道端の切り株
公開 2023/09/20 14:30
最終更新
2023/09/20 14:34
私はバスにあまり乗らない。表記されている時刻よりも少し早く来たり遅く来たりするので、結局いつやって来るのか(もしくは自分が乗り遅れたかが)分からず、待っているとハラハラするので苦手である。
それでも雨の日や体調が悪いときは、頑張ってバス停でバスが来るのをじっと待つ。待っているだけだが、自分の中ではケッコー頑張っている。
私がよく使うバス停には、屋根がない。バス停看板の側には大きな木が生えていて、彼の木陰が唯一の雨除けであり、日陰でもあった。そこで待つ人間はその木に助けられていた。はずだ。
その木は、かなり弱っていた。虫かなんかにめちゃめちゃにやられていて、葉はいつもボロっとしていた。葉の陰に潜む蚊には人間である私も悩まされた。
去年から、その木は切り株になった。腰下くらいの短さの。具体的な時期は秋だったか春だったか、思い出せない。
切られた理由は分からない。大きな木だったので、街路樹として交通の妨げになっていたのかもしれないし、木に潜む虫に悩まされた誰かがいたのかもしれない。
初めてその木の断面を見た時、初めて木が消えてしまったのを知ったときは、寂しかった。
私が神奈川に引っ越してきた時からその木はもうあり、すでに葉っぱがボロっちかった。引っ越したタイミングで車を手放したので、バスをよく使うようになり、よく木の横で蚊を追い払いながら待っていた。
そんな人間の私の感傷などどこ吹く風で、切り株は逞しく生きようとしていた。切られて数週間後、樹皮から芽が出てきたのだ!その芽は円周をなぞるようにぐるりと、ぽこぽこと生えていた。芽や枝ってランダムに生えているんじゃなくて、木がよく考えて生やしてるんだな~スゲーと感動した。
私はバスには乗らないが、そのバス停の前をよく通る。切り株の上に空き缶が置かれていたら、拾ってゴミ箱まで持って行って捨てた。切り株を勝手に応援していたが、それ以上のことはしなかった。きっと切り株にした人たちからは、私は厄介な存在だったかもしれないから。
野生のハトに餌をあげるのと、少しだけ似ているからな。
切り株の芽は、生えてきては誰かに摘まれ、また生やしては摘まれていった。
そしてある日のこと、切り株の樹皮が全て剥がされていた。
木は根から水を吸い、幹を通って葉に渡す。葉は木の外側、つまり樹皮を通って根に栄養を渡す…と聞いた。皮が剥かれるとその循環が出来なくなるので、成長できなくなる。この木は終わってしまった。
私には、あの木に対して何の責任も取れないし権利もない。そうなる運命だったのだろう。使われなくなった電信柱がどこかに持っていかれるのと同じことが起こっただけ。ただそれでも、寂しいなと思う。古い電信柱でも、虫に食われた木でも。
それから私は、ますますそこのバス停を使わなくなった。
そして、昨日。
踵を痛めてしまい歩きづらかったので、あのバス停でバスを待った。切り株断面にヒビが入り、風雨に晒されてすべすべしていた。
50分にバスが来る予定だそうなのだが、53分になっても来ない。3分遅れるくらいどうでもいいが、それでもハラハラしてしまうので苦手だ。じっとしていられないのでバス停と切り株の周りをうろうろとした。
バス停看板の脚の下から、ぴょこん、と葉っぱが出ているのに気がついた。葉っぱは青々としている。この葉は、あの木の葉だ。切られて落ちた葉が挟まっているのではないぞ、これは。死んだと思っていたのは私の勘違いだったか。大発見に一人で興奮していたら、バスが来た。
たぶん木は、看板の脚の下にまで根を伸ばしていて、その根から芽が出て葉をつけたんじゃあないか。そこなら人に気づかれないし、皮を剥がされることもない。と、バスに揺られながら考えていた。
あの木の葉、いや切り株の葉がもっと成長したら、また摘まれてしまうかもしれない。もしかしたら切り株ごと掘り起こされるかもしれないな。
ただそれは、今すぐじゃあないだろう。良かった、まだ生きていて。
道に生えているだけの木がなくなることに、なぜ寂しく感じるのか。それはもちろん愛着を持つからなんだろうけども、それ以外にも「自分の世界から何かが消えてしまった」ことも辛いのかもしれないな、と考えた。傲慢な考えかもしれないが、私の世界は私だけのものだ。その世界から、目に見える形で何かが消え、大切な世界のピースが欠けてしまって辛い、というような。心に穴が開いてしまうのと、近いような気がする。木でも犬でも、信号でも人でも、なくなったら寂しい。
いつかはあの切り株を見られなくなる日が来るんだろうけど、それまでは、ちゃんと見ておこうと思う。おわり。
それでも雨の日や体調が悪いときは、頑張ってバス停でバスが来るのをじっと待つ。待っているだけだが、自分の中ではケッコー頑張っている。
私がよく使うバス停には、屋根がない。バス停看板の側には大きな木が生えていて、彼の木陰が唯一の雨除けであり、日陰でもあった。そこで待つ人間はその木に助けられていた。はずだ。
その木は、かなり弱っていた。虫かなんかにめちゃめちゃにやられていて、葉はいつもボロっとしていた。葉の陰に潜む蚊には人間である私も悩まされた。
去年から、その木は切り株になった。腰下くらいの短さの。具体的な時期は秋だったか春だったか、思い出せない。
切られた理由は分からない。大きな木だったので、街路樹として交通の妨げになっていたのかもしれないし、木に潜む虫に悩まされた誰かがいたのかもしれない。
初めてその木の断面を見た時、初めて木が消えてしまったのを知ったときは、寂しかった。
私が神奈川に引っ越してきた時からその木はもうあり、すでに葉っぱがボロっちかった。引っ越したタイミングで車を手放したので、バスをよく使うようになり、よく木の横で蚊を追い払いながら待っていた。
そんな人間の私の感傷などどこ吹く風で、切り株は逞しく生きようとしていた。切られて数週間後、樹皮から芽が出てきたのだ!その芽は円周をなぞるようにぐるりと、ぽこぽこと生えていた。芽や枝ってランダムに生えているんじゃなくて、木がよく考えて生やしてるんだな~スゲーと感動した。
私はバスには乗らないが、そのバス停の前をよく通る。切り株の上に空き缶が置かれていたら、拾ってゴミ箱まで持って行って捨てた。切り株を勝手に応援していたが、それ以上のことはしなかった。きっと切り株にした人たちからは、私は厄介な存在だったかもしれないから。
野生のハトに餌をあげるのと、少しだけ似ているからな。
切り株の芽は、生えてきては誰かに摘まれ、また生やしては摘まれていった。
そしてある日のこと、切り株の樹皮が全て剥がされていた。
木は根から水を吸い、幹を通って葉に渡す。葉は木の外側、つまり樹皮を通って根に栄養を渡す…と聞いた。皮が剥かれるとその循環が出来なくなるので、成長できなくなる。この木は終わってしまった。
私には、あの木に対して何の責任も取れないし権利もない。そうなる運命だったのだろう。使われなくなった電信柱がどこかに持っていかれるのと同じことが起こっただけ。ただそれでも、寂しいなと思う。古い電信柱でも、虫に食われた木でも。
それから私は、ますますそこのバス停を使わなくなった。
そして、昨日。
踵を痛めてしまい歩きづらかったので、あのバス停でバスを待った。切り株断面にヒビが入り、風雨に晒されてすべすべしていた。
50分にバスが来る予定だそうなのだが、53分になっても来ない。3分遅れるくらいどうでもいいが、それでもハラハラしてしまうので苦手だ。じっとしていられないのでバス停と切り株の周りをうろうろとした。
バス停看板の脚の下から、ぴょこん、と葉っぱが出ているのに気がついた。葉っぱは青々としている。この葉は、あの木の葉だ。切られて落ちた葉が挟まっているのではないぞ、これは。死んだと思っていたのは私の勘違いだったか。大発見に一人で興奮していたら、バスが来た。
たぶん木は、看板の脚の下にまで根を伸ばしていて、その根から芽が出て葉をつけたんじゃあないか。そこなら人に気づかれないし、皮を剥がされることもない。と、バスに揺られながら考えていた。
あの木の葉、いや切り株の葉がもっと成長したら、また摘まれてしまうかもしれない。もしかしたら切り株ごと掘り起こされるかもしれないな。
ただそれは、今すぐじゃあないだろう。良かった、まだ生きていて。
道に生えているだけの木がなくなることに、なぜ寂しく感じるのか。それはもちろん愛着を持つからなんだろうけども、それ以外にも「自分の世界から何かが消えてしまった」ことも辛いのかもしれないな、と考えた。傲慢な考えかもしれないが、私の世界は私だけのものだ。その世界から、目に見える形で何かが消え、大切な世界のピースが欠けてしまって辛い、というような。心に穴が開いてしまうのと、近いような気がする。木でも犬でも、信号でも人でも、なくなったら寂しい。
いつかはあの切り株を見られなくなる日が来るんだろうけど、それまでは、ちゃんと見ておこうと思う。おわり。
