与鳳行7 与鳳行第3集の鍵
公開 2025/03/14 22:50
最終更新
2025/03/16 21:54
🌔雲娘と三郎は、沈璃と行雲の手助けで、再会するが、このままでは、雲娘の命に関わる、三郎も行く場所をなくす、と言われた三郎は、(天界へ)行くことを決める。お互いを思っての選択。本人たちが決めることだ、と行雲が言う。
🌔沈璃は、これまで戦場で命を落とした兵士たちの魂をあの世に送り出す法術を何度となく使ってきた。戦が生じさせる悲しみは、彼女にとって切実なものだ。
🌔仮に自分が死んでも、残った人たちには自分を忘れてほしい、人間の「人生」は過去ではない、これから先こそが「人生」だ、と沈璃が言うと、行雲は、そうではない、「人生」というのは「今」なのだ、と言う。
これは、近年の「ウェルビーイング(よりよい状態)」についての考え方と同じだろう。現在のことよりも未来のことを考える、というのではなく、現在の「この瞬間」を大切にしていくのがよい、というものだ。
行雲と沈璃の考え方は、いろいろと異なるが、それをお互いに興味深く、受けとめている。
沈璃はとても真摯に理解しようとするし、なるほどと思った場合には、素直に受け入れる。行雲が相手だからとりわけそうなのかもしれないが、おそらく、部下や周りの人たちともそのように、率直につきあっているのだろうと想像される。
行雲は自分とはちがう沈璃を興味深く、好ましく思っていて、今は、行雲が諭したり、教えたりすることが多いが、やがては彼のほうも影響を受けることになる。
🌔沈璃は、行雲があまり「人助け」をしないと思っていたので、手伝ってくれるとは思っていなかった。行雲は、「沈璃」を手伝ったのだ、と言う。行雲の気持ちはとてもはっきりしている。
🌔沈璃と行雲は、「あなたは陣を敷いて」、「私が陣を敷く間、三郎をひきつけておいてくれ」、「私は術は使えない、君が彼を送り出してくれ」とそれぞれの役割を相手に依頼する。お互いの力を認めていて、呼吸はすでにぴったり。
🌔天灯のあがる光景が美しい。橋でよろめいて水に落ちる行雲。水は苦手なのだが、沈璃が、飛び込んで行雲を助ける。おそらく、行雲は泳げるのだろうが、彼女が飛び込んで助けに来てくれたことに満足している。髪をひっぱって、乱暴に助けあげられる。中国ドラマでは、水に落ちる主役2人のシーンは、お約束。「宮廷恋仕官」でも、泳ぎの得意な女主が飛び込んで、男主を助けていた。
🌔また鳥の姿になって帰宅した沈璃。翌日、庭の陣のかなめの石を動かしたことで、人間の姿に戻る。からかわれいるのか、なぜ、ひきとめようとするのか、行雲は何者なのか、沈璃は一生懸命に推測しているが、うまくかわされるせいもあって、わからないでいる。
🌔沈璃、行雲という名前は、女性、男性らしくない、と言い合い、では、君が陽、私が陰、2人は釣り合っている、と行雲が言う。これが、本ドラマの、重要なコンセプト。男が陽、女が陰、というこれまでの役割ではなく、それぞれに、いわゆる「男性らしさ」も持ち、いわゆる「女性」のような面もある。この点をはっきり打ち出しているのが、現代的ともいえる。
🌔この場面では、庭のシンボルツリーから赤い花びらがふりそぞぐ。中国ドラマで、花びらが主役2人にふりそぞぐのは、両想いになったとき、というのがお約束。ここまで、行雲のほうが先に、鳥を気に入り、彼女の言動も好きになっているように見える。沈璃は、この人は何者なのか、といぶかしんではいるが、雲娘・三郎を2人で助けたあと、気持ちが近づいている。水落ちのシーン、花びらがふりそぞぐこのシーンは、沈璃が行雲への気持ちを自覚するステップなのだろう。
🌔葉っぱの記録では、今、行雲は20歳。行雲はもっとずっと年上に見えるが、第1集からの彼の表情には、青年のように見えるときがある。鳥に対してふざけたり、からかったり、冗談や嘘を言ったりし、人間らしい、というのか、子どもっぽさがある。一方で、普通の20歳の人間とはちがって、とても落ち着いて(老けて)見えるのだが、それはそれでいいのだろう。(実は、天外天の、上古神なのだから。)
🌔行雲は、葡萄棚で、葡萄を育てている。とても甘い。房にならない、めずらしい品種。まもなく夏になれば、甘くなる。今は初夏ということか。
🌔霊界では、尚北将軍が、墨方のところを訪ねる。墨方の心配もしつつ、まだ、みつかっていない「王爺」を探していることもわかる。尚北将軍と、墨方や沈璃の距離の近さが感じられる。
🌔沈璃は、これまで戦場で命を落とした兵士たちの魂をあの世に送り出す法術を何度となく使ってきた。戦が生じさせる悲しみは、彼女にとって切実なものだ。
🌔仮に自分が死んでも、残った人たちには自分を忘れてほしい、人間の「人生」は過去ではない、これから先こそが「人生」だ、と沈璃が言うと、行雲は、そうではない、「人生」というのは「今」なのだ、と言う。
これは、近年の「ウェルビーイング(よりよい状態)」についての考え方と同じだろう。現在のことよりも未来のことを考える、というのではなく、現在の「この瞬間」を大切にしていくのがよい、というものだ。
行雲と沈璃の考え方は、いろいろと異なるが、それをお互いに興味深く、受けとめている。
沈璃はとても真摯に理解しようとするし、なるほどと思った場合には、素直に受け入れる。行雲が相手だからとりわけそうなのかもしれないが、おそらく、部下や周りの人たちともそのように、率直につきあっているのだろうと想像される。
行雲は自分とはちがう沈璃を興味深く、好ましく思っていて、今は、行雲が諭したり、教えたりすることが多いが、やがては彼のほうも影響を受けることになる。
🌔沈璃は、行雲があまり「人助け」をしないと思っていたので、手伝ってくれるとは思っていなかった。行雲は、「沈璃」を手伝ったのだ、と言う。行雲の気持ちはとてもはっきりしている。
🌔沈璃と行雲は、「あなたは陣を敷いて」、「私が陣を敷く間、三郎をひきつけておいてくれ」、「私は術は使えない、君が彼を送り出してくれ」とそれぞれの役割を相手に依頼する。お互いの力を認めていて、呼吸はすでにぴったり。
🌔天灯のあがる光景が美しい。橋でよろめいて水に落ちる行雲。水は苦手なのだが、沈璃が、飛び込んで行雲を助ける。おそらく、行雲は泳げるのだろうが、彼女が飛び込んで助けに来てくれたことに満足している。髪をひっぱって、乱暴に助けあげられる。中国ドラマでは、水に落ちる主役2人のシーンは、お約束。「宮廷恋仕官」でも、泳ぎの得意な女主が飛び込んで、男主を助けていた。
🌔また鳥の姿になって帰宅した沈璃。翌日、庭の陣のかなめの石を動かしたことで、人間の姿に戻る。からかわれいるのか、なぜ、ひきとめようとするのか、行雲は何者なのか、沈璃は一生懸命に推測しているが、うまくかわされるせいもあって、わからないでいる。
🌔沈璃、行雲という名前は、女性、男性らしくない、と言い合い、では、君が陽、私が陰、2人は釣り合っている、と行雲が言う。これが、本ドラマの、重要なコンセプト。男が陽、女が陰、というこれまでの役割ではなく、それぞれに、いわゆる「男性らしさ」も持ち、いわゆる「女性」のような面もある。この点をはっきり打ち出しているのが、現代的ともいえる。
🌔この場面では、庭のシンボルツリーから赤い花びらがふりそぞぐ。中国ドラマで、花びらが主役2人にふりそぞぐのは、両想いになったとき、というのがお約束。ここまで、行雲のほうが先に、鳥を気に入り、彼女の言動も好きになっているように見える。沈璃は、この人は何者なのか、といぶかしんではいるが、雲娘・三郎を2人で助けたあと、気持ちが近づいている。水落ちのシーン、花びらがふりそぞぐこのシーンは、沈璃が行雲への気持ちを自覚するステップなのだろう。
🌔葉っぱの記録では、今、行雲は20歳。行雲はもっとずっと年上に見えるが、第1集からの彼の表情には、青年のように見えるときがある。鳥に対してふざけたり、からかったり、冗談や嘘を言ったりし、人間らしい、というのか、子どもっぽさがある。一方で、普通の20歳の人間とはちがって、とても落ち着いて(老けて)見えるのだが、それはそれでいいのだろう。(実は、天外天の、上古神なのだから。)
🌔行雲は、葡萄棚で、葡萄を育てている。とても甘い。房にならない、めずらしい品種。まもなく夏になれば、甘くなる。今は初夏ということか。
🌔霊界では、尚北将軍が、墨方のところを訪ねる。墨方の心配もしつつ、まだ、みつかっていない「王爺」を探していることもわかる。尚北将軍と、墨方や沈璃の距離の近さが感じられる。