この気持ちが湧く理由
公開 2026/03/23 01:55
最終更新
2026/03/23 01:56
幼少期から、本を読むことが好きだった。保育園で与えられた絵本はたった一言二言の文を読むたびにページをめくるのが煩わしくて、年中の頃には自然と文量の多い絵本を手に取るようになった。
どこにいても本を読みたくて、家では母親が読んでいた本を読んでいたと思う。内容はよくわからなかったけど、結局絵が無くても本は読めるのだな、ということに気付いた。
一応年長の頃は絵本が好きだったのだけど、絵の内容と文字の内容を交互に理解するのが難しくて、一度文字だけ読んだ後、追って最初のページから挿絵だけを見るということを繰り返していたから、絵本の本質的な面白さは理解できないままだった。
親は文字を読みたいという自分の気持ちを理解して文量の多い本を買い与えてくれたが、そのせいで、きつめの童話ばかり読んでいた。
今、こんな気持ちになるのは、そのせいである。
友達と楽しく遊んでいるだけなのに、急に最悪な想像が頭をよぎる。
楽しい時間は急に崩れて消え去る。
そういう物語を幼少期にたくさん読んできた。
具体的にどういう物語かというと、例えば、主人公がご機嫌で買い物をして、新しい洋服やお皿などを両手にたっぷりもって帰ろうとしたところを急に嵐が襲って洋服は濡れ、お皿は粉々に割れるというものだったり、運動音痴な主人公が友達に木登りに誘われて、意気揚々と登ったところ、ある程度の高さで登れなくなり、遂には手足も動かせないまま腹を木の幹に擦って血まみれになりながら地面に落ちていくというものであったりした。前者は分かりやすいが、後者は補足すると、その日の朝に母親が着せてくれた服がやぶれ、友達には置いていかれ、しまいには家に帰ったら服をボロボロにしたことを怒られたという結末であった。
どちらも古い童謡なので、もちろん主人公が救われてハッピーエンドなんて無いのだが、無邪気な自分は情報が文字になって自分に入ってくるのが楽しかったし、それがリアルであればあるほど面白かった。
感情は2種類に分けられるものがある。一つは表面的な感情、もう一つは内面的な感情だ。表面的な感情は、人間が自発的に制御可能であるのに対し、内面的な感情は制御が効かず、いつ込み上げてくるか分からない。そして、幼少期のうちは内面的な感情はそこまで発達していない(すなわち、自我が形成されていない)のに対し、表面的な感情は驚くほど活発である。先に「表面的な感情は制御可能である」と述べたが、それは一般的な人間の場合である。幼児に制御可能な感情など、無い。そして、私が幼少期にそういった物語を読んで「楽しかった」のは表面的な感情によるものである。対して、「今、こんな気持ちになる」のは内面的な感情によるものである。そもそも、一度現れた表面的な感情は時間を置いて内面的な感情として自己の内部に形成され、それに対応する表面的な感情が現れた時に一緒に露出する。
それが、「いま、こんな気持ちになる」理由である。
成長した心が表面的な感情で「楽しい」と思えば内面的な感情は先に述べたようなことを露出させるのだ。
本来なら、表面的な感情も内面的な感情も一致するのだが、自我が形成されていない時期からそのような感情が一致しないことを行ってきたせいで、今、このような感情のズレが起きる。
無論、この感情の「ズレ」はおかしいし、この2つの感情の矛盾を感じ取る「自分」はもちろん辛い。
おかしいことだし、辛いのだから避けて当然という結論が自分の中に出ると、とにかく感情を感じることを避けるようになるだろう。そして、考えるということを辞め、中身の無い人間になっていくのだ。いや、中身はあるのだが、幼少期から詰め込んだせいで収まりきらなくなった結果マヒしてしまったと言ってもいい。
こういった人間はけっこういる。何に対しても無関心な人。言ってることとやってることが違う人。押し付けが激しい人。これらは全て感情の「ズレ」をこじらせた結果である。こういった人間はそもそもかなりの割合を占めているので、学生のうちはまだ気にしなくて良いと思うのだが、そのうち更生できる人とそうでない人に分かれることになる。そうでない人というのはつまり、先に述べたようなことにブレーキがかかることがなく、そのまま進めるところまで進んでしまったタイプだが、更生できる人というのはそれとは違ってくる。まず、前提として、両者の違いは先天的な物ではない。(先天的と言うこともできるが、遺伝子的な意味では後天的と言える。)
違いの1つめとして、抱えている感情のズレの豊富さにある。感情のズレが1パターン、つまり、表面でどのような感情を感じても内面ではある程度同じ感情が露出する人の場合、感情の切り替えの必要が無いため、場面の切り替えができなくなる。対して、感情のズレが豊富な人の場合、状況に適切な感情を露出させることはできないが、場面の切り替え自体はできる。どちらの場合でも、時間の経過によって感情のズレ自体は補正されていくが、感情のズレが1パターンな場合、補正してもなにも変わらないため、良い変化は期待できない。
違いの2つめは、成功体験の有無である。感情のズレがある人は、感情を必要としない作業において本領を発揮できる。なにか一つ、成功体験を作っておけば、その体験をなぞることで感情を必要とせずに、本領を発揮し続けることができる。対して、成功体験の無い人は...お察しの通りだ。
人間とは大きな器である。成長と共に器は大きくなる。しかし、その器には蓋が付いていて、どこかで器がいっぱいになるとその蓋は閉じてしまう。もう一度開けることもできるが、大きくなった蓋を開けるのは大変だ。どんな体験をいつ積むか、あなた次第である。そしてその先には、あなた次第の未来が待っているだろう。
何よりも未来に空虚な希望を抱かず、自分が過ごすその時間を大切にするべきだ。
どこにいても本を読みたくて、家では母親が読んでいた本を読んでいたと思う。内容はよくわからなかったけど、結局絵が無くても本は読めるのだな、ということに気付いた。
一応年長の頃は絵本が好きだったのだけど、絵の内容と文字の内容を交互に理解するのが難しくて、一度文字だけ読んだ後、追って最初のページから挿絵だけを見るということを繰り返していたから、絵本の本質的な面白さは理解できないままだった。
親は文字を読みたいという自分の気持ちを理解して文量の多い本を買い与えてくれたが、そのせいで、きつめの童話ばかり読んでいた。
今、こんな気持ちになるのは、そのせいである。
友達と楽しく遊んでいるだけなのに、急に最悪な想像が頭をよぎる。
楽しい時間は急に崩れて消え去る。
そういう物語を幼少期にたくさん読んできた。
具体的にどういう物語かというと、例えば、主人公がご機嫌で買い物をして、新しい洋服やお皿などを両手にたっぷりもって帰ろうとしたところを急に嵐が襲って洋服は濡れ、お皿は粉々に割れるというものだったり、運動音痴な主人公が友達に木登りに誘われて、意気揚々と登ったところ、ある程度の高さで登れなくなり、遂には手足も動かせないまま腹を木の幹に擦って血まみれになりながら地面に落ちていくというものであったりした。前者は分かりやすいが、後者は補足すると、その日の朝に母親が着せてくれた服がやぶれ、友達には置いていかれ、しまいには家に帰ったら服をボロボロにしたことを怒られたという結末であった。
どちらも古い童謡なので、もちろん主人公が救われてハッピーエンドなんて無いのだが、無邪気な自分は情報が文字になって自分に入ってくるのが楽しかったし、それがリアルであればあるほど面白かった。
感情は2種類に分けられるものがある。一つは表面的な感情、もう一つは内面的な感情だ。表面的な感情は、人間が自発的に制御可能であるのに対し、内面的な感情は制御が効かず、いつ込み上げてくるか分からない。そして、幼少期のうちは内面的な感情はそこまで発達していない(すなわち、自我が形成されていない)のに対し、表面的な感情は驚くほど活発である。先に「表面的な感情は制御可能である」と述べたが、それは一般的な人間の場合である。幼児に制御可能な感情など、無い。そして、私が幼少期にそういった物語を読んで「楽しかった」のは表面的な感情によるものである。対して、「今、こんな気持ちになる」のは内面的な感情によるものである。そもそも、一度現れた表面的な感情は時間を置いて内面的な感情として自己の内部に形成され、それに対応する表面的な感情が現れた時に一緒に露出する。
それが、「いま、こんな気持ちになる」理由である。
成長した心が表面的な感情で「楽しい」と思えば内面的な感情は先に述べたようなことを露出させるのだ。
本来なら、表面的な感情も内面的な感情も一致するのだが、自我が形成されていない時期からそのような感情が一致しないことを行ってきたせいで、今、このような感情のズレが起きる。
無論、この感情の「ズレ」はおかしいし、この2つの感情の矛盾を感じ取る「自分」はもちろん辛い。
おかしいことだし、辛いのだから避けて当然という結論が自分の中に出ると、とにかく感情を感じることを避けるようになるだろう。そして、考えるということを辞め、中身の無い人間になっていくのだ。いや、中身はあるのだが、幼少期から詰め込んだせいで収まりきらなくなった結果マヒしてしまったと言ってもいい。
こういった人間はけっこういる。何に対しても無関心な人。言ってることとやってることが違う人。押し付けが激しい人。これらは全て感情の「ズレ」をこじらせた結果である。こういった人間はそもそもかなりの割合を占めているので、学生のうちはまだ気にしなくて良いと思うのだが、そのうち更生できる人とそうでない人に分かれることになる。そうでない人というのはつまり、先に述べたようなことにブレーキがかかることがなく、そのまま進めるところまで進んでしまったタイプだが、更生できる人というのはそれとは違ってくる。まず、前提として、両者の違いは先天的な物ではない。(先天的と言うこともできるが、遺伝子的な意味では後天的と言える。)
違いの1つめとして、抱えている感情のズレの豊富さにある。感情のズレが1パターン、つまり、表面でどのような感情を感じても内面ではある程度同じ感情が露出する人の場合、感情の切り替えの必要が無いため、場面の切り替えができなくなる。対して、感情のズレが豊富な人の場合、状況に適切な感情を露出させることはできないが、場面の切り替え自体はできる。どちらの場合でも、時間の経過によって感情のズレ自体は補正されていくが、感情のズレが1パターンな場合、補正してもなにも変わらないため、良い変化は期待できない。
違いの2つめは、成功体験の有無である。感情のズレがある人は、感情を必要としない作業において本領を発揮できる。なにか一つ、成功体験を作っておけば、その体験をなぞることで感情を必要とせずに、本領を発揮し続けることができる。対して、成功体験の無い人は...お察しの通りだ。
人間とは大きな器である。成長と共に器は大きくなる。しかし、その器には蓋が付いていて、どこかで器がいっぱいになるとその蓋は閉じてしまう。もう一度開けることもできるが、大きくなった蓋を開けるのは大変だ。どんな体験をいつ積むか、あなた次第である。そしてその先には、あなた次第の未来が待っているだろう。
何よりも未来に空虚な希望を抱かず、自分が過ごすその時間を大切にするべきだ。
