ジブリ風画像生成とシュメール神話
公開 2025/04/16 10:22
最終更新
2025/04/16 13:18
いつも遊んでる友人たちが凄い勢いでChatGptで遊んでおります。例のジブリのやつとか。
それはまぁね、新しいオモチャだから楽しいよねって感じで、まぁそうなるよねって、ただそれだけなんですけど。
一緒に遊んだ時に撮った子どもの写真とか、うちの子のもジブリ風に生成して、グループLINEで送ってくれるんですけど、うん…っていう。
彼らは非オタというか普通にゲームもアニメも見るけど「創作」してる人たちではないので。
あぁそうだよなぁって、やっぱ「創作」って根幹っていうか、核になるんだな。
いや創作したほうがいいとかしてるからいいとか、そういうことを言いたいんではないです。
他人の子や自分の子の画像をAIに読み込ませることの危険性とか是非とか、そこら辺の認識の希薄さもあるけど、ここでそれを特に言いたいのでもなくて。
自分だったら、ジブリっぽく自分で描くだろうなと。
その方が何倍も面白いというか、もはや面白いの次元が違うんだけどなと、思うなどして。
実際今、主線のペンとかグラブルっぽく描いててむちゃくちゃ面白いんですよ。
けど多分、そういう人は少数派なんだろうなぁ。こうやって趣味の人たちがTLにいるのが普通になってるけど、世の中的には希少な存在なんだと改めて実感したわけです。
Never Let Me Goっていう小説があります。
邦題「わたしを離さないで」だと思います。カズオイシグロの。
―――ネタバレありますのでこれ以降は御注意ください―――
施設で育てられてるクローンのうちの一人が主人公なのですが、彼女は絵を描くんですよね。
しかも才能が有ったのでそれを養育者の職員に驚かれる。
絵が描けることと、同じクローン同士で恋愛をするのですが、そのことを人間性の証明として訴えれば臓器提供者として殺されずに済むんじゃないかと彼らは考えて、それを希望の光として動くんですが、最終的にはそんなことは全く不毛な努力だったことが分かるわけです。
この作品、本当にまぁ、なんていうか、感情としては好きではないんですけど、あの感じ、天才だなと思ってるんですよね。
フィクションの物語って読後、あー面白かった、とかいまいちだったなとか、それぞれ本をぱたんと閉じたら日常がじわじわ戻ってくるんです、自分は。
しばらくは日常に物語が侵食してはいますけど。だいたい時間差はあっても戻ってくる。映画を観終わった後に似てます。
けど Never Let Me Go は、読後、彼らの絶望が自分の絶望になってるんです。
リアルのこの世界のものとして存在してる。そしていつまでも消えない。
物語と日常の境界線を溶かすんです、カズオイシグロは。それに読了するまで気づかない。
そういう作品は自分の中では彼だけです。だからものすごく惹かれるし、同時に、好きでもないです。怖い。
話が逸れたけど、
「絵を描く」っていうのはつまり「創作する」ってことですよね。作中では絵でしたけどそれはもう何でもいい訳です、文でも造形でも何でも。
創作意欲が人間性の証明になるかということをNever Let Me Goは否定しています。
というかむしろ、それが人間性の証明になるかどうかを問題にしてすらいない。
そもそも人間に「人間性」があるかどうかを証明しようとしていないんです。
シュメール神話を読んだことありますか?
シュメール神話の中では、端的に言うと人類は人智を超えた存在(便宜上、神と呼ぶ)の遺伝子操作の交配により誕生しました。元になった遺伝子情報は神自身です。シュメール神話の末枝である旧約聖書で神が自身に似せて男を作ったとするのと同じですね。
Never Let Me Goの中でのクローンたちとシュメール神話の人類、立場は同じです。
前者は臓器移植が目的ですが後者では諸説ありますね、労働のためとか食用とか暇つぶしとか、それこそ「愛」とか。
ただ創造主の意図により生み出された存在であるという点においては同じです。
この素地があるために自分はNever Let Me Goの読後はものすごく恐怖を覚えたわけなんですけども、多分。
―――創作意欲が人間性の証明にならない。
肉体に対する立場として霊性という言葉を使いますが、人間が霊的な存在であるということの証明として創造性は機能しないんです。
つまり人が、ヒトとして臓器提供なり食用なり、誰かのスペアになりうるということ。
これって腹の底から恐怖が湧いてきませんか?
自分はすぅっと寒気が胃まで上ってきます。
憎しみにより殺される訳でもなく、そもそもお前たちはスペアなんだよっていうことです。
自分の存在意義というか、地面だと思って立っていた足元が本当は存在しなかったような怖さ。
何をもって自分が人間であることの証明をすればいいのでしょうね。
そしてなぜ人間性の証明が出来ればスペアにならずに済むと考えるのでしょう。
神の遺伝子を証明できるからでしょうか。神の血を引く者はスペアに出来ないはずだという希望なのでしょうか。
ChatGptは確かに新しいおもちゃです、便利ですし。実際、実務的な事を調べるのにAIを使い便利だなと思いました。
同時に言いようのない恐怖が付きまといます。
AI学習が加速度的に進んでいくことによって意思を持つ可能性とかそういう事もありますけど、それよりも、みんなが自ら喜んで創造性を捨てることそのものに、自分はNever Let Me Go読了時のような薄ら寒い恐怖を感じるんですよね。
けれどたとえ創造性が人間性の証明にならないとしても、自分はやっぱり絵を描くことが好きだし、文章を書くことへの欲求もあります。
表現したい、という人間としての欲求を持ち続けることが、たとえ明日世界が終わるとしてもリンゴの木を植えるということなのかなと、思ったりしたわけなのでした。
取り留めも無いですけど読んでくれた方がもしもいたらありがとうございます🙂↕️
それはまぁね、新しいオモチャだから楽しいよねって感じで、まぁそうなるよねって、ただそれだけなんですけど。
一緒に遊んだ時に撮った子どもの写真とか、うちの子のもジブリ風に生成して、グループLINEで送ってくれるんですけど、うん…っていう。
彼らは非オタというか普通にゲームもアニメも見るけど「創作」してる人たちではないので。
あぁそうだよなぁって、やっぱ「創作」って根幹っていうか、核になるんだな。
いや創作したほうがいいとかしてるからいいとか、そういうことを言いたいんではないです。
他人の子や自分の子の画像をAIに読み込ませることの危険性とか是非とか、そこら辺の認識の希薄さもあるけど、ここでそれを特に言いたいのでもなくて。
自分だったら、ジブリっぽく自分で描くだろうなと。
その方が何倍も面白いというか、もはや面白いの次元が違うんだけどなと、思うなどして。
実際今、主線のペンとかグラブルっぽく描いててむちゃくちゃ面白いんですよ。
けど多分、そういう人は少数派なんだろうなぁ。こうやって趣味の人たちがTLにいるのが普通になってるけど、世の中的には希少な存在なんだと改めて実感したわけです。
Never Let Me Goっていう小説があります。
邦題「わたしを離さないで」だと思います。カズオイシグロの。
―――ネタバレありますのでこれ以降は御注意ください―――
施設で育てられてるクローンのうちの一人が主人公なのですが、彼女は絵を描くんですよね。
しかも才能が有ったのでそれを養育者の職員に驚かれる。
絵が描けることと、同じクローン同士で恋愛をするのですが、そのことを人間性の証明として訴えれば臓器提供者として殺されずに済むんじゃないかと彼らは考えて、それを希望の光として動くんですが、最終的にはそんなことは全く不毛な努力だったことが分かるわけです。
この作品、本当にまぁ、なんていうか、感情としては好きではないんですけど、あの感じ、天才だなと思ってるんですよね。
フィクションの物語って読後、あー面白かった、とかいまいちだったなとか、それぞれ本をぱたんと閉じたら日常がじわじわ戻ってくるんです、自分は。
しばらくは日常に物語が侵食してはいますけど。だいたい時間差はあっても戻ってくる。映画を観終わった後に似てます。
けど Never Let Me Go は、読後、彼らの絶望が自分の絶望になってるんです。
リアルのこの世界のものとして存在してる。そしていつまでも消えない。
物語と日常の境界線を溶かすんです、カズオイシグロは。それに読了するまで気づかない。
そういう作品は自分の中では彼だけです。だからものすごく惹かれるし、同時に、好きでもないです。怖い。
話が逸れたけど、
「絵を描く」っていうのはつまり「創作する」ってことですよね。作中では絵でしたけどそれはもう何でもいい訳です、文でも造形でも何でも。
創作意欲が人間性の証明になるかということをNever Let Me Goは否定しています。
というかむしろ、それが人間性の証明になるかどうかを問題にしてすらいない。
そもそも人間に「人間性」があるかどうかを証明しようとしていないんです。
シュメール神話を読んだことありますか?
シュメール神話の中では、端的に言うと人類は人智を超えた存在(便宜上、神と呼ぶ)の遺伝子操作の交配により誕生しました。元になった遺伝子情報は神自身です。シュメール神話の末枝である旧約聖書で神が自身に似せて男を作ったとするのと同じですね。
Never Let Me Goの中でのクローンたちとシュメール神話の人類、立場は同じです。
前者は臓器移植が目的ですが後者では諸説ありますね、労働のためとか食用とか暇つぶしとか、それこそ「愛」とか。
ただ創造主の意図により生み出された存在であるという点においては同じです。
この素地があるために自分はNever Let Me Goの読後はものすごく恐怖を覚えたわけなんですけども、多分。
―――創作意欲が人間性の証明にならない。
肉体に対する立場として霊性という言葉を使いますが、人間が霊的な存在であるということの証明として創造性は機能しないんです。
つまり人が、ヒトとして臓器提供なり食用なり、誰かのスペアになりうるということ。
これって腹の底から恐怖が湧いてきませんか?
自分はすぅっと寒気が胃まで上ってきます。
憎しみにより殺される訳でもなく、そもそもお前たちはスペアなんだよっていうことです。
自分の存在意義というか、地面だと思って立っていた足元が本当は存在しなかったような怖さ。
何をもって自分が人間であることの証明をすればいいのでしょうね。
そしてなぜ人間性の証明が出来ればスペアにならずに済むと考えるのでしょう。
神の遺伝子を証明できるからでしょうか。神の血を引く者はスペアに出来ないはずだという希望なのでしょうか。
ChatGptは確かに新しいおもちゃです、便利ですし。実際、実務的な事を調べるのにAIを使い便利だなと思いました。
同時に言いようのない恐怖が付きまといます。
AI学習が加速度的に進んでいくことによって意思を持つ可能性とかそういう事もありますけど、それよりも、みんなが自ら喜んで創造性を捨てることそのものに、自分はNever Let Me Go読了時のような薄ら寒い恐怖を感じるんですよね。
けれどたとえ創造性が人間性の証明にならないとしても、自分はやっぱり絵を描くことが好きだし、文章を書くことへの欲求もあります。
表現したい、という人間としての欲求を持ち続けることが、たとえ明日世界が終わるとしてもリンゴの木を植えるということなのかなと、思ったりしたわけなのでした。
取り留めも無いですけど読んでくれた方がもしもいたらありがとうございます🙂↕️
