映画「サイレントナイト」感想
公開 2025/04/30 04:22
最終更新
2025/04/30 05:59
ジョン・ウー監督でジョエル・キナマン主演!? と、前情報の時点でビックリして観に行ってしまったんだけど、いやーなんてものを観る羽目になってしまったんだ、という気持ち…重い重い重すぎる、壮絶に重い。大好きだし楽しんだけど、あまりにもつらい映画だと思った。子を喪った親というのはこれほどに「鬼」になってしまうのかと。
実はラミ・マレックの「アマチュア」を観てからそう間を空けずにこの映画を観てるんだけど、同じ復讐劇ジャンルでも味わいが違いすぎてお腹壊すかと思った。「アマチュア」のヘラーが”復讐の鬼になりきれなかった”のだとしたら、「サイレントナイト」のブライアンは”復讐の鬼になるしかなかった”キャラクタだと思う。
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愛息子を突然かつ理不尽に殺害され、自身も負傷して発声機能を奪われ、それによって妻との関係も悪化し、主人公ブライアン・ゴッドロックは自身の平穏な生活を丸ごと失うのだけれど、これは同時に、少なくとも彼自身が考える「人間としての幸福」をすべて失ったことと同義なのではないかと思う。
息子を失い、平凡で平穏な、普通の人間として生きる日々を失う。さらに彼は発声によるコミュニケーション手段を失うのだけれど、これらによってブライアンは決定的に「人間として」の部分を奪われてしまったのではないか、少なくともブライアン自身はそう感じてしまったのではないか、と思う。
言葉を発声することで周囲と関わるというのは、人が人として生活していく上でかなり大きな部分を占めているところだと思う。愛息だけでなく言葉をも奪われて、これでどうやって「人間として」生きろというのか。人としての尊厳を根こそぎ奪われたも同然ではないか。
これで復讐に走るなというほうが無理な話だし、ギャングの拠点に単身乗り込んでの大暴れにも納得できようというもの。言葉も声もなくても、ブライアンの表情やしぐさだけで彼の感情が充分以上に、痛々しいほど伝わってくるので観客としては本当につらくてつらくてたまらない。
終盤で、大暴れしているブライアンに対して駆けつけたヴァッセル刑事が一度は銃を向けるものの、それを下ろすシーンがとても印象的だと思う。これは、復讐の鬼と化したブライアンはもう、人間がどうこうできる存在ではないからだったのではないか だから(人間である)ヴァッセル刑事は手を引いて、彼を制止しようとはしなかったのでは…と個人的には思っている。
まあ、ヴァッセル刑事は普通にブライアンの境遇に同情と共感を寄せてくれている人であるっぽいので、それで彼に復讐を最後まで遂げさせてやろうとしたのだ、というのがメインの理由ではあろうけど…
ラストシーンで描写される、ギャングの拠点に乗り込む前に妻に宛てて書いたのであろう手紙がまた切ないし、開けられることのなかったクリスマスプレゼント(いわゆるプラレール的な機関車と線路のセット)を、改めて開封して息子の墓に供えてやっているのも切ない。
これらはいわゆる、完全に鬼と化してしまう前の、ブライアンに残った最後の「人間の部分」であり、それを息子の墓と妻へ置いていく(遺していく)ことで、ブライアンは心置きなく復讐に赴いていったのではないか。
ギャングとの抗争で自分は死ぬだろうし、その前に人間性という美しいものを妻と息子に託しておきたかったのかもしれないし、同時に、そんなものを自分の中に残していたら「復讐」という大仕事を成し遂げられないと思ったのかもしれない。
人間の尊厳を根こそぎ奪われたブライアンにはもう、人間性をかなぐり捨てて「復讐の鬼」と化すことでしか自身を存在させるすべがなくなってしまったのではないかと思う。復讐を遂げたところで息子も、その他の失われたすべても返ってくるわけではないんだが、それがわかっていてなお、復讐に全身全霊を賭けるしか彼には道がなかった、そうせずにはいられなかったし、そうすることでしか存在できなかった、それを思うとあまりに彼が哀れで悲しい。
殺戮を終えて倒れ込んだブライアンが、息子の幻を見てひどく安らかな顔をするのもまた、あまりに哀れで悲しい。
(別作品への言及であれだけど、「ジョジョの奇妙な冒険」第6部の「(復讐をしても奪われた大事な人は返ってはこないし喜ばれないかもしれないが)復讐とは自分の運命に決着をつけるために行うのだ」というせりふを思い出している。たしかエルメェス・コステロのせりふだったと思うが(彼女も最愛の姉をギャングに殺害されている))
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この話、「情念に身を焼かれたすえに人外の鬼と化してしまう」という、日本人が古来から扱ってきた大好きなテーマの話なんじゃないか、と見終わったあと個人的に思っている。切なくて苦しくてやりきれなくて、しかし美しいテーマだと思うし、もちろん私自身としてもとても惹かれるテーマである。
だから、切なくて苦しくてやりきれないけれど、この映画もものすごく印象的な映画として心に残り続けると思う。
(2025年4月23日鑑賞)
(ふせったーに投稿したものを加筆・再構成)
実はラミ・マレックの「アマチュア」を観てからそう間を空けずにこの映画を観てるんだけど、同じ復讐劇ジャンルでも味わいが違いすぎてお腹壊すかと思った。「アマチュア」のヘラーが”復讐の鬼になりきれなかった”のだとしたら、「サイレントナイト」のブライアンは”復讐の鬼になるしかなかった”キャラクタだと思う。
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愛息子を突然かつ理不尽に殺害され、自身も負傷して発声機能を奪われ、それによって妻との関係も悪化し、主人公ブライアン・ゴッドロックは自身の平穏な生活を丸ごと失うのだけれど、これは同時に、少なくとも彼自身が考える「人間としての幸福」をすべて失ったことと同義なのではないかと思う。
息子を失い、平凡で平穏な、普通の人間として生きる日々を失う。さらに彼は発声によるコミュニケーション手段を失うのだけれど、これらによってブライアンは決定的に「人間として」の部分を奪われてしまったのではないか、少なくともブライアン自身はそう感じてしまったのではないか、と思う。
言葉を発声することで周囲と関わるというのは、人が人として生活していく上でかなり大きな部分を占めているところだと思う。愛息だけでなく言葉をも奪われて、これでどうやって「人間として」生きろというのか。人としての尊厳を根こそぎ奪われたも同然ではないか。
これで復讐に走るなというほうが無理な話だし、ギャングの拠点に単身乗り込んでの大暴れにも納得できようというもの。言葉も声もなくても、ブライアンの表情やしぐさだけで彼の感情が充分以上に、痛々しいほど伝わってくるので観客としては本当につらくてつらくてたまらない。
終盤で、大暴れしているブライアンに対して駆けつけたヴァッセル刑事が一度は銃を向けるものの、それを下ろすシーンがとても印象的だと思う。これは、復讐の鬼と化したブライアンはもう、人間がどうこうできる存在ではないからだったのではないか だから(人間である)ヴァッセル刑事は手を引いて、彼を制止しようとはしなかったのでは…と個人的には思っている。
まあ、ヴァッセル刑事は普通にブライアンの境遇に同情と共感を寄せてくれている人であるっぽいので、それで彼に復讐を最後まで遂げさせてやろうとしたのだ、というのがメインの理由ではあろうけど…
ラストシーンで描写される、ギャングの拠点に乗り込む前に妻に宛てて書いたのであろう手紙がまた切ないし、開けられることのなかったクリスマスプレゼント(いわゆるプラレール的な機関車と線路のセット)を、改めて開封して息子の墓に供えてやっているのも切ない。
これらはいわゆる、完全に鬼と化してしまう前の、ブライアンに残った最後の「人間の部分」であり、それを息子の墓と妻へ置いていく(遺していく)ことで、ブライアンは心置きなく復讐に赴いていったのではないか。
ギャングとの抗争で自分は死ぬだろうし、その前に人間性という美しいものを妻と息子に託しておきたかったのかもしれないし、同時に、そんなものを自分の中に残していたら「復讐」という大仕事を成し遂げられないと思ったのかもしれない。
人間の尊厳を根こそぎ奪われたブライアンにはもう、人間性をかなぐり捨てて「復讐の鬼」と化すことでしか自身を存在させるすべがなくなってしまったのではないかと思う。復讐を遂げたところで息子も、その他の失われたすべても返ってくるわけではないんだが、それがわかっていてなお、復讐に全身全霊を賭けるしか彼には道がなかった、そうせずにはいられなかったし、そうすることでしか存在できなかった、それを思うとあまりに彼が哀れで悲しい。
殺戮を終えて倒れ込んだブライアンが、息子の幻を見てひどく安らかな顔をするのもまた、あまりに哀れで悲しい。
(別作品への言及であれだけど、「ジョジョの奇妙な冒険」第6部の「(復讐をしても奪われた大事な人は返ってはこないし喜ばれないかもしれないが)復讐とは自分の運命に決着をつけるために行うのだ」というせりふを思い出している。たしかエルメェス・コステロのせりふだったと思うが(彼女も最愛の姉をギャングに殺害されている))
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この話、「情念に身を焼かれたすえに人外の鬼と化してしまう」という、日本人が古来から扱ってきた大好きなテーマの話なんじゃないか、と見終わったあと個人的に思っている。切なくて苦しくてやりきれなくて、しかし美しいテーマだと思うし、もちろん私自身としてもとても惹かれるテーマである。
だから、切なくて苦しくてやりきれないけれど、この映画もものすごく印象的な映画として心に残り続けると思う。
(2025年4月23日鑑賞)
(ふせったーに投稿したものを加筆・再構成)
