M先生の思い出
公開 2024/04/28 10:42
最終更新
2024/06/17 22:06
昨年末から年明けにかけて、歴史学に携わっていた地元の先生がお二人、お亡くなりになりました。
うち、お一人のM先生は、私の最初のゼミ指導教員かつ先生にとっては私が最後のゼミ生でありまして、ご指導を賜っていた時期は短いのですが、訃報にはとてもショックを受けております。
ゼミ生だったとはいえども、直接ご指導を賜ったのは実質半年にも満たない期間であり、先生とは濃いお付き合いをするには至りませんでした。今では積極的に関係を築かなかった学生時代の自分には悔いるばかりです。
先日、有志による両氏の学問を語る会なるものが催されました。
多くの研究者の方が先生方との思い出をお話されておりましたので、ほんの少しではありますが、私もこの場をかりて、ひっそりと先生との思い出を書き記しておこうと思います。
***
大学受験を控えた高校3年生だった私は、歴史学ゼミが活発な大学を探しており、志望校に挙げたのが今では母校となった大学です。そうはいっても、そのときにM先生のお名前を知ることはなく、T先生という別の先生が担当する歴史学ゼミを目指して受験をしました。
しかし、いざ入学するとT先生は他学部に異動。後任として私の入学と同時に着任したのがM先生でした。
M先生をはじめてお見かけしたのは入学後の学科オリエンテーションのときで、静かに柔和な笑みを浮かべており、小さくて優しそうなおじいちゃん、という印象だったのを覚えています。挨拶の際に、「温故知新」の四字熟語をまじえて歴史についてお話されてたような気がしますが、残念ながら当時アホな新入生だった私は記憶が定かではありません。
それが、ちょうど10年前の春のこと。
最初に受けた先生の講義は日本史概論。
先生の専門は貿易や外交などようするに海域史学と呼ばれる分野ですが、その視座は世界史・日本史をミクロからマクロに広く網羅し縦断するもので(研究者なので当たり前ですが)、高校の日本史B程度の知識しかない私にとっては難解な講義内容でした。
(普通は入学前に専攻する分野の研究書をそこそこ読んでくるわけですが、パァな私にはその発想がなく、これが後年の卒論・修論のときに大きなハンデかつ痛手となります。)
「よくわからん」
これに尽きる一年であり、この時点で私は先生および海域史にそこはかとない苦手意識を抱きます。
(海域史に手をつけないことは地元の歴史学を学ぶには致命的ですし、この段階でむいてないと判断されてもおかしくないですね。)
当学ではゼミの開始が3年次からであったため、1年次の日本史概論終了後しばらくは交流と呼べるほどの先生との関わりはありませんでした。
そして2年次の冬、先生に対してはよくわからないと思いつつも相変わらず「歴史をやりたい」などという己でも出所不明な志望動機を認めた申請書を提出した私は、次年度、希望通りにM先生のゼミに配属されるのでした。
年度明け、私を含めてゼミに配属された同期は3名、そしてすでに在籍していた卒論を控える上級生2名の合計5名で、この年のゼミが開講。この時期の私は、これからも「よくわからない」と思いながらも、来年になったら先生に何か教えてもらいながら卒論を書いてるんだろうな、と、漠然とそう思っていました。
(指導教員がつけば卒論書けるとかいうクソな考えを持っていたわけです)
ゼミがはじまり、いちばん最初に先生から与えられた課題は、該当する書籍から王国時代の歴代在番奉行のリストを作成すること。
当時私の興味はガチガチの文献史学というより、どちらかというと文学寄りで、そのうえ対象は地方や離島地域。在番奉行とか興味ないんだが、というモチベーション。今思えば完全に無知でアホなのですが、基礎的な文献も網羅しておらず研究のイロハも知らない私はダラダラとExcelにデータを打ち込んだだけの表(たぶんA4ペライチだった)をゼミで提出しました。
(普通はプラスアルファで他の文献読んで深めた考察とか書きますよね?)
あまりにも惰性で演習に出席していたため、この表について先生がどうレスポンスをなさったのかはまったく覚えておりません。
そんなクソなムーブをかまし続けた私に対しても、先生は自著を含めていろんな論文の抜き刷りを頻繁にくださいました。しかもニコニコしながら。
あのときすぐに読んでいれば、と後悔してもあとの祭りです。
状況が変わったのは、そんな自己主張だけ強くて他力本願な大学生活3回目の夏休みが明けた頃。
徐々にゼミの休講が増え、秋に入った頃にはほとんど先生をお見かけすることはなくなりました。かねてより、体調不良とは連絡を受けていましたが、実は以前からご病気を患っていたと知ったのは、これよりもう少しあとのこと。
とはいえ、担当教員が不在でも大学側は学生を卒業させなければならないわけで。ということで、年明けに卒論の提出を控えた4年次は、同じ学科に在籍する歴史教育学や人文地理学の先生が指導にあたり、私と2人の同期は単位稼ぎで登録していた副ゼミ(という慣習があった)の教員に、年度末まで面倒を見てもらっていました。
(通常、ゼミはひとつですが、卒業テーマに関連しそうな他ゼミの演習を受講登録して指導を受けることができる慣習がありました)
そして、どうにか4年次が卒業できた年度末、当時の学年主任からM先生が正式に休職される旨の連絡が入ったのです。
それから、私と同期は隣の学部のT先生のゼミに引き取られ、卒業研究の厳しさを身を以て知りながら卒論を提出するに至るのでした。
(T先生は私が入学前に指導を希望していた先生なので、一周回って良くも悪くも希望通りになったわけです)
ちなみに、このとき私は脱稿した卒論原稿をM先生に送ってすらいません。
しかも、修士課程への入学(ようするに研究の継続)が決まっているにも関わらず、である。
あまりにも恩知らずではないか22歳の私。
卒論提出後の春休みに出席した学会に、少しだけ体調がよくなっていた先生がいらしておりました。そこで私に「教員として指導できず、申し訳ない」と頭を下げた先生を目の前にして、ようやく自分がかましてきた数々の自意識過剰なクソムーブに気づいたのでした。
これがM先生との最後の会話。
その後、私は己のキャパに見合わないストレスを抱えながら修士論文を提出し、研究はもうこりごりであると見切りをつけてごく一般的な社畜への道を歩むことになります。
最後にM先生と関わらせていただいたのは、私の修了間際からはじまった先生の単著の編集と退官される際の研究室の整理でした。
数えてみると実に200本を超える論文を世に出していたらしい先生ですが、今の今まで単著というものを出しておらず、先生が見届けられるうちに刊行を、ということで論文をまとめた単著の編集プロジェクトが開始。M先生の元ゼミ生ということで私を気遣ってくれたT先生から、恐縮にも編集メンバーにお誘いいただいた次第でした。
(ちなみに大した仕事はしていない)
修論と口頭試問(尋問)が通り、私の修了が許可された3月。
先生の単著も無事に刊行され、退官も決定したころ。
私を含め先生と関わりのあった4名で、先生の研究室から荷物の引き上げをすることになりました。
10畳に満たない部屋に所狭しと積もった本、資料、本、本、メモ……。
どの本にも、かならず1枚は挟まっている考察メモ。美術史や化粧史、その他諸々、先生の専門外の分野の資料やレジュメ。メモをみると、前任校で受け持った学生たちのために集めたものであったことがわかりました。
先生が本学に応募した際、「学生の教育に力を入れたい」とおっしゃっていたことを、私は先日の語る会であらためて知ることとなったのです。
M先生の単著(上下巻)は、研究から離れた現在でもよく開きます。
洗礼された文章で描かれる歴史、けれどもその下地には凄まじい実証がともなっていて、間違いなく触れる人を惹きつける研究。
読むたびに、「もっと詳しくお聞きしたい」「お話をうかがいたい」、今になってようやく、そう思うようになりました。何もかもすでに時遅しなのですが。。
多くの課題を残したまま終えた学生時代でしたが、自らM先生に教えを乞うことができなかったことは、大きな後悔としていつまでも抱えていくんだろうなと思いました。
中途半端になりましたが、文章はこのあたりで閉じさせていただきます。
あらためてM先生のご冥福をお祈りいたします。
うち、お一人のM先生は、私の最初のゼミ指導教員かつ先生にとっては私が最後のゼミ生でありまして、ご指導を賜っていた時期は短いのですが、訃報にはとてもショックを受けております。
ゼミ生だったとはいえども、直接ご指導を賜ったのは実質半年にも満たない期間であり、先生とは濃いお付き合いをするには至りませんでした。今では積極的に関係を築かなかった学生時代の自分には悔いるばかりです。
先日、有志による両氏の学問を語る会なるものが催されました。
多くの研究者の方が先生方との思い出をお話されておりましたので、ほんの少しではありますが、私もこの場をかりて、ひっそりと先生との思い出を書き記しておこうと思います。
***
大学受験を控えた高校3年生だった私は、歴史学ゼミが活発な大学を探しており、志望校に挙げたのが今では母校となった大学です。そうはいっても、そのときにM先生のお名前を知ることはなく、T先生という別の先生が担当する歴史学ゼミを目指して受験をしました。
しかし、いざ入学するとT先生は他学部に異動。後任として私の入学と同時に着任したのがM先生でした。
M先生をはじめてお見かけしたのは入学後の学科オリエンテーションのときで、静かに柔和な笑みを浮かべており、小さくて優しそうなおじいちゃん、という印象だったのを覚えています。挨拶の際に、「温故知新」の四字熟語をまじえて歴史についてお話されてたような気がしますが、残念ながら当時アホな新入生だった私は記憶が定かではありません。
それが、ちょうど10年前の春のこと。
最初に受けた先生の講義は日本史概論。
先生の専門は貿易や外交などようするに海域史学と呼ばれる分野ですが、その視座は世界史・日本史をミクロからマクロに広く網羅し縦断するもので(研究者なので当たり前ですが)、高校の日本史B程度の知識しかない私にとっては難解な講義内容でした。
(普通は入学前に専攻する分野の研究書をそこそこ読んでくるわけですが、パァな私にはその発想がなく、これが後年の卒論・修論のときに大きなハンデかつ痛手となります。)
「よくわからん」
これに尽きる一年であり、この時点で私は先生および海域史にそこはかとない苦手意識を抱きます。
(海域史に手をつけないことは地元の歴史学を学ぶには致命的ですし、この段階でむいてないと判断されてもおかしくないですね。)
当学ではゼミの開始が3年次からであったため、1年次の日本史概論終了後しばらくは交流と呼べるほどの先生との関わりはありませんでした。
そして2年次の冬、先生に対してはよくわからないと思いつつも相変わらず「歴史をやりたい」などという己でも出所不明な志望動機を認めた申請書を提出した私は、次年度、希望通りにM先生のゼミに配属されるのでした。
年度明け、私を含めてゼミに配属された同期は3名、そしてすでに在籍していた卒論を控える上級生2名の合計5名で、この年のゼミが開講。この時期の私は、これからも「よくわからない」と思いながらも、来年になったら先生に何か教えてもらいながら卒論を書いてるんだろうな、と、漠然とそう思っていました。
(指導教員がつけば卒論書けるとかいうクソな考えを持っていたわけです)
ゼミがはじまり、いちばん最初に先生から与えられた課題は、該当する書籍から王国時代の歴代在番奉行のリストを作成すること。
当時私の興味はガチガチの文献史学というより、どちらかというと文学寄りで、そのうえ対象は地方や離島地域。在番奉行とか興味ないんだが、というモチベーション。今思えば完全に無知でアホなのですが、基礎的な文献も網羅しておらず研究のイロハも知らない私はダラダラとExcelにデータを打ち込んだだけの表(たぶんA4ペライチだった)をゼミで提出しました。
(普通はプラスアルファで他の文献読んで深めた考察とか書きますよね?)
あまりにも惰性で演習に出席していたため、この表について先生がどうレスポンスをなさったのかはまったく覚えておりません。
そんなクソなムーブをかまし続けた私に対しても、先生は自著を含めていろんな論文の抜き刷りを頻繁にくださいました。しかもニコニコしながら。
あのときすぐに読んでいれば、と後悔してもあとの祭りです。
状況が変わったのは、そんな自己主張だけ強くて他力本願な大学生活3回目の夏休みが明けた頃。
徐々にゼミの休講が増え、秋に入った頃にはほとんど先生をお見かけすることはなくなりました。かねてより、体調不良とは連絡を受けていましたが、実は以前からご病気を患っていたと知ったのは、これよりもう少しあとのこと。
とはいえ、担当教員が不在でも大学側は学生を卒業させなければならないわけで。ということで、年明けに卒論の提出を控えた4年次は、同じ学科に在籍する歴史教育学や人文地理学の先生が指導にあたり、私と2人の同期は単位稼ぎで登録していた副ゼミ(という慣習があった)の教員に、年度末まで面倒を見てもらっていました。
(通常、ゼミはひとつですが、卒業テーマに関連しそうな他ゼミの演習を受講登録して指導を受けることができる慣習がありました)
そして、どうにか4年次が卒業できた年度末、当時の学年主任からM先生が正式に休職される旨の連絡が入ったのです。
それから、私と同期は隣の学部のT先生のゼミに引き取られ、卒業研究の厳しさを身を以て知りながら卒論を提出するに至るのでした。
(T先生は私が入学前に指導を希望していた先生なので、一周回って良くも悪くも希望通りになったわけです)
ちなみに、このとき私は脱稿した卒論原稿をM先生に送ってすらいません。
しかも、修士課程への入学(ようするに研究の継続)が決まっているにも関わらず、である。
あまりにも恩知らずではないか22歳の私。
卒論提出後の春休みに出席した学会に、少しだけ体調がよくなっていた先生がいらしておりました。そこで私に「教員として指導できず、申し訳ない」と頭を下げた先生を目の前にして、ようやく自分がかましてきた数々の自意識過剰なクソムーブに気づいたのでした。
これがM先生との最後の会話。
その後、私は己のキャパに見合わないストレスを抱えながら修士論文を提出し、研究はもうこりごりであると見切りをつけてごく一般的な社畜への道を歩むことになります。
最後にM先生と関わらせていただいたのは、私の修了間際からはじまった先生の単著の編集と退官される際の研究室の整理でした。
数えてみると実に200本を超える論文を世に出していたらしい先生ですが、今の今まで単著というものを出しておらず、先生が見届けられるうちに刊行を、ということで論文をまとめた単著の編集プロジェクトが開始。M先生の元ゼミ生ということで私を気遣ってくれたT先生から、恐縮にも編集メンバーにお誘いいただいた次第でした。
(ちなみに大した仕事はしていない)
修論と口頭試問(尋問)が通り、私の修了が許可された3月。
先生の単著も無事に刊行され、退官も決定したころ。
私を含め先生と関わりのあった4名で、先生の研究室から荷物の引き上げをすることになりました。
10畳に満たない部屋に所狭しと積もった本、資料、本、本、メモ……。
どの本にも、かならず1枚は挟まっている考察メモ。美術史や化粧史、その他諸々、先生の専門外の分野の資料やレジュメ。メモをみると、前任校で受け持った学生たちのために集めたものであったことがわかりました。
先生が本学に応募した際、「学生の教育に力を入れたい」とおっしゃっていたことを、私は先日の語る会であらためて知ることとなったのです。
M先生の単著(上下巻)は、研究から離れた現在でもよく開きます。
洗礼された文章で描かれる歴史、けれどもその下地には凄まじい実証がともなっていて、間違いなく触れる人を惹きつける研究。
読むたびに、「もっと詳しくお聞きしたい」「お話をうかがいたい」、今になってようやく、そう思うようになりました。何もかもすでに時遅しなのですが。。
多くの課題を残したまま終えた学生時代でしたが、自らM先生に教えを乞うことができなかったことは、大きな後悔としていつまでも抱えていくんだろうなと思いました。
中途半端になりましたが、文章はこのあたりで閉じさせていただきます。
あらためてM先生のご冥福をお祈りいたします。
