ものぐさ
公開 2025/10/04 13:56
最終更新
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随時記すから、芋茎(ずいき)と題した。
何ごとにつけ、長続きがしないたちである。これまで幾度かブログを立ち上げてみたものの、途中で億劫になってしまった。Instagramやnoteのアカウントも消した。唯一残してあるXも「見る専」で、発信はほとんどしていない。
子どもの時分、多くのカメやカブトムシをミイラにした。縁日のキンギョも、マンションのむかいの用水路で獲ったザリガニもすぐ死なせた。天寿をまっとうしたといっていいのは、「リンリンハウス」と銘打って育てた、夏休みの自由研究のスズムシくらいのものである。今も、LEDライトの下の塊根植物やサボテンが着々としぼんでいる。
ゲームも遊び尽くす前に飽きがくる。やり込んだ試しがない。寝食を忘れるほど熱中して、ふいに、費やした時間で有意義なことが出来たのではないかと虚しい感じに襲われて、データを消してしまう。
趣味なのだから、楽しい範囲で続ければよい。怠惰を改めようと思うと、努力だの、初志貫徹だの、一念発起だの、どうしても堅苦しい方向になってくる。三日坊主に終わるのがお定まりだ。自分にとって心地よい状態が分からない、想像できないというところに、問題の根があるように思える。
もちろん、気が向いた時にだけ餌をやっていたのでは、カメも昆虫も死んでしまう。子どもの頃の私にとって楽しいのは、ペットを所有することであり、育てることではなかった。カメがのたのた這い回り、首を伸ばして餌を食う姿を眺めるためには、水を換え、水槽や砂利を洗い、甲羅干しの世話もしてやる必要がある。それを苦痛に感じるのなら、飼わぬほうがよいのだ。カブトムシのハエ避けシートを換えたり、ダニを落とすためのブラシをかけてやるのも同じことだ。欲しいものを手に入れる一瞬の快楽を前に、長く続く面倒を忘れてしまう。
楽しいものであっても、自分の意志でコントロールできなければ、いずれ苦痛に変わる。メタルキングを倒してレベルを上げたいがために、睡眠時間を削り、家事を後回しにし、読書や映画鑑賞から遠ざかってきた。身体からの不快のサインを無視し、より持続する幸福を得る機会を逃してきた。数ヶ月におよぶ小さな「嫌だ」の積み重ねが、データ削除を引き起こしていた。
このブログを、どうすれば続けられるのか。ひとまず、目標は低く低く設定する。私はたぶん、目標の立てかたも下手くそなのだ。
子どものころ、家や塾で、夏休みの一日の過ごしかたを書かされた記憶がある。「6時 おきる」「13時〜16時 べん強」などと書いて壁に貼るが、当然、6時には起きられないし、3時間も勉強するわけがない。
「あんたがやるって決めたんだから守りなさい」と母親は言うけれども、大人の顔色をうかがって立てた目標であるから、心なぞこもっていないのである。漢検何級をとる、次の塾のテストで何クラスに上がる、空手の試合でトロフィーをとる……さまざま目標を掲げてきたが、本当に達成したかったものは、果たしてどれだけあったか。
どうやら、大見得をきらずとも良いらしい。毎日更新などとうたっては、すぐに息が切れる。隔週でも苦しそうだ。しかし冒頭に書いた随時更新をばか正直に実行すると、この記事ひとつで終わってしまう恐れがある。月いちどが落としどころだろう。ひと月あれば何度か、書きたい、書こうか、という気持ちがやってくる。この文章もそうやって、だいたいひと月半かけて書いた。
過去の失敗に学び、今回はレイアウトには凝らず、文章を載せるだけで良しとした。「シンプルブログ」を選んだのはそのためだ。手を加えられる部分がさまざまあると、見栄えを良くしなければと思ってしまう。構図などが気にかかってくるから、なるだけ写真も上げたくない。まるで凝り性のようだが、私のは三日坊主の凝り性である。できもしない目標を立てるのに似た、「やるからには、ちゃんとしなければ……」という強迫観念と、手っ取り早く詳しくなって、注目・称賛されたいという浅はかな願望に由来する凝り性である。
自分自身が心地よく長く続けられるブログにしたい。何ごとにつけても、目先の快楽ばかり追い求めるのを改め、生活のなかに幸福の天秤を持つようになりたい。
初投稿から自罰的な内容となってしまったが、これも自分を見つめなおす、将来の大きな幸せへの一歩と思って、芋茎帳のはじめとする。
何ごとにつけ、長続きがしないたちである。これまで幾度かブログを立ち上げてみたものの、途中で億劫になってしまった。Instagramやnoteのアカウントも消した。唯一残してあるXも「見る専」で、発信はほとんどしていない。
子どもの時分、多くのカメやカブトムシをミイラにした。縁日のキンギョも、マンションのむかいの用水路で獲ったザリガニもすぐ死なせた。天寿をまっとうしたといっていいのは、「リンリンハウス」と銘打って育てた、夏休みの自由研究のスズムシくらいのものである。今も、LEDライトの下の塊根植物やサボテンが着々としぼんでいる。
ゲームも遊び尽くす前に飽きがくる。やり込んだ試しがない。寝食を忘れるほど熱中して、ふいに、費やした時間で有意義なことが出来たのではないかと虚しい感じに襲われて、データを消してしまう。
趣味なのだから、楽しい範囲で続ければよい。怠惰を改めようと思うと、努力だの、初志貫徹だの、一念発起だの、どうしても堅苦しい方向になってくる。三日坊主に終わるのがお定まりだ。自分にとって心地よい状態が分からない、想像できないというところに、問題の根があるように思える。
もちろん、気が向いた時にだけ餌をやっていたのでは、カメも昆虫も死んでしまう。子どもの頃の私にとって楽しいのは、ペットを所有することであり、育てることではなかった。カメがのたのた這い回り、首を伸ばして餌を食う姿を眺めるためには、水を換え、水槽や砂利を洗い、甲羅干しの世話もしてやる必要がある。それを苦痛に感じるのなら、飼わぬほうがよいのだ。カブトムシのハエ避けシートを換えたり、ダニを落とすためのブラシをかけてやるのも同じことだ。欲しいものを手に入れる一瞬の快楽を前に、長く続く面倒を忘れてしまう。
楽しいものであっても、自分の意志でコントロールできなければ、いずれ苦痛に変わる。メタルキングを倒してレベルを上げたいがために、睡眠時間を削り、家事を後回しにし、読書や映画鑑賞から遠ざかってきた。身体からの不快のサインを無視し、より持続する幸福を得る機会を逃してきた。数ヶ月におよぶ小さな「嫌だ」の積み重ねが、データ削除を引き起こしていた。
このブログを、どうすれば続けられるのか。ひとまず、目標は低く低く設定する。私はたぶん、目標の立てかたも下手くそなのだ。
子どものころ、家や塾で、夏休みの一日の過ごしかたを書かされた記憶がある。「6時 おきる」「13時〜16時 べん強」などと書いて壁に貼るが、当然、6時には起きられないし、3時間も勉強するわけがない。
「あんたがやるって決めたんだから守りなさい」と母親は言うけれども、大人の顔色をうかがって立てた目標であるから、心なぞこもっていないのである。漢検何級をとる、次の塾のテストで何クラスに上がる、空手の試合でトロフィーをとる……さまざま目標を掲げてきたが、本当に達成したかったものは、果たしてどれだけあったか。
どうやら、大見得をきらずとも良いらしい。毎日更新などとうたっては、すぐに息が切れる。隔週でも苦しそうだ。しかし冒頭に書いた随時更新をばか正直に実行すると、この記事ひとつで終わってしまう恐れがある。月いちどが落としどころだろう。ひと月あれば何度か、書きたい、書こうか、という気持ちがやってくる。この文章もそうやって、だいたいひと月半かけて書いた。
過去の失敗に学び、今回はレイアウトには凝らず、文章を載せるだけで良しとした。「シンプルブログ」を選んだのはそのためだ。手を加えられる部分がさまざまあると、見栄えを良くしなければと思ってしまう。構図などが気にかかってくるから、なるだけ写真も上げたくない。まるで凝り性のようだが、私のは三日坊主の凝り性である。できもしない目標を立てるのに似た、「やるからには、ちゃんとしなければ……」という強迫観念と、手っ取り早く詳しくなって、注目・称賛されたいという浅はかな願望に由来する凝り性である。
自分自身が心地よく長く続けられるブログにしたい。何ごとにつけても、目先の快楽ばかり追い求めるのを改め、生活のなかに幸福の天秤を持つようになりたい。
初投稿から自罰的な内容となってしまったが、これも自分を見つめなおす、将来の大きな幸せへの一歩と思って、芋茎帳のはじめとする。
二十代後半、男性、都民です。
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