見せる。とすると、このジェラシーという概念(がいねん)は彼女に対するものなのか、相手の男たちに向けたものなのか、怪しくなる。誠の判断力を狂わせ、もはや考えるのは煩(わずら)わしく、いや、どっちにもだと言い放つ始末だった。
最初は誠の方がのぼせていたのは確かだ。百合花は色恋には無頓着(むとんちゃく)な純な子に思えたから。異姓にも動じることなく自然にしな垂れることの今時の子(もしくは先鋭的な子)とも思えたからだ。
塾で二人はいつも隣同士の席に着く。噂されても百合花は何ら気にせず誠の隣に陣取った。飽くまで勉強仲間、受験者同士というのが百合花の気持ちだったのだろう。けれど誠の方が次第に状況に臆し始め、不本意な噂に敏感になってきた。それでも、あまりに泰然(たいぜん)と見える百合花に対して却ってその気持ちを問うことができなかった。塾での学習時間以外は一切無視の態度を続けてくれるお陰で誠としては願ったり叶ったりの現状維持なのだから余計なことはしない、いや、できなかった。
だが、噂は瞬く間に広がる。それでも百合花の意志的姿勢に委ねて安息できるほど彼女は頼もしかった。噂の伝播(でんぱ)はやがて同学年内の誰もが指を差すほどとなり、奔出する間欠泉のように羞恥が昂じる誠だったけれど、そうなってしまうと今度は百合花を支えて他を無視する姿勢を貫(つらぬ)いた。今さら噂を打ち消そうにも元へ戻すことは困難であり、「プラトニックなんだから騒がないでよ」なんて文句はふざけてるとしか受け取られないほどになった。足掻(あが)けばそれこそ百合花に対して失礼千万なことになり、実際は噂されるほどの関係ではないのだが、彼女に自分をどう思っているのか今さら聞くこともままならず、いっそ付き合うことにするかと妄想段階では言ってみたり……と悩みの種が今や恥じらい色に開花したようだった。
ある日の学校帰り、住宅が途切れる辺りで仲の良い安田と余所目には素っ気ない別れをした時に後ろから声を掛けられた。女性のか細い声に初めは自分じゃないのではと疑い、二回目で振り返ると百合花だった。誠は驚いて一、二歩身を退いた。普段とはあまりにも違う装い(フレアのある焦げ茶の長めのスカートに薄茶のジャケットを着て、大人っぽかった)と物腰だったから。
「あ、藤野さんかぁ、どうして……」
これがちょっと前なら時めいたろうし、それ以上に連れ立つことが叶うなら誇らしくも思う相手だったのに、「時の人」となってしまった居心地の悪さに誠の心は波立ち頭はカオス状態、既に恋心には及び腰、逃げ腰状態となっていた。拙(まず)いだろ、お互い気をつけなくちゃ。ここはいかにも場所が悪い、自宅にも近過ぎるだろ、と避難するに敏捷(びんしょう)な判断力・行動力の持ち主、裏の路地へと誘った。合わせるように百合花もそそくさと従う。そこは互いに背の高い塀を廻らせている路地なのである。
「ごめんね、驚かせちゃって。生まれて初めてストーカーみたいなこと、しちゃった」
首を竦めて茶目っ気のある物言いの百合花に、誠は腹立たしさが幾らか救われるように思って、釣られて軽く笑ってしまった。
「でも、どうして? 塾でも会えるじゃない」
「だけど誰にも聞かれないところで話したかったの」
誠の心がどきんと鳴る。が、立ち位置がやや判明して余裕ができた。
「それじゃ、どうするかな。ともかく向こうの河原まで行こうか。そんなに遠くはないから」
「そうね、ここは落ち着かないし、道々話もできるしね」
歩きながら誠が背を屈(かが)めるようにしたのは百合花が小柄な所為だけではなかった。寄り添ってやりたい意識があったからだ。夕暮れにはまだ遠いのに、この道に子どもの姿が見えない。陽の落ちるのが早くなったからか。抑々(そもそも)今時の子供は殆どが塾に行くか、家でゲームでもするかなのだろう。ともかく河原は子供たちには近づいてはならぬ時代でもあった。
河原まで行けば完璧に人の目から逃れられると思ったわけだが、意外に距離があったのと百合花の足の運びの遅さに合わせたこともあって、堤防に上がったところで立ち止まった。陽は少し前に沈んだけれど西空は茜色に光っていて綺麗だった。春の風が幾分強く当たった。回りの雑草もいつの間にか背丈を伸ばして、河原も日の入り前だったら若草色に染まっていたのだろう。百合花とこんなにのんびりとした時間の流れの中にいることが信じられなかった。
「なあに」
無意識にお洒落な装いの百合花をぼおっと見ていた迂闊な誠に彼女が聞いてきた。
「いや、……いつものスタジャンじゃないから」
「似合わない?」
「とても似合ってる」
こんな調子の女の子の物言いが苦手だ。わざとらしいから。
「わたしたちの噂、周囲の視線、……嫌よね。ほんとにごめんね……」
「いや、別に藤野さんが悪いんじゃないから」
「でも、わたしが清州君に数学教わろうと思って隣に座ったことからよ」
「そうだとしても、ちょっと仲良くしたからってうるさ過ぎるだろ」
「清州君、人気があるから……」
「ちょっと待ってよ。藤野さんをす、……好む男子が多いからさ、絶対」
『好き』という言葉が言い出し難くって、却って変な物言いになってしまった。
「いや違う。清州君といちゃいちゃしてるって女子が騒いでるのよ。男子はそれに乗っかってるだけ」
「男子のやっかみさ。みっともない」
会話が捗々(はかばか)しく進まぬように感じたらしい百合花が息を飲んで、
「それでね。わたしたち受験生なんだから、邪魔にならないようにするには、どうしたらいいかを相談したかったの」
「……ふむ、そうだね」
お互い結論めいたものはとっくに頭に描いている。なのに……。
「自分ひとりで決めて行動に出るのは、いけないと思った、だから。清州君に悪く取られても嫌だし……」
「うん? 藤野さんの言う通りだと僕も思う」
「……気にしないでもっと仲良くしちゃう?」
百合花が池に小石を落とすように言った。下を向いていた誠が波紋の広がりに驚いて百合花を見た。
「ごめん、冗談、冗談よ。だったら相談なんかしない」
女の子と話をすると、とかく動揺させられる。小学生の頃それが苦手だった誠なのに、今は何やら香の異なるドキドキ感に惹き付けられた……、でも、百合花はけっして穏やかな表情ではなかった。何か言わねばと誠は焦った。
「無視していれば普通は収まっていくだろうけど。受験生のイライラ気分の餌食にされちゃったかな……」
「イライラしちゃ学力増進の阻害になるわね……。わたしは都合よく清州君を利用しただけだったのに」
都合よく? 軽いショックを受けた。そんな言い方、普通する? 自分は最初から好意を持ったのにな、誠は咄嗟(とっさ)に百合花の心が測りかねた。
「でも『餌食』にするなんて酷(ひど)過ぎる。黒板に相合傘を描かれるくらいなら良かったのに」
百合花の言った『相合傘』を想像してしまい、思わず相好を崩した自分に気づいて、誠が態勢を立て直した。
「打つ手なんか、ある?」
「女子のお喋り連中を使って同情を引くとか」百合花が考え込むように言う。
「えっ、どういうこと?」
「わたしの方から彼女たちにお願いするの。手も繋(つな)いだことのない間柄なのに、周囲で騒がれちゃ育つものも育たないわ。どうぞ、今は温かく見守って、と言ってやるの」
こういう女の子の大胆さに、誠は往々にして置いてき堀を食らわされる。
「逆効果にならないかなァ」
「じゃあ、二人して怒鳴り捲(まく)る?」
「それじゃ、益々逆効果だ。藤野さんは結構ギャグをかますんだな、付いていくの、大変だ」
「ごめん、深刻な話をしてるのに冗談なんか言って……でも、半分本気だったりして。……ん、あのね、昨夜考えた最良の策がさっきの方法なんだけど。……実はもう一つあるの、けどあんまり気が進まない……」
「何? 藤野さんに頼ってばかりだけど、……僕はさっぱり思い付かないから」
「あのね、清州君が友達にこっそり打ち明けるの、もちろん、噂が広まるようによ。自分は迷惑してるんだけど相手がしつっこくて、って言うの。そしていやいや教えてくれるわけ。演技よね……最悪、わたしが隣に来たらさっと席を移るのも効果的だわ」
「いやあ、それは、だめだ。藤野さんに悪いもの」
「でも実際、……そんなところもあるんじゃない?」
百合花に鋭く指摘されたようで、動悸が早まる。どうする、素直に好きだって言うべきかな? 清州誠は漢(おとこ)でござる。でも反面、恋愛事は確実に受験の妨げナンバーワンなのだ。それに自分が今、男女交際を真剣に求めているかといえば極めて怪しい。実際、重荷と感じている部分はあるのだから。早期解決後に何とか少し巻き戻して合格まで温い状況を築けるなんて虫がいいだろうか。直ぐに陥る無意味な考えに愛想を尽かして溜息が出てしまう。
「そうだなあ、ベスト、ベターの二策かぁ。要は相思相愛じゃなく片思いなんだと周知させるんだね。……でも、後の方は男子が頼りってことでしょ。思うような結果は出ないと思うなぁ。元凶(げんきょう)が女子たちなんだから。それに、僕は迷惑なんかじゃないよ、……どんどん教えてあげる。藤野さんと勉強するのは楽しいし、僕のためにもなるんだから。藤野さんが隣に座った時に席を移動するなんてこと、簡単だけど最も嫌なことだ」
言ってしまって気恥ずかしい表情を隠しきれない誠に、
「嬉しい、清州くんがそう言ってくれるんだったら……」
百合花はまた意味深な物言いをする。
土手を歩いているうちに陽が沈んで辺りが薄暗くなった。草の生い茂る河原に風のそよぐ音がざわめく。降りなくて良かった。辺りの暗さが二人を常より大胆にしている気がした。それが良いのか悪いのか、板挟みの感覚に捉われた。
「受験ぎりぎりまで、ずっと教えてくれるの?」
後ろから殊勝な声が聞こえた。誠はなぜ背を向けていたろう。
「そうして欲しいなら僕の方は構わないよ」
「……いい人ね、清州君は」
「何ならいっそ、僕たち、付き合ってまーす、って宣言しちゃう?」
と冗談に紛らわせ、それでも勇気を奮って振り向いた。
百合花が見開いた目を向けていた。月光が当たって瞳が光る。魅力的な強い眼差しだ。誠は途端に焦って竦(すく)んでしまう。
「冗談、冗談……。恥ずかしくってとってもできない」
ホントは「冗談」の後に「そんな暇無いよね、受験生は……」と言いそうになったのだ。自分はいったい誰を庇っているのか。この際、客観的判断で最善策を考えなければ……。
俯いてしまった誠に、今の百合花の表情は捉えられない。……そうなんだよな。昔っから僕は、もう一歩足を踏み入れたら局面が打開され幸運幸福が得られそうなところで自己顕示を押し込めた。よほど面白い展開になりそうな着想が閃(ひらめ)いても自分のキャラじゃない、恥ずかしいなどと口を噤んでしまった。興味を持っても込み入った難点が複層しそうなものには尻込みして他愛無い恐怖心から実行を避けた。堅実な選択と嘯きながら、その実、後悔してジ・エンドにすることが何度あったろう。単に気力が足りず、勇気も無い根性無しなのだ。だから、その時も案の定、それ以上に切り込めなかった。……塾の時間が迫っていた。
