哲学者 久野収の思い出
公開 2025/05/10 00:00
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タイトルは標記のようにしたけど、もちろん久野収と面識があるわけではありません。本でしか「会った」ことは有りません。
氏についてが、世間的にはどのようなイメージでしょうか。年配の方にとっては、その昔タレントの中山千夏(それ誰?って言わないでね)らと革自連をつくってたおじいさん?。あるいは戦前の京大事件を学生の立場で関わり、生活者ネットワークの今の時代まで活躍した長寿の行動する哲学者?、評論家佐高信のお師匠さん? などなど様々な側面からイメージを持っていると思います。
小生の場合は、その昔に金沢に受験に来て、試験が終わり開放感の下、当時広坂の今はミスドがあるあたりにあった「北斗書房」(その後、錦丘高校近くの窪に移転)で、哲学者久野収の著作が並んでいたことを思い出します。とっても買いたかったけど、当時は(今もだけど、当時は桁ちがいに)お金がありませんでした。学生になってからも、大学図書館から借りて読む手はあったけど、なぜか「自分の蔵書」にしたかったんですね。
その後、社会人となり1998年に岩波書店からこの「久野収集全5巻」が刊行され、早速買いました。買いましたが、その後「積ん読状態」に。そして一昨年に退職したので、それを機に2ケ月かけて全5巻読んだ次第。なんか積年の宿題をようやく果たした気分でした。
各巻には以下のようなタイトルがつけられています。
第Ⅰ巻 ジャーナリストとして
第Ⅱ巻 市民主義者として
第Ⅲ巻 哲学者として
第Ⅳ巻 対話者として
第Ⅴ巻 時流に抗して
各々の巻の論考が、「発表当時から、時代が2回転も3回転もして、いままた久野収の著作が読まれる時代が廻ってきた」と実感させます。今日の記事の最後に、第Ⅴ巻収録の「懐かしい周辺の学者たち」と題する論考から久野の金言を掲載します。
他者を批判する学問は同時に自省する学問でなければならない。自己主張するだけでは必ず自分を特別扱いし、他者を差別する結果となる。自己を主張するとき、他者の言い分をそれと同じ重さで評価しなければならない
これって、戦後50年の1995年に、丸山眞男が「オウムと現代日本」について「他者意識の無さ」と喝破したのと同じですよね。2025年の今も、どこかの国や、どこかの政党、どこかの学者 どこかの政治家、どこかの団体にあてはまりそうすよね。そして自分自身に対しても。
