はい8
公開 2023/12/01 20:20
最終更新
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お疲れ様です。
カート・ヴォネガットの「青ひげ」を読みました。
身内や絵を描かない友人などに数年前からおすすめされていた本です。
理由は「お前は絵を描くから、きっと刺さる。」でした。
・猫のゆりかご
・ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを
・タイタンの妖女
上記の三作を割と直近で読んでおり、とにかく全部面白かったので続けてヴォネガットを読むに至りました。
読んでいて最初に抱いた感情は「ヴォネガットは小説だけでなく絵も描くのか?」
絵を描く人間の心理描写があまりにも絵描きそのものなんですよ。
私は数作読んだだけでヴォネガットのバックグラウンドをほとんど知りません。
ヴォネガットの面白さを知った私は先日のハヤカワセールにてヴォネガットの自伝を買いましたが、これは後何冊か作品を読んでから読もうと思っています。マジで絵を描いてるんじゃないか??
この作品は「ラボー・カラベキアン」という老年の画家の自伝という"てい"で書かれている小説です。
あらすじより私の感想が多めになると思います。
あと、私が感銘を受けたエピソードについてもおおいに書き連ねます。
もし読む予定の方が居ればネタバレを多分に含むと思いますのでご注意下さい。
※月と六ペンスのラストにもほんの少しだけ触れています。
カラベキアンは作中で「何かしらの才能が平均よりも少しだけある人間」について語ります。
絵を描く人なら大体覚えがあると思うのですが、おそらく私たちは子供の頃、「小さい集団で一番絵が上手い」というポジションを得ていた人が多いのではないかと思います。
少数の集団であれば、誰もがそれぞれの持つ「平均以上のスキル」でそれらのコミュニティで何かしらの地位を持つことができます。
しかし、情報化が進んだ現代の社会だと小さな集団ではなく、大きな全体の中のそれぞれのジャンルに存在する上位のチャンピオン10人ほどの活躍で事足りるのです。
小さな集団で地位を得ていた人たちは大きな集団の中でそれぞれの秀でたスキルを活かす機会に恵まれる事なく、平均の人として生活するしかありません。
酒に酔った時にそういう人たちは机の上でステップを踏み、おおいに語り、翌日その場にいた友人こう言われるのです。
「昨日の君はとても酔ってたね!」
小さな世界での天才は大きな世界において凡人になる。
私は絵を学び始めて絵を描く人々の集団に入り、自分の絵のスキルが平均ほども無いと知りました。
そしてインターネットに触れ世界中の絵を描く方々、それらを生業にするチャンピオンたちを知り自分の画力などちっぽけなものだと知りました。
現代において情報をたくさん得ることが出来るようになり各自の画力の向上スピードはかなり効率的になっていると思っているのですが、
「小さな集団の王様」でいる事のできる時間もどんどん短くなっていると思います。
それを良いと取るか悪いと取るかは個人の価値観によりますが、私は良い事だと思っています。
だって私も絵が上手くなりたいもん。
主人公のカラベキアンは非常に絵が上手く、まるで写真のような絵を描くことができます。
おそらくハイパーレアリズムの描き手だったのではないかと思います。
そしてそのカラベキアンの師匠であるグレゴリーは間違いなく絵の「チャンピオン」で、何を描かせても彼の右に出るものは居ません。
グレゴリーの若い時分のエピソードがあまりにも少年漫画的でかっこよく、勝手に語らせて頂きます。
========
グレゴリーは幼少時虐待を受けており、造幣局の彫版部長の夫人にボランティアの一環として保護を受ける。
手先が器用で立ち回りの上手いグレゴリーは彫版部長の弟子入りに成功するが、若いグレゴリーの才能を脅威と感じた親方は不可能な課題をグレゴリーに課した。
それは「目利きの市場の商人を騙せるほどの1ルーブル紙幣を手描きで作る事」
紙幣の偽造に対する刑罰は同じ広場での絞首刑である。
グレゴリーは6ヶ月かけて本物と寸分違わぬ1ルーブル紙幣を作った。
親方は幼稚だと言い放ち破り捨てた。
グレゴリーはまた6ヶ月かけ、前よりも素晴らしい出来の1ルーブル紙幣をを作り上げた。
親方は前よりも酷いと言い放ち暖炉の火にくべた。
グレゴリーは今度は1年をかけ、今までで一番出来の良い1ルーブル紙幣を作った。しかしグレゴリーはその紙幣をポケットにしまい込み、本物の1ルーブル紙幣を親方に見せた。
親方はまたしてもせせら笑ったが、それが破られるより前にグレゴリーは1ルーブル紙幣を親方からひったくり、市場へと駆け出した。
市場の商人からタバコを買い、「この1ルーブル紙幣は間違いなく本物だ、なにしろ造幣局の彫版部長の懐から出たものなのだから。」と言った。
慌てた親方はグレゴリーに「コピーに使った1ルーブル紙幣を私に返せ」といい、グレゴリーは自分の作った偽札を渡す。
なんとか商人を言いくるめて1ルーブル紙幣と「偽札」を交換して帰ってきた怒り狂う親方に対しグレゴリーは種明かしをする。
「もうお前は俺に教えれる事はなにもない。」
グレゴリーは15歳だった。
========
映画化してくれ。
師匠であるグレゴリーは「現代美術」を憎んでいます。
グレゴリーに師事しながら、カラベキアンは現代美術の魅力にとりつかれ、それを楽しみ、のちに現代美術館を出たところをグレゴリーに見つかり破門を言い渡されます。
ここで私の話を挟みます。
私は現代アートにあまり造形が深くありません。どちらかといえば、手が込んだ作品や写実的に描かれた作品に興味を持ちます。
でも、それらには私のわからない素晴らしさがあるに違いないので落として言うこともありません。
現代アートへの私の感想は「裸の王様の気分になる」でした。
みんな口々にそこに素晴らしい服があると言います、ですが私にはわかりません。
なんとなく、そこに素晴らしい服があるのだということでその場をやり過ごします。
作中で現代アートを憎むグレゴリーは弟子になったばかりの頃の若いカラベキアンにこの言葉を自分に続けて言うように強要します。
「王様は裸だ。」
「現代美術について誰かが少しでも褒め言葉らしい事を言ったら、確信を込めてこの言葉を言え。」
私の持つ思想を作中で、使われる言葉もそのままに語られた事に対する驚きは凄まじいものでした。
もうこの頃には私はグレゴリーの虜です。
私はこれからの人生において、創作作品という土俵で「この世で一番の画家はグレゴリーだ」と言う事を決めました。
カラベキアンは破門された後、食うや食わずの生活を経て軍人になり、第二次世界大戦で片目を失い傷痍軍人となります。
そして戦後、彼は抽象的な現代アートの画家となりました。
長い事写実画を書かないでいたカラベキアンに対し、周りの人たちは「カラベキアンはペンキを塗りたくった誰でも描けるような絵"しか"描けないのでは?」と疑います。
そう友人に問われるとカラベキアンはすぐさま写真のような絵をサラサラと描き、こう言います。「私には"選択"が出来るのだ。」
カラベキアンは絵を鑑賞するにあたり教養のない人々を明らかに見下しています。
カラベキアンは凄まじい画力を持っているからこそ何を描くかを「選択できる」立場にあります。
ピカソがあえてキュビズムを描いていたように。
「誰でも描ける絵」の価値は「作者があえてそれを描く選択を取った」というバックグラウンドあってこそ高まるものものであり、バックグラウンドを知らない人に取っては「誰でも描ける絵」である事実のみが示されます。
教養のない人々は思います。「カラベキアンの絵は裸の王様なのでは?」
カラベキアンの写実的ではないアートはそれ自体がそもそも無教養な人々の鑑賞を許していないのです。
カラベキアンが画家として一番活躍していた時に使っていた絵の具は、当時最先端の画材であると謳われていました。
しかしその絵の具は経年劣化により数十年後にキャンバスからことごとく剥がれ落ちてしまう粗悪品でした。
その絵の具を使ったカラベキアンの作品はすべて絵が剥がれ落ちてしまい、当時数十万ドルで取引されていた絵たちはもうほとんど残っていません。
一部の自分は高尚だと思っている裸の王様達(カラベキアンの絵を買う金持ちなど)を除いて、カラベキアンの作品の存在により自らを見下されていた人々。
カラベキアンの現代アート作品の絵の具が剥がれ落ちてそれらが本当に裸になってしまった時、無教養な人々は自分の理解出来ない絵を描く(自分達を下に見ている)カラベキアンを「王様は裸だ」と馬鹿にするチャンスを得た訳です。
写実的な絵も抽象的なアートもどちらも落として語られるべきではないのですが、カラベキアンは片方に入れ込んで殻に閉じこもっていました。
絵描きの話となると私は今まで真っ先に「月と六ペンス」を思い浮かべていました。
月と六ペンスのラストはあまりにもドラマティックな「失われる」悲しみです。
青ひげのラストは「残すことが出来た喜び」でした。
カラベキアンは「あの絵」を描く事で自ら入り込んだ殻から最後に出る事が出来たんだと思います。
そしてそれを死んだ後に孵化させるつもりだったにも関わらず、サーシバーマンは死んだ後ではなくカラベキアンを生きているうちに解放した。
救いですね…
作中に出てくる女性も非常に魅力的でした。
サーシ・バーマン
マリリー・ケンプ
彼女たちの事もおおいに語りたいところではありますが既にめちゃくちゃ文字を打っていた。
また青ひげの話がしたくなったら彼女たちの話をしたいです。
彼女たちの話は「絵の話」ではなく「女性の話」でした。
今回は絵の話にスポットを当てたという事で。
しばらくずっと長編を読んでいましたので、次は短編を読もうと思います。
それでは、お疲れ様でした。
カート・ヴォネガットの「青ひげ」を読みました。
身内や絵を描かない友人などに数年前からおすすめされていた本です。
理由は「お前は絵を描くから、きっと刺さる。」でした。
・猫のゆりかご
・ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを
・タイタンの妖女
上記の三作を割と直近で読んでおり、とにかく全部面白かったので続けてヴォネガットを読むに至りました。
読んでいて最初に抱いた感情は「ヴォネガットは小説だけでなく絵も描くのか?」
絵を描く人間の心理描写があまりにも絵描きそのものなんですよ。
私は数作読んだだけでヴォネガットのバックグラウンドをほとんど知りません。
ヴォネガットの面白さを知った私は先日のハヤカワセールにてヴォネガットの自伝を買いましたが、これは後何冊か作品を読んでから読もうと思っています。マジで絵を描いてるんじゃないか??
この作品は「ラボー・カラベキアン」という老年の画家の自伝という"てい"で書かれている小説です。
あらすじより私の感想が多めになると思います。
あと、私が感銘を受けたエピソードについてもおおいに書き連ねます。
もし読む予定の方が居ればネタバレを多分に含むと思いますのでご注意下さい。
※月と六ペンスのラストにもほんの少しだけ触れています。
カラベキアンは作中で「何かしらの才能が平均よりも少しだけある人間」について語ります。
絵を描く人なら大体覚えがあると思うのですが、おそらく私たちは子供の頃、「小さい集団で一番絵が上手い」というポジションを得ていた人が多いのではないかと思います。
少数の集団であれば、誰もがそれぞれの持つ「平均以上のスキル」でそれらのコミュニティで何かしらの地位を持つことができます。
しかし、情報化が進んだ現代の社会だと小さな集団ではなく、大きな全体の中のそれぞれのジャンルに存在する上位のチャンピオン10人ほどの活躍で事足りるのです。
小さな集団で地位を得ていた人たちは大きな集団の中でそれぞれの秀でたスキルを活かす機会に恵まれる事なく、平均の人として生活するしかありません。
酒に酔った時にそういう人たちは机の上でステップを踏み、おおいに語り、翌日その場にいた友人こう言われるのです。
「昨日の君はとても酔ってたね!」
小さな世界での天才は大きな世界において凡人になる。
私は絵を学び始めて絵を描く人々の集団に入り、自分の絵のスキルが平均ほども無いと知りました。
そしてインターネットに触れ世界中の絵を描く方々、それらを生業にするチャンピオンたちを知り自分の画力などちっぽけなものだと知りました。
現代において情報をたくさん得ることが出来るようになり各自の画力の向上スピードはかなり効率的になっていると思っているのですが、
「小さな集団の王様」でいる事のできる時間もどんどん短くなっていると思います。
それを良いと取るか悪いと取るかは個人の価値観によりますが、私は良い事だと思っています。
だって私も絵が上手くなりたいもん。
主人公のカラベキアンは非常に絵が上手く、まるで写真のような絵を描くことができます。
おそらくハイパーレアリズムの描き手だったのではないかと思います。
そしてそのカラベキアンの師匠であるグレゴリーは間違いなく絵の「チャンピオン」で、何を描かせても彼の右に出るものは居ません。
グレゴリーの若い時分のエピソードがあまりにも少年漫画的でかっこよく、勝手に語らせて頂きます。
========
グレゴリーは幼少時虐待を受けており、造幣局の彫版部長の夫人にボランティアの一環として保護を受ける。
手先が器用で立ち回りの上手いグレゴリーは彫版部長の弟子入りに成功するが、若いグレゴリーの才能を脅威と感じた親方は不可能な課題をグレゴリーに課した。
それは「目利きの市場の商人を騙せるほどの1ルーブル紙幣を手描きで作る事」
紙幣の偽造に対する刑罰は同じ広場での絞首刑である。
グレゴリーは6ヶ月かけて本物と寸分違わぬ1ルーブル紙幣を作った。
親方は幼稚だと言い放ち破り捨てた。
グレゴリーはまた6ヶ月かけ、前よりも素晴らしい出来の1ルーブル紙幣をを作り上げた。
親方は前よりも酷いと言い放ち暖炉の火にくべた。
グレゴリーは今度は1年をかけ、今までで一番出来の良い1ルーブル紙幣を作った。しかしグレゴリーはその紙幣をポケットにしまい込み、本物の1ルーブル紙幣を親方に見せた。
親方はまたしてもせせら笑ったが、それが破られるより前にグレゴリーは1ルーブル紙幣を親方からひったくり、市場へと駆け出した。
市場の商人からタバコを買い、「この1ルーブル紙幣は間違いなく本物だ、なにしろ造幣局の彫版部長の懐から出たものなのだから。」と言った。
慌てた親方はグレゴリーに「コピーに使った1ルーブル紙幣を私に返せ」といい、グレゴリーは自分の作った偽札を渡す。
なんとか商人を言いくるめて1ルーブル紙幣と「偽札」を交換して帰ってきた怒り狂う親方に対しグレゴリーは種明かしをする。
「もうお前は俺に教えれる事はなにもない。」
グレゴリーは15歳だった。
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映画化してくれ。
師匠であるグレゴリーは「現代美術」を憎んでいます。
グレゴリーに師事しながら、カラベキアンは現代美術の魅力にとりつかれ、それを楽しみ、のちに現代美術館を出たところをグレゴリーに見つかり破門を言い渡されます。
ここで私の話を挟みます。
私は現代アートにあまり造形が深くありません。どちらかといえば、手が込んだ作品や写実的に描かれた作品に興味を持ちます。
でも、それらには私のわからない素晴らしさがあるに違いないので落として言うこともありません。
現代アートへの私の感想は「裸の王様の気分になる」でした。
みんな口々にそこに素晴らしい服があると言います、ですが私にはわかりません。
なんとなく、そこに素晴らしい服があるのだということでその場をやり過ごします。
作中で現代アートを憎むグレゴリーは弟子になったばかりの頃の若いカラベキアンにこの言葉を自分に続けて言うように強要します。
「王様は裸だ。」
「現代美術について誰かが少しでも褒め言葉らしい事を言ったら、確信を込めてこの言葉を言え。」
私の持つ思想を作中で、使われる言葉もそのままに語られた事に対する驚きは凄まじいものでした。
もうこの頃には私はグレゴリーの虜です。
私はこれからの人生において、創作作品という土俵で「この世で一番の画家はグレゴリーだ」と言う事を決めました。
カラベキアンは破門された後、食うや食わずの生活を経て軍人になり、第二次世界大戦で片目を失い傷痍軍人となります。
そして戦後、彼は抽象的な現代アートの画家となりました。
長い事写実画を書かないでいたカラベキアンに対し、周りの人たちは「カラベキアンはペンキを塗りたくった誰でも描けるような絵"しか"描けないのでは?」と疑います。
そう友人に問われるとカラベキアンはすぐさま写真のような絵をサラサラと描き、こう言います。「私には"選択"が出来るのだ。」
カラベキアンは絵を鑑賞するにあたり教養のない人々を明らかに見下しています。
カラベキアンは凄まじい画力を持っているからこそ何を描くかを「選択できる」立場にあります。
ピカソがあえてキュビズムを描いていたように。
「誰でも描ける絵」の価値は「作者があえてそれを描く選択を取った」というバックグラウンドあってこそ高まるものものであり、バックグラウンドを知らない人に取っては「誰でも描ける絵」である事実のみが示されます。
教養のない人々は思います。「カラベキアンの絵は裸の王様なのでは?」
カラベキアンの写実的ではないアートはそれ自体がそもそも無教養な人々の鑑賞を許していないのです。
カラベキアンが画家として一番活躍していた時に使っていた絵の具は、当時最先端の画材であると謳われていました。
しかしその絵の具は経年劣化により数十年後にキャンバスからことごとく剥がれ落ちてしまう粗悪品でした。
その絵の具を使ったカラベキアンの作品はすべて絵が剥がれ落ちてしまい、当時数十万ドルで取引されていた絵たちはもうほとんど残っていません。
一部の自分は高尚だと思っている裸の王様達(カラベキアンの絵を買う金持ちなど)を除いて、カラベキアンの作品の存在により自らを見下されていた人々。
カラベキアンの現代アート作品の絵の具が剥がれ落ちてそれらが本当に裸になってしまった時、無教養な人々は自分の理解出来ない絵を描く(自分達を下に見ている)カラベキアンを「王様は裸だ」と馬鹿にするチャンスを得た訳です。
写実的な絵も抽象的なアートもどちらも落として語られるべきではないのですが、カラベキアンは片方に入れ込んで殻に閉じこもっていました。
絵描きの話となると私は今まで真っ先に「月と六ペンス」を思い浮かべていました。
月と六ペンスのラストはあまりにもドラマティックな「失われる」悲しみです。
青ひげのラストは「残すことが出来た喜び」でした。
カラベキアンは「あの絵」を描く事で自ら入り込んだ殻から最後に出る事が出来たんだと思います。
そしてそれを死んだ後に孵化させるつもりだったにも関わらず、サーシバーマンは死んだ後ではなくカラベキアンを生きているうちに解放した。
救いですね…
作中に出てくる女性も非常に魅力的でした。
サーシ・バーマン
マリリー・ケンプ
彼女たちの事もおおいに語りたいところではありますが既にめちゃくちゃ文字を打っていた。
また青ひげの話がしたくなったら彼女たちの話をしたいです。
彼女たちの話は「絵の話」ではなく「女性の話」でした。
今回は絵の話にスポットを当てたという事で。
しばらくずっと長編を読んでいましたので、次は短編を読もうと思います。
それでは、お疲れ様でした。
