カハタレ「気遣いの幽霊」2023/11/24
公開 2023/11/26 16:11
最終更新
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24日に観た演劇の感想を今更書きます。ここ数年Twitterに慣れすぎていて、適当に短文でわかった気になったような文章をインターネットに放出してるだけなのは良くない。
「気遣いの幽霊」
(※あらすじとキャストクレジットは公式サイトからの引用
https://kahatare.hatenablog.com/entry/2023/10/01/100112)
◆あらすじ
11月のある夜、あやは友達のともみから「彼氏が幽霊に出会った」という話を聞かされる。
その幽霊の名前は"木田くん"。どうしてこの世に自分が留まっているのか分からずに困っているらしい。ともみの彼氏・佐伯は、木田を成仏させるため一肌脱ごうと決意し、そんな佐伯にともみは振り回されているというのだが...。
◆作・演出
稲垣和俊(カハタレ)
◆出演
秋場清之
丹澤美緒(カハタレ)
中村あさき
南出達行(カハタレ)
宮尾昌宏
◆感想
この舞台は二人の登場人物の会話で展開されていく。舞台が始まって最初に驚いたのは役者が四人横並びで座っていることだった。通常の舞台は話のスポットの当たる役者のみが舞台に立つ。話のスポットに関係ない役者が舞台に立つと話の理解の妨げになる上に、役を与えられず手持無沙汰な役者は劇を観る上でノイズにしかならないからだ。
しかし、「気遣いの幽霊」ではこのようなノイズは起きなかった。横並びで役者を並べることで会話の伝聞の様子を演習したからだ。舞台は映画と異なり見せたいシーンだけを抜き出すことができないので、どうしても会話の中心にいない役者の姿が観客に見えてしまう。しかし、役者が手持無沙汰にならないように会話が移り変わるテンポが計算されており、きれいに会話の中心が行き来するので没入感を阻害することはなかった。
シナリオはゴーゴリの「外套」から発想を得ていることから、シナリオのわかりやすい筋はなく、贅肉のような脱線が殆どである。それはこの劇で繰り返し言われる「あれ? 今何の話してんの?」というフレーズからも意図的なものだろう。
わかりやすいシナリオの筋がないことは作品の面白さに直接影響しないが、しっかりとシナリオを管理し脱線の域を越えてシナリオから逸脱してしまうと、作品に必要な最低限のまとまりがなく悪い意味で意味がわからない作品になってしまうリスクがある。文章のように読み返しが出来ず自分のペースで見ることの出来ない演劇ではそれは特に顕著である。本作の素晴らしいところはそのような逸脱はなく、脱線をラインを守っているバランス感覚だ。ここでも作中でよく使われている「あれ? 今何の話してんの?」という言葉が歯止めとして適切なタイミングで使われている。
正直この作品の面白さは脱線であり、主題がどうこう言うのは野暮な気しかしないが、一応主題とされている「気遣い」について最後に感想を述べる。
作中で「気遣い」のない鍋パが行われるが、剥き出しの自我がぶつかり合い完全に鍋パは失敗に終わる。「気遣い」とは人間同士の関係性を繋ぐ潤滑油である。これがなければ人間は健全な関係性を結ぶことはできないだろう。
しかし、「気遣い」は労力がかかる上に「気遣い」は具体的に目に見る事はできない。まるで幽霊のような存在だ。そのため、適切な「気遣い」は誰にもわからず、現実に誰が作ったのかわからない「気遣い」のルールがマナーとして出回っている。実体のない「気遣い」に人は翻弄されて消費されている。
作中で「もう関わらない方が良い」というフレーズが出てくるが、これは一番簡単な「気遣い」から脱出する方法である。最終的に主人公以外は木田くんを忘れてしまうが、自分の存在を記憶から消すことで何も気にせず関わり合いにならない状況に相手を置くのは木田くんの「気遣い」なのかもしれない。
※主人公が木田くんを覚えていたのは私の中で咀嚼出来てないので皆感想書いてください。
「気遣いの幽霊」
(※あらすじとキャストクレジットは公式サイトからの引用
https://kahatare.hatenablog.com/entry/2023/10/01/100112)
◆あらすじ
11月のある夜、あやは友達のともみから「彼氏が幽霊に出会った」という話を聞かされる。
その幽霊の名前は"木田くん"。どうしてこの世に自分が留まっているのか分からずに困っているらしい。ともみの彼氏・佐伯は、木田を成仏させるため一肌脱ごうと決意し、そんな佐伯にともみは振り回されているというのだが...。
◆作・演出
稲垣和俊(カハタレ)
◆出演
秋場清之
丹澤美緒(カハタレ)
中村あさき
南出達行(カハタレ)
宮尾昌宏
◆感想
この舞台は二人の登場人物の会話で展開されていく。舞台が始まって最初に驚いたのは役者が四人横並びで座っていることだった。通常の舞台は話のスポットの当たる役者のみが舞台に立つ。話のスポットに関係ない役者が舞台に立つと話の理解の妨げになる上に、役を与えられず手持無沙汰な役者は劇を観る上でノイズにしかならないからだ。
しかし、「気遣いの幽霊」ではこのようなノイズは起きなかった。横並びで役者を並べることで会話の伝聞の様子を演習したからだ。舞台は映画と異なり見せたいシーンだけを抜き出すことができないので、どうしても会話の中心にいない役者の姿が観客に見えてしまう。しかし、役者が手持無沙汰にならないように会話が移り変わるテンポが計算されており、きれいに会話の中心が行き来するので没入感を阻害することはなかった。
シナリオはゴーゴリの「外套」から発想を得ていることから、シナリオのわかりやすい筋はなく、贅肉のような脱線が殆どである。それはこの劇で繰り返し言われる「あれ? 今何の話してんの?」というフレーズからも意図的なものだろう。
わかりやすいシナリオの筋がないことは作品の面白さに直接影響しないが、しっかりとシナリオを管理し脱線の域を越えてシナリオから逸脱してしまうと、作品に必要な最低限のまとまりがなく悪い意味で意味がわからない作品になってしまうリスクがある。文章のように読み返しが出来ず自分のペースで見ることの出来ない演劇ではそれは特に顕著である。本作の素晴らしいところはそのような逸脱はなく、脱線をラインを守っているバランス感覚だ。ここでも作中でよく使われている「あれ? 今何の話してんの?」という言葉が歯止めとして適切なタイミングで使われている。
正直この作品の面白さは脱線であり、主題がどうこう言うのは野暮な気しかしないが、一応主題とされている「気遣い」について最後に感想を述べる。
作中で「気遣い」のない鍋パが行われるが、剥き出しの自我がぶつかり合い完全に鍋パは失敗に終わる。「気遣い」とは人間同士の関係性を繋ぐ潤滑油である。これがなければ人間は健全な関係性を結ぶことはできないだろう。
しかし、「気遣い」は労力がかかる上に「気遣い」は具体的に目に見る事はできない。まるで幽霊のような存在だ。そのため、適切な「気遣い」は誰にもわからず、現実に誰が作ったのかわからない「気遣い」のルールがマナーとして出回っている。実体のない「気遣い」に人は翻弄されて消費されている。
作中で「もう関わらない方が良い」というフレーズが出てくるが、これは一番簡単な「気遣い」から脱出する方法である。最終的に主人公以外は木田くんを忘れてしまうが、自分の存在を記憶から消すことで何も気にせず関わり合いにならない状況に相手を置くのは木田くんの「気遣い」なのかもしれない。
※主人公が木田くんを覚えていたのは私の中で咀嚼出来てないので皆感想書いてください。
