たまごを割るだけの話
公開 2023/08/26 11:06
最終更新
-
💎商2部以降 エトラ左右なし
慎重に、慎重に。
手が震えないように、力が入り過ぎないように。
でも、落としてしまわないように。
真剣に、少し、いやそこそこ、いやかなり緊張しながら手に取ったそれは、こちらの心情を察してでもいるのか表面にうっすらと汗をかいている。
恐る恐る、力加減に気をつけながらシンクの端にぶつけた一回目。
コツン。
小さな音はしたが、硬い——しかし硬いと思って力を入れても良いほどには硬くない——表面に変化はない。
もう一度、先程よりもう少しだけ強くぶつけた二回目。
カショッ。
思ったよりも広い範囲がひび割れたけれど、なんとかつぶれずに形を保つことに成功している。
握りつぶしてしまわなかったことに、思わずほっと息が漏れる。
しかしここで油断をしてはいけない。ここからが肝要だ。
ひび割れたその中程に両手の親指を添えて、他の指は手の中のそれが落ちてしまわないよう、つぶしてしまわないよう、支えるだけ。
少しだけ親指の爪先を沈めてから、両の手首を開くようにゆっくり動かす。
いつものように、今にもぐしゃりと音を立てて身投げされてしまうのではないかと緊張しながら、震える指が開いた先。
ぱかり。
そんな音がしただろうか。
ぎゅっと寄せた眉の下、自然に細くなってしまう目でそうっと器の中を窺えば、つるんと光を表面に乗せた透明な白身と、傷一つない円形を保ったつやつやの黄身。
手の中には、砕け散ることなく、銀色のボウルに飛び込むこともなく、形を残したままの殻。
「! ……!! せ、せいぎ……!!」
銀色の中で輝く黄色に、思わず器を手にして「見てください」とキッチンを出ようとして、まだ薄明るくなってきたばかりの窓の外に、飛び出しかけた足が一歩、二歩。
三歩目を踏む前に足が止まる。
いつもあのように素晴らしい手料理の数々を振舞ってくれる彼に対して、これを見せてどうだと言うのか。
まだ料理の形にすらなっていない、ボウルの中の光のかけら。
そもそも、彼が起きてくる前に朝食の用意をしようと、こうしてキッチンに立っているのだ。まだ眠りの中にいるのだろう相手を揺さぶり起こしてまで見せるものだろうか。
否。
くるりと踵を返して、一歩、二歩。
この美しい形をした円をなんとかそのまま食すことはできないか——例えば彼の作ってくれるまあるい目玉焼きのように。
そんなことを思いながら銀色のボウルをキッチン台に置くのと、ほぼ同時。
後ろからにゅっと伸びてきた両手が、エプロンの上からぎゅうっと身体に絡みついた。
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる腕と、肩にぐりぐりと押し付けられる黒い髪。
「正義?」
「ごめん。見てた」
「左様ですか」
「うん。隠れてないで、ついてたらよかった」
「……隠れていたので?」
「邪魔するかと、思ったから」
でも、今日は一緒にいたらよかった。
肩の後ろでそう呟く声に少し水分が混じった気がして、とんとんと腕を叩けば腕が緩む。くるりと後ろを振り返れば、顔を強く押し付け過ぎたのか、少し目元を赤くした我が家の腕のいいシェフの顔。
「あー……すごいな、リチャード! 完璧だった!」
「私もやればできるのですよ、とでも申し上げておきましょうか」
「努力の天才の成長を見せつけられた気分でいっぱいです」
「それはよろしゅうございました。ですが、たまごを割っただけですよ」
「たまご料理は、たまごを割らないと始まらないだろ」
でも、次は一緒にやろう。
隠れて様子を窺っていたらしい彼は、そう笑う。
心配して、はらはらしながら見守るのではなく。
成功した瞬間の喜びを二人で一緒に味わいたい。
ただ、それだけ、と。
『ただ、それだけ』
2021/8/13 Twitter投稿:再掲
【One pint of Words】収録
慎重に、慎重に。
手が震えないように、力が入り過ぎないように。
でも、落としてしまわないように。
真剣に、少し、いやそこそこ、いやかなり緊張しながら手に取ったそれは、こちらの心情を察してでもいるのか表面にうっすらと汗をかいている。
恐る恐る、力加減に気をつけながらシンクの端にぶつけた一回目。
コツン。
小さな音はしたが、硬い——しかし硬いと思って力を入れても良いほどには硬くない——表面に変化はない。
もう一度、先程よりもう少しだけ強くぶつけた二回目。
カショッ。
思ったよりも広い範囲がひび割れたけれど、なんとかつぶれずに形を保つことに成功している。
握りつぶしてしまわなかったことに、思わずほっと息が漏れる。
しかしここで油断をしてはいけない。ここからが肝要だ。
ひび割れたその中程に両手の親指を添えて、他の指は手の中のそれが落ちてしまわないよう、つぶしてしまわないよう、支えるだけ。
少しだけ親指の爪先を沈めてから、両の手首を開くようにゆっくり動かす。
いつものように、今にもぐしゃりと音を立てて身投げされてしまうのではないかと緊張しながら、震える指が開いた先。
ぱかり。
そんな音がしただろうか。
ぎゅっと寄せた眉の下、自然に細くなってしまう目でそうっと器の中を窺えば、つるんと光を表面に乗せた透明な白身と、傷一つない円形を保ったつやつやの黄身。
手の中には、砕け散ることなく、銀色のボウルに飛び込むこともなく、形を残したままの殻。
「! ……!! せ、せいぎ……!!」
銀色の中で輝く黄色に、思わず器を手にして「見てください」とキッチンを出ようとして、まだ薄明るくなってきたばかりの窓の外に、飛び出しかけた足が一歩、二歩。
三歩目を踏む前に足が止まる。
いつもあのように素晴らしい手料理の数々を振舞ってくれる彼に対して、これを見せてどうだと言うのか。
まだ料理の形にすらなっていない、ボウルの中の光のかけら。
そもそも、彼が起きてくる前に朝食の用意をしようと、こうしてキッチンに立っているのだ。まだ眠りの中にいるのだろう相手を揺さぶり起こしてまで見せるものだろうか。
否。
くるりと踵を返して、一歩、二歩。
この美しい形をした円をなんとかそのまま食すことはできないか——例えば彼の作ってくれるまあるい目玉焼きのように。
そんなことを思いながら銀色のボウルをキッチン台に置くのと、ほぼ同時。
後ろからにゅっと伸びてきた両手が、エプロンの上からぎゅうっと身体に絡みついた。
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる腕と、肩にぐりぐりと押し付けられる黒い髪。
「正義?」
「ごめん。見てた」
「左様ですか」
「うん。隠れてないで、ついてたらよかった」
「……隠れていたので?」
「邪魔するかと、思ったから」
でも、今日は一緒にいたらよかった。
肩の後ろでそう呟く声に少し水分が混じった気がして、とんとんと腕を叩けば腕が緩む。くるりと後ろを振り返れば、顔を強く押し付け過ぎたのか、少し目元を赤くした我が家の腕のいいシェフの顔。
「あー……すごいな、リチャード! 完璧だった!」
「私もやればできるのですよ、とでも申し上げておきましょうか」
「努力の天才の成長を見せつけられた気分でいっぱいです」
「それはよろしゅうございました。ですが、たまごを割っただけですよ」
「たまご料理は、たまごを割らないと始まらないだろ」
でも、次は一緒にやろう。
隠れて様子を窺っていたらしい彼は、そう笑う。
心配して、はらはらしながら見守るのではなく。
成功した瞬間の喜びを二人で一緒に味わいたい。
ただ、それだけ、と。
『ただ、それだけ』
2021/8/13 Twitter投稿:再掲
【One pint of Words】収録
