幸福の形状
公開 2025/05/09 21:18
最終更新
-
「早速ですが退部します。ボールよりも相手を蹴飛ばすことを優先しているうちの部なんて、いっそ廃部にした方がいいとすら考えています。部長は部費を横領して、いまやフェンタニル中毒まっしぐらだと告発させてもらいます」
顧問の先生は口を開きかけたが、結局「そうか……」と短くつぶやき背を向けた。まるで俺の話を聞いていなかったかのように。
静寂の生活指導室の中、顧問の先生は何かを口に含み、ボトルドウォーターで飲み干した。違法薬物ではなく解熱鎮痛剤だった。
「分かった、君の退部を許可しよう。しかし落ちぶれたものだな、我がサッカー部も。県ベスト8からわずか半年でこれだ」
「むしろあれで、みんな変な方向に自信がついちゃったんじゃないですかね? サボタージュの練習ばかりするようになったから連戦連敗、トイレに行きたいからという理由で殺人タックルからの一発レッド即退場。あれ、下手したら傷害罪の現行犯でしたよ?」
「ま、まあそうだな…………」
こうして俺は、念願の退部を果たした。
後日談となるが、部長の処遇に関しては手に負えないと判断した顧問の先生は、放校処分という手段を用いることにしたという。
サッカー部は廃部となり、部員たちはそのまま、新たに創部されたキックボクシング部へと編入された。
高校二年の春。大学受験に備えるにはまだ早い。
下校の途中、立ち寄った本屋で『形而上学』というタイトルの本を見かけた。なんて頭の良さそうな本なんだと感激して、上巻のページをめくってみる。
これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素があり――
第5元素エーテル――
表象(ファンタシア)
不等(アニソン)
NSAスイートB規格で暗号化されているのかとも思ったが、なんだかRPGみたいで面白そうだというのが素直な印象だ。
財布に問いかける『いけるか――?』
財布が答える『ゲーゲンプレスだ、相棒』
上下巻ともに『形而上学』を購入し、そのまま帰宅した。
改めて考えると、これは人間が読むことを想定した印字サイズじゃないだろう、あまりにも卑小だ。たぶんアリ用に書いてあるに違いない、そして著者の名前は『アリストテレス』――――
言葉さえ置いておけば、そこに勝手に意味が生じる、そんなはずがないだろう。
俺は『アリストテレス シャブ中』で検索した。が、過ちであった。
とにかく取っ掛かりがない。実例が出てこないのだ。概念というのは、それだけでは神との密約であり、実例を経なければ他者には伝わらないということを学んだ。
アリストテレス本人に『つまりどういうことだ?』と訊いても、『つまりこういうことだ』としか答えてくれないだろう。
上巻を読み終えるため、GWを丸々費やした。
下巻を読み始める。いや、高校生だぞ、俺……。なぜこんなものを読んでいる? 一度でも笑えたか? 否。読むのを中断し、老後の知性に期待するか? 否。こんな忌々しいものは、さっさと読んで始末してしまおう。
「『ヴァンサン・コンパニ』って『晩餐カンパニー』を彷彿とさせる名前だよな、つまり夕飯の時間だぞ? ハウ・コピー?(聞こえてるか?)」
「コピーズ・オール(分かったよ)」
部屋越しに父と心温まる会話を交わす。コミュニケーションは大切だ。
「クソッ、奴隷に対する不動産登記かよ!?」
『形而上学』の下巻、そして終盤。
季節が流れ夏。
「だから奴隷制を前提に道徳を語るんじゃねえ!」
俺の怒りはピークに達していたが、怒涛の読了でピークアウトした。
夏休み、そしてお盆。
迎え火に『形而上学』の上巻を放り込み、送り火へ下巻を放り込んだ。文字通り焼却処分だ。
時間の無駄だった。このときの俺はそれ以外の感想を持たなかった。
文系書物であればどんな難易度のものでも読破できるようになる――そんな副作用があっただなんて、高校生の俺にはない“イデア”だったのだ。
秋、二学期。
ヒマである。英語の授業中、スマホで音声をオフにして動画を眺めていたが、途中で広告が入ったため、スマートではない電話野郎を教室の窓から投擲した。
「Whatcha doin'!?(何やってんの!?)」
「Just kiddin'(ちょっとふざけてみただけッス)」
英語の先生とスマートな会話を交わす。コミュニケーションは大切だ。
夜、自室。仮想界で活動するようになって久しい。
ふと『幸福とはなんだろう?』などと、人間的ではあるが退化の兆候を示すような疑問が思い浮かんだ。
「もしや歌合戦……?」などと錯誤し、即座に記憶から抹消する。
人間にすっぽりと1/1として当てはまらないとしたら、過ぎたるものということだ。不可分なものであるというのは直感だが、おそらく正しい。
あるいは素数なのか、このハピネス野郎……?
不可分なものであると同時に、際限のないものであると仮定する。すなわち∞(無限)として。形状としてはゼロゼロ、通称『ダブルオー』だな……。
存在しないのか……ニヒリストなのかお前は……?
ふとサッカーの試合中に“ナルコレプシー”を発症し、フィールド上に横たわる選手たちの姿が思い浮かんだ。
さっさと立ちやがれ! “宿泊施設”じゃねぇんだぞ!?
いや? 俺はそもそも、8人制――少年――サッカーから始めたんだよな……?
――というワケで立ち上げてみた。『8』となった。よし、少しは見られる面構えだぞ。二年前の地獄でも見てきたか……?
「8……8か…………」
八歳のころは存在しているだけで幸福だった気がする。いや、着眼点が間違っているな。子供の頃にも不幸を感じたことは何度もあったが、そんなものは一晩寝れば消失してしまった。
つまりは不幸を処理する能力が、現在の高校生である俺とは桁違いに高かったのだ。キッズ恐るべし……!
「もしかしたら頭よりも体を動かした方がいいのかもな」
幸福など、どうでもよくなっていた。肝心なのは、いかに退屈や虚無といった不幸へとつながる要素を遠ざけるかだ。
老いたとしても、せめて散歩くらいはしようと心に誓った。
「ちわーっす、入部希望です、ただし“王族クラスの待遇”を所望する!」
冬が訪れる前に、俺はキックボクシング部に入部した。
シュッシュッ! 左ジャブから右ストレートを囮にして――右ハイキックの“簾”! ドッ! おお、初めて相手からダウンを奪えた。
「や、やるじゃねぇか、痛いほど伝わってきたぜ、お前の怨嗟…………」
「そりゃあ元チームメイトだからな。攻撃参加したまま守備に戻らないお前のせいで、ボランチの俺がどれだけ苦悩したことか……」
倒れた相手――かつてのポジションはSB――に手を貸し、『8』にしてやる。
軽めのスパーリング限定で顧問から許可をもらって以来、俺は純粋にキックボクシングを楽しんでいた。
入門書を何冊か読んだが、むしろ漫画から受けた影響が大きい。
そろそろ馴染んできたなと思い、グローブの感触を確かめる。俺の手にはめられていたそれは、“8オンス”のグローブだった――――
顧問の先生は口を開きかけたが、結局「そうか……」と短くつぶやき背を向けた。まるで俺の話を聞いていなかったかのように。
静寂の生活指導室の中、顧問の先生は何かを口に含み、ボトルドウォーターで飲み干した。違法薬物ではなく解熱鎮痛剤だった。
「分かった、君の退部を許可しよう。しかし落ちぶれたものだな、我がサッカー部も。県ベスト8からわずか半年でこれだ」
「むしろあれで、みんな変な方向に自信がついちゃったんじゃないですかね? サボタージュの練習ばかりするようになったから連戦連敗、トイレに行きたいからという理由で殺人タックルからの一発レッド即退場。あれ、下手したら傷害罪の現行犯でしたよ?」
「ま、まあそうだな…………」
こうして俺は、念願の退部を果たした。
後日談となるが、部長の処遇に関しては手に負えないと判断した顧問の先生は、放校処分という手段を用いることにしたという。
サッカー部は廃部となり、部員たちはそのまま、新たに創部されたキックボクシング部へと編入された。
高校二年の春。大学受験に備えるにはまだ早い。
下校の途中、立ち寄った本屋で『形而上学』というタイトルの本を見かけた。なんて頭の良さそうな本なんだと感激して、上巻のページをめくってみる。
これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素があり――
第5元素エーテル――
表象(ファンタシア)
不等(アニソン)
NSAスイートB規格で暗号化されているのかとも思ったが、なんだかRPGみたいで面白そうだというのが素直な印象だ。
財布に問いかける『いけるか――?』
財布が答える『ゲーゲンプレスだ、相棒』
上下巻ともに『形而上学』を購入し、そのまま帰宅した。
改めて考えると、これは人間が読むことを想定した印字サイズじゃないだろう、あまりにも卑小だ。たぶんアリ用に書いてあるに違いない、そして著者の名前は『アリストテレス』――――
言葉さえ置いておけば、そこに勝手に意味が生じる、そんなはずがないだろう。
俺は『アリストテレス シャブ中』で検索した。が、過ちであった。
とにかく取っ掛かりがない。実例が出てこないのだ。概念というのは、それだけでは神との密約であり、実例を経なければ他者には伝わらないということを学んだ。
アリストテレス本人に『つまりどういうことだ?』と訊いても、『つまりこういうことだ』としか答えてくれないだろう。
上巻を読み終えるため、GWを丸々費やした。
下巻を読み始める。いや、高校生だぞ、俺……。なぜこんなものを読んでいる? 一度でも笑えたか? 否。読むのを中断し、老後の知性に期待するか? 否。こんな忌々しいものは、さっさと読んで始末してしまおう。
「『ヴァンサン・コンパニ』って『晩餐カンパニー』を彷彿とさせる名前だよな、つまり夕飯の時間だぞ? ハウ・コピー?(聞こえてるか?)」
「コピーズ・オール(分かったよ)」
部屋越しに父と心温まる会話を交わす。コミュニケーションは大切だ。
「クソッ、奴隷に対する不動産登記かよ!?」
『形而上学』の下巻、そして終盤。
季節が流れ夏。
「だから奴隷制を前提に道徳を語るんじゃねえ!」
俺の怒りはピークに達していたが、怒涛の読了でピークアウトした。
夏休み、そしてお盆。
迎え火に『形而上学』の上巻を放り込み、送り火へ下巻を放り込んだ。文字通り焼却処分だ。
時間の無駄だった。このときの俺はそれ以外の感想を持たなかった。
文系書物であればどんな難易度のものでも読破できるようになる――そんな副作用があっただなんて、高校生の俺にはない“イデア”だったのだ。
秋、二学期。
ヒマである。英語の授業中、スマホで音声をオフにして動画を眺めていたが、途中で広告が入ったため、スマートではない電話野郎を教室の窓から投擲した。
「Whatcha doin'!?(何やってんの!?)」
「Just kiddin'(ちょっとふざけてみただけッス)」
英語の先生とスマートな会話を交わす。コミュニケーションは大切だ。
夜、自室。仮想界で活動するようになって久しい。
ふと『幸福とはなんだろう?』などと、人間的ではあるが退化の兆候を示すような疑問が思い浮かんだ。
「もしや歌合戦……?」などと錯誤し、即座に記憶から抹消する。
人間にすっぽりと1/1として当てはまらないとしたら、過ぎたるものということだ。不可分なものであるというのは直感だが、おそらく正しい。
あるいは素数なのか、このハピネス野郎……?
不可分なものであると同時に、際限のないものであると仮定する。すなわち∞(無限)として。形状としてはゼロゼロ、通称『ダブルオー』だな……。
存在しないのか……ニヒリストなのかお前は……?
ふとサッカーの試合中に“ナルコレプシー”を発症し、フィールド上に横たわる選手たちの姿が思い浮かんだ。
さっさと立ちやがれ! “宿泊施設”じゃねぇんだぞ!?
いや? 俺はそもそも、8人制――少年――サッカーから始めたんだよな……?
――というワケで立ち上げてみた。『8』となった。よし、少しは見られる面構えだぞ。二年前の地獄でも見てきたか……?
「8……8か…………」
八歳のころは存在しているだけで幸福だった気がする。いや、着眼点が間違っているな。子供の頃にも不幸を感じたことは何度もあったが、そんなものは一晩寝れば消失してしまった。
つまりは不幸を処理する能力が、現在の高校生である俺とは桁違いに高かったのだ。キッズ恐るべし……!
「もしかしたら頭よりも体を動かした方がいいのかもな」
幸福など、どうでもよくなっていた。肝心なのは、いかに退屈や虚無といった不幸へとつながる要素を遠ざけるかだ。
老いたとしても、せめて散歩くらいはしようと心に誓った。
「ちわーっす、入部希望です、ただし“王族クラスの待遇”を所望する!」
冬が訪れる前に、俺はキックボクシング部に入部した。
シュッシュッ! 左ジャブから右ストレートを囮にして――右ハイキックの“簾”! ドッ! おお、初めて相手からダウンを奪えた。
「や、やるじゃねぇか、痛いほど伝わってきたぜ、お前の怨嗟…………」
「そりゃあ元チームメイトだからな。攻撃参加したまま守備に戻らないお前のせいで、ボランチの俺がどれだけ苦悩したことか……」
倒れた相手――かつてのポジションはSB――に手を貸し、『8』にしてやる。
軽めのスパーリング限定で顧問から許可をもらって以来、俺は純粋にキックボクシングを楽しんでいた。
入門書を何冊か読んだが、むしろ漫画から受けた影響が大きい。
そろそろ馴染んできたなと思い、グローブの感触を確かめる。俺の手にはめられていたそれは、“8オンス”のグローブだった――――
