犬とエミシと縄文人
公開 2025/04/11 11:59
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大和朝廷との戦いの末に「俘囚」とされ関東東北から西日本へ強制移住させられた蝦夷には税が免除されるかわりに兵役が課せられた。居住区を分散させることにより征服を容易にすることが目的であった。
ところで縄文人の墓からは、遺骨の隣に犬が並んで埋葬されていたり、犬だけ埋葬した痕跡があるのに対し、弥生人の遺跡からは残飯の中から犬の骨がバラバラで見つかる。
縄文人にとって犬は狩りのパートナーとして共に生きる仲間だったが弥生人にとっては食肉であった。
日本の固有種とされ天然記念物に指定されている柴犬・甲斐犬・紀州犬・四国犬、北海道犬、秋田犬。
後からやってきた弥生犬は食肉用に飼育されていた遺跡もあり、農耕民族である弥生人にとっては初めから食糧であった可能性が高い。
犬が一人で海を渡って移動してきたのではなく、人と共に移動してきたと考えるのが自然だ。
秋田犬はオオカミと最も遺伝子が近い犬だという。
つまり日本列島にはエジプト・シルクロードから食用の弥生犬を連れて百済・新羅などの朝鮮半島を経由して九州・西日本に定住した部族たちとは別に縄文犬を連れて北方ロシア側から東北へ流入してきた部族が存在する。
そして彼らは朝鮮半島経由の者たちよりも先に日本列島に定住し、狩猟・採集・貿易による暮らしを犬と共に営んでいた。彼らは磐座信仰や山岳信仰をおこない杉の大木で造った船で太平洋を渡りハワイ、遠く南米大陸にまで至る巨大な貿易圏を築いていた。
貿易は、現在のような貨幣価値にとらわれた資本主義ではなく、純粋に暮らしや祭祀に必要である物品の交換としてのもので、違う土地に住む者同士の互助であったはずだ。
「クニ」は無く王もいないまま12,000年間、穏やかに暮らした。
また、犬と人間に共通してアジア圏は低身長、北方圏は高身長という事実がある。西日本に比べて東北(と北陸などの日本海側)は明らかに平均身長が高い。
https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/3117334/
明治以降、日本人の食生活は全国で平均的になっていき、地域による栄養格差は少ない。つまりこの平均身長差はDNAによるものが大きい。
古くは大和朝廷による強制的な混血、そして明治以降、土地に縛られない労働者階級の移動による混血によりだいぶ特徴は分散されてはいるものの、遺伝子は数千年経っても必ず子孫に痕跡を残す。西日本に小型因子を遺し、北日本に大型因子を遺した。
安部元首相は自らのルーツを「俘囚」の長、安倍氏であるとしていた。これはのちに奥州藤原氏となり頼朝に滅ぼされたのちも岩手に磐座信仰と共に生き続け、どういう訳か現代では土御門家(安倍晴明)と安倍晋三が縁戚となっている。
この安部元首相。
少しでも興味を持って調べたことのある人なら知っている「田布施システム」。それによると彼は李氏朝鮮の系統であるという。「李」の漢字を分割すると木と子になることから日本名は「岸」である。
トランプ大統領が非常に安部元首相を気に入っていたことは周知の事実であるが何故そこまでだったのか。昭恵夫人は今も「個人的に」トランプと外交をしている。
彼が暗殺されて「岸田」が首相になってから日本がおかしくなっていく動きに拍車がかかった。
もし仮に本人の主張する通り彼が奥州の安倍氏にルーツを持つなら、元を辿ると奈良・生駒に住み長脛彦と言われた人物(アラハバキ)の系統である。奈良に来る前は朝鮮半島を通り現在の埼玉県行田市(さきたま古墳群)にいた。
そこから大和朝廷に追われ北東北に住み着き、勢力を拡大する。
そしてこれが最も重要なことなのだけど
安倍氏が生駒から追われて住み着いた先には、既に先住民がいた。それは北方から渡ってきて12,000年もの間穏やかな暮らしを続けていた縄文人と呼ばれる者たち。彼らの痕跡は三内丸山遺跡に僅かに残る。
本来、彼らこそが本当の先住民族であり、大型因子をDNAに持つ東北の者たちである。
アテルイとモレに代表される「蝦夷」は元々の日本列島に定住していた者たちではない。彼らは朝鮮半島経由で日本列島に後から流入してきた、いわば大和を築いた者たちと同類であり、日本列島を舞台に勢力争いをした。
そして勝った側の記録が『日本書紀』であり『古事記』であり、負けた方の記録が『竹内文書』であり『九鬼文書』であるのだ。
安部元首相が言っていた「日本を取り戻す」という言葉の意味が、だいぶ変わってくる。
安倍氏が朝廷で力を持ったのは陰陽道による「作暦」を一族で引き受けていたからである。彼らは土御門家と呼ばれ、現代の晴明神社に続く。
ちなみに酒呑童子の居場所を陰陽道で明らかにしたのは安倍晴明である。
信長はこの土御門家が作成する京暦ではなく、伊豆の河合家が作成する三島暦(みしまこよみ)を使うよう朝廷に迫ったと言われている。実際に信長の勢力範囲になった土地では三島暦が使われていた。
伊豆は『記紀』によると日本武尊の東征のルート上にあり、つまりは征服すべき「まつろわぬもの」の居住地である。誰がまつろわぬものだったのか。河合家の始祖は賀茂氏であるという。賀茂氏もまたシルクロードから朝鮮半島を経て日本列島に流入してきた一族で天文学を得意としている。
織⇒機織り⇒秦 信長は秦氏であったと自分は考えている。秦氏は行く先々に養蚕を広めた。(瀬織津姫)
安土城は京都の御所と正反対になるように設計され、天守閣は天主閣と呼ばれた。よくこの「天主」を論拠に信長は神になりたかったとする説があるが、自分は信長は天皇(スメラミコト)になろうとしていたと考える。
まつろわぬ信長亡き後、秀吉は朝廷より武門としては異例の関白に任命された。
そして朝鮮へ出兵する。これは中学の歴史教員をして「権力を握って血迷った上の侵略だった。このせいで中国・韓国に今も恨みを買っている」などと言わしめるほど戦後の歴史教育では徹底して事実を歪曲しているのだが、
朝鮮出兵とはれっきとした防衛戦争である。当時、明へ勢力を拡大した李氏朝鮮は日本にもその毒牙を伸ばし、人身売買によって日本人が売られ続けていた。
これは布教という名の侵略が十八番である南蛮人も同じことで、だからこそ秀吉は伴天連追放令を出し朝鮮には兵を出した。
ちなみに秀吉は信長から「猿」と呼ばれていた事実は無い。書状に「あの猿が」と記述が残るがそれは前後の文脈からしても秀吉のこととは断定できない。
また秀吉が卑しい身分の出であるというのは江戸時代になってから家康が作成させた書物に書いてあるだけで、そもそも家紋は家康の一族と同じ源氏のものを使っていたことが分かっている。つまり出自は家康の縁者である可能性が高い。
江戸幕府240年間の平和は、秀吉の伴天連追放令と朝鮮出兵によって土台を築かれたからこそ実現したものなのだ。
話を弥生人という名のシルクロード系渡来人が日本列島に大挙して押し寄せる以前の日本に戻す。
縄文遺跡からは彼らの衣服は見つかっていない。が、縄文時代末期の遺跡から出土した火葬された人骨には布と見られる繊維が付着していた。
自分は、縄文時代12,000年間のうち、衣服を着ていたのは弥生人が流入して以降の最末期のみではないかと考えている。
何故なら、この日本列島こそ旧約聖書の約束の地であり楽園であると考えるからなのだが、
とても長くなるのでまた今度書きます。
そして巨人の話と、明らかに日本列島であるエルディア島が楽園と呼ばれているあの作品。
諌山創先生は天才だと思っています。
ところで縄文人の墓からは、遺骨の隣に犬が並んで埋葬されていたり、犬だけ埋葬した痕跡があるのに対し、弥生人の遺跡からは残飯の中から犬の骨がバラバラで見つかる。
縄文人にとって犬は狩りのパートナーとして共に生きる仲間だったが弥生人にとっては食肉であった。
日本の固有種とされ天然記念物に指定されている柴犬・甲斐犬・紀州犬・四国犬、北海道犬、秋田犬。
後からやってきた弥生犬は食肉用に飼育されていた遺跡もあり、農耕民族である弥生人にとっては初めから食糧であった可能性が高い。
犬が一人で海を渡って移動してきたのではなく、人と共に移動してきたと考えるのが自然だ。
秋田犬はオオカミと最も遺伝子が近い犬だという。
つまり日本列島にはエジプト・シルクロードから食用の弥生犬を連れて百済・新羅などの朝鮮半島を経由して九州・西日本に定住した部族たちとは別に縄文犬を連れて北方ロシア側から東北へ流入してきた部族が存在する。
そして彼らは朝鮮半島経由の者たちよりも先に日本列島に定住し、狩猟・採集・貿易による暮らしを犬と共に営んでいた。彼らは磐座信仰や山岳信仰をおこない杉の大木で造った船で太平洋を渡りハワイ、遠く南米大陸にまで至る巨大な貿易圏を築いていた。
貿易は、現在のような貨幣価値にとらわれた資本主義ではなく、純粋に暮らしや祭祀に必要である物品の交換としてのもので、違う土地に住む者同士の互助であったはずだ。
「クニ」は無く王もいないまま12,000年間、穏やかに暮らした。
また、犬と人間に共通してアジア圏は低身長、北方圏は高身長という事実がある。西日本に比べて東北(と北陸などの日本海側)は明らかに平均身長が高い。
https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/3117334/
明治以降、日本人の食生活は全国で平均的になっていき、地域による栄養格差は少ない。つまりこの平均身長差はDNAによるものが大きい。
古くは大和朝廷による強制的な混血、そして明治以降、土地に縛られない労働者階級の移動による混血によりだいぶ特徴は分散されてはいるものの、遺伝子は数千年経っても必ず子孫に痕跡を残す。西日本に小型因子を遺し、北日本に大型因子を遺した。
安部元首相は自らのルーツを「俘囚」の長、安倍氏であるとしていた。これはのちに奥州藤原氏となり頼朝に滅ぼされたのちも岩手に磐座信仰と共に生き続け、どういう訳か現代では土御門家(安倍晴明)と安倍晋三が縁戚となっている。
この安部元首相。
少しでも興味を持って調べたことのある人なら知っている「田布施システム」。それによると彼は李氏朝鮮の系統であるという。「李」の漢字を分割すると木と子になることから日本名は「岸」である。
トランプ大統領が非常に安部元首相を気に入っていたことは周知の事実であるが何故そこまでだったのか。昭恵夫人は今も「個人的に」トランプと外交をしている。
彼が暗殺されて「岸田」が首相になってから日本がおかしくなっていく動きに拍車がかかった。
もし仮に本人の主張する通り彼が奥州の安倍氏にルーツを持つなら、元を辿ると奈良・生駒に住み長脛彦と言われた人物(アラハバキ)の系統である。奈良に来る前は朝鮮半島を通り現在の埼玉県行田市(さきたま古墳群)にいた。
そこから大和朝廷に追われ北東北に住み着き、勢力を拡大する。
そしてこれが最も重要なことなのだけど
安倍氏が生駒から追われて住み着いた先には、既に先住民がいた。それは北方から渡ってきて12,000年もの間穏やかな暮らしを続けていた縄文人と呼ばれる者たち。彼らの痕跡は三内丸山遺跡に僅かに残る。
本来、彼らこそが本当の先住民族であり、大型因子をDNAに持つ東北の者たちである。
アテルイとモレに代表される「蝦夷」は元々の日本列島に定住していた者たちではない。彼らは朝鮮半島経由で日本列島に後から流入してきた、いわば大和を築いた者たちと同類であり、日本列島を舞台に勢力争いをした。
そして勝った側の記録が『日本書紀』であり『古事記』であり、負けた方の記録が『竹内文書』であり『九鬼文書』であるのだ。
安部元首相が言っていた「日本を取り戻す」という言葉の意味が、だいぶ変わってくる。
安倍氏が朝廷で力を持ったのは陰陽道による「作暦」を一族で引き受けていたからである。彼らは土御門家と呼ばれ、現代の晴明神社に続く。
ちなみに酒呑童子の居場所を陰陽道で明らかにしたのは安倍晴明である。
信長はこの土御門家が作成する京暦ではなく、伊豆の河合家が作成する三島暦(みしまこよみ)を使うよう朝廷に迫ったと言われている。実際に信長の勢力範囲になった土地では三島暦が使われていた。
伊豆は『記紀』によると日本武尊の東征のルート上にあり、つまりは征服すべき「まつろわぬもの」の居住地である。誰がまつろわぬものだったのか。河合家の始祖は賀茂氏であるという。賀茂氏もまたシルクロードから朝鮮半島を経て日本列島に流入してきた一族で天文学を得意としている。
織⇒機織り⇒秦 信長は秦氏であったと自分は考えている。秦氏は行く先々に養蚕を広めた。(瀬織津姫)
安土城は京都の御所と正反対になるように設計され、天守閣は天主閣と呼ばれた。よくこの「天主」を論拠に信長は神になりたかったとする説があるが、自分は信長は天皇(スメラミコト)になろうとしていたと考える。
まつろわぬ信長亡き後、秀吉は朝廷より武門としては異例の関白に任命された。
そして朝鮮へ出兵する。これは中学の歴史教員をして「権力を握って血迷った上の侵略だった。このせいで中国・韓国に今も恨みを買っている」などと言わしめるほど戦後の歴史教育では徹底して事実を歪曲しているのだが、
朝鮮出兵とはれっきとした防衛戦争である。当時、明へ勢力を拡大した李氏朝鮮は日本にもその毒牙を伸ばし、人身売買によって日本人が売られ続けていた。
これは布教という名の侵略が十八番である南蛮人も同じことで、だからこそ秀吉は伴天連追放令を出し朝鮮には兵を出した。
ちなみに秀吉は信長から「猿」と呼ばれていた事実は無い。書状に「あの猿が」と記述が残るがそれは前後の文脈からしても秀吉のこととは断定できない。
また秀吉が卑しい身分の出であるというのは江戸時代になってから家康が作成させた書物に書いてあるだけで、そもそも家紋は家康の一族と同じ源氏のものを使っていたことが分かっている。つまり出自は家康の縁者である可能性が高い。
江戸幕府240年間の平和は、秀吉の伴天連追放令と朝鮮出兵によって土台を築かれたからこそ実現したものなのだ。
話を弥生人という名のシルクロード系渡来人が日本列島に大挙して押し寄せる以前の日本に戻す。
縄文遺跡からは彼らの衣服は見つかっていない。が、縄文時代末期の遺跡から出土した火葬された人骨には布と見られる繊維が付着していた。
自分は、縄文時代12,000年間のうち、衣服を着ていたのは弥生人が流入して以降の最末期のみではないかと考えている。
何故なら、この日本列島こそ旧約聖書の約束の地であり楽園であると考えるからなのだが、
とても長くなるのでまた今度書きます。
そして巨人の話と、明らかに日本列島であるエルディア島が楽園と呼ばれているあの作品。
諌山創先生は天才だと思っています。
