C102無償頒布コピー本「勝ち目のない勝負ではない」
公開 2023/08/16 21:09
最終更新
2023/08/16 21:14
勝ち目のない勝負ではない
「こんなことってあるんだね」
診察室を出た山口と妻の弥生は、会計窓口に向かう廊下で肩を並べながら力なく笑い合った。
笑ってはいるものの、二人の表情は、まるで能面のように生気を失っているように見える。
弥生は妊娠中で、在胎26週目。
つい二週間ほど前までは、わが子の成長を喜ぶごく普通のどこにでもいる妊婦だった。
その日もいつもと同じ健診が行われ、異状なしという結果が出ると思い、それ以外の可能性など考えるはずもなかった。
病院帰りに二人で食事をしようと気軽に話をする、ごく当たり前の日常だ。
照明が落とされた薄暗い診察室。弥生は診察台に横たわり、そのお腹に医師が超音波検査のプロープを当てている。
プローブの向きを何度も変えながら医師が首をひねる。
弥生も山口も医師が首をひねったことになど気がつくはずもなく、いつものように順調に育っているという診察結果を待っていた。
プローブを戻した医師が二人に向き合い姿勢を正す。
いつもにこやかに話をしてくれる医師の表情が硬い。
何事か事態を理解できていない二人も思わず背筋を伸ばして緊張の面持ちを浮かべた。
「赤ちゃんの心臓の形がちょっと気になるのよね。念のため子供の心臓を専門にする病院で診てもらった方がいいと思います」
弥生は目を丸くした。
想像もしていなかった医師の言葉に面食らったのだ。
「念のためっていうくらいだからたいしたことじゃないと思うよ」
診察室を出た山口は楽観的な見込みを口にした。
その隣で弥生は山口を見上げながら不安げな顔でお腹をさすっている。
産科で胎児の心臓が気になると告げられた二週間後、二人は都内にある心臓では国内でも有数の実績を誇る大学病院を受診した。
循環器小児科という聞きなれない診療科だった。循環器小児科は、先天性心疾患を専門とする診療科だ。
「説明の準備をしますから、待合室でお待ちください」
途中、何度かプロープを取り替えながら念入りに超音波を当てた医師が硬い表情で二人に告げた。
「大丈夫。たいしたことないよ」
山口は弥生に声をかけた。
妻を安心させようとしてのことだったが、本当は自分がそう思いたかった。
「結論から言います」
診察室に通された二人に医師が説明を始めた。
「お子さんの病名は……」
そう言いなから医師は机の上の紙にペンを走らせる。
「三尖弁異形成」
目の前の紙に仰々しい漢字が並ぶ。
見たことも聞いたこともない病名に二人は首をひねった。
怪訝な顔をする二人を前に医師は、何か意を決するかのように大きく深呼吸をした。
「お子さんの病名は『さんせんべんいけいせい』といいます。最重症です」
「はあ……」
二人には医師の口から出た言葉の意味が理解できなかった。
「三尖弁というのは、心臓の右心房と右心室を隔てている弁で、右心室から右心房に血液が逆流しないようにするためのものです」
「お子さんは、この弁をうまく作ることができず、右心室から右心房に血液が逆流しています。右心室から血液が逆流すると、その圧で右心房かどんどん拡大していくことになります。拡大した右心房は紙のようにぺらぺらに薄くなって元に戻れません」
「どんどん大きくなった右心房は肺を圧迫することになります。お腹の中にいるうちに肺が圧迫されると、赤ちゃんの肺が正常に形成されなくなります」
「この病気は、重症度によって予後が大きく違ってきます。最重症の場合、お腹の中にいるうちに心臓が弱って死んでしまいます」
山口の頭の中で「最重症」と「死」という単語が結びついた。
なおも医師は説明を続ける。
「運良く出産までこぎつけたとしても、肺が心臓で圧迫きれていますから、自発呼吸ができず生まれてすぐに亡くなってしまいます」
「ここまでの重症度のお子さんは、当院での救命例がありません」
山口の意識からは、ごっそりとリアリティが抜け落ち、医師の説明が他人事のように空しく響いた。
動揺して医師に食ってかかるような気持ちなどこれっぽっちも出ることはなかった。
「お腹の中で死んでしまう可能性が高くて、もしも生まれることができても呼吸ができずに死んでしまう可能性が高いということですか」
山口は説明を終えた医師に質問した。
質問というより、告げられた事実の要約を確認しただけといった方が正しい。
「はいそのとおりです」
落ち着いてはいるが絞り出すように答えた言葉から、医師の苦悩が山口にも伝わった。
山口の隣に座っている弥生は無表情に一点を見つめている。
よくドラマや映画で重篤な症状であることを医師から告げられた人が医師に食ってかかるシーンがあるが、あれは嘘だ。
あらゆる感情が抜け落ち、激高するような反応など起きようもない。
「こんなことってあるんだね」
説明を終えて診察室を出た二人は、どちらからともなく同じ言葉を漏らした。
自分たちの子供は、なんの問題もなく生まれてくるのが当然だと信じていた。それ以外の可能性など考えたこともない。
事実を受け入れることができるか、できないかなどという問題ではない。いや、どちらかといえば受け入れがたいのが本心だ。
しかし、それ以上に二人の頭に浮かぶのは「なぜうちが?」という疑問ばかりだった。
山口の耳に入る弥生の言葉も周りの音も、すべてが現実感を欠き、水の中で遠くの雷鳴を聞いているかのようにくぐもって響くだけだった。
現実感が抜け落ちたのは聴覚だけではない。見えている世界から彩度がなくなり、辺り一面がプルーグレイの世界に変わっていた。
「こんなことってあるんだねえ」
「なんでうちなんだろうね」
病院から帰宅する車中、二人の口から出る言葉はこの二つばかりだ。
心臓に最重症の病気を持ちながらも胎児はすくすくと成長していった。
しかし、二人とも子の成長を素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。
そればかりか、その成長ぶりが二人の心を深く抉ることになろうとは何と皮肉なことか。
「こんなに元気に動くのに生きられないんだよね」
胎動を感じ始めたお腹をさすりながら弥生がぽつりと呟く。
死に向かうであろうことがほぼ確実な命を胎内で育てなければならないということが、母親としてどれほど辛いものなのか、山口にも痛いほど伝わった。
子供服売り場に行っても手にするのは真っ白な産着だ。子供が生まれる前にその死に装束を選ぶという矛盾。
矛盾していても、それが二人にとっては現実的かつ唯一の選択肢だった。
二人は、自分たちの内で処理しきれず、受け入がたい感情を外に向けることもあった。
「あんなバカみたいな顔しているのに健康な子供を産むなんてずるい」
言いがかりもいいところで、相手には失礼極まりない感情であることは間違いないが、二人の偽らざる気持ちでもあった。二人は世間のあらゆるものを呪った。
気丈に振る舞っているものの、弥生からは日に日に笑顔が少なくなっていった。
一方、山口は密かに子供の病気と闘う道を探っていた。
先天性心疾患に関する専門書を買い求めて病態について学んだ。そして、病名は違うが同じ病態を現す病気で数年前に新しい術式が考案され、救命例が報告されるようになっていることを知った。
「これなら生かせる」
山口は新しい術式に一条の光明を見た。
その日から山口の闘いが始まった。
国内でこの術式を使った救命例がある病院を探す。
「あった!!」
山口は思わす声を上けた。
インターネットを検索していると一件のニュースが山口の目に留まった。
新しい術式を受けた子供が無事に退院したというニュースだった。
「どこの病院だ?」
その病院は長野県内にある県立こども病院。
「電池が切れるまで」という有名な本の舞台にもなったところだ。
山口は、すぐその場で受診の予約を入れた。
「長野の病院に行くよ」
「え? 長野? なんで?」
唐突に切り出した山口に弥生が戸惑いを見せた。
「そう。長野の病院で救命例が一件だけあったんだよ」
「ふーん……」
弥生の返事は、あまり乗り気でないように聞こえた。
すでに弥生は諦めの境地に入ってきていたからだ。
「とりあえず診てもらおう」
その病院なら子供の命を救える。
山口には根拠のない自信があった。
「勝ち目のない勝負ではありません」
長野県立こども病院の医師は超音波検査のあと、長々と病態や予想される予後について説明し、最後にこう締めくくった。
「お願いします」
山口は即答して頭を下げた。
「勝ち目のない勝負ではない」
山口には自分でも得体の知れない確信があったが、医師のこの言葉が意味するところは理解できた。
「ほぼ勝ち目はない」
ということを。
超えるべきハードルは三つ。
まず、胎児水腫となって胎内で死亡することなく出産までこぎつけること。
次に、無事出産することかでき、子供が「おぎゃー」と泣けること。つまり、自発呼吸ができること。
これらを乗り越えて初めて手術適応が検討きれることとなる。
三尖弁異形成救命例が極端に少ないのは、前者二段階のハードルを越えることができないからだ。医師が言った「勝ち目のない勝負ではない」というのは、このハードルを越えられれば、という条件付きでのことだ。
それから二人は何度住まいである千葉県と長野県を往復したことだろう。
弥生のお腹の中で子供は順調に成長した。
しかし、心臓は拡大する一方で、心不全と肺の低形成が懸念された。そのため、胎児の急変に備えて弥生は出産待機入院となった。
弥生の入完後、山口は週末ごとに長野まで通い詰めたが、それでも一人自宅を離れて遠く長野で入院生活を送る弥生は寂しさを訴えた。
この頃になり山口は一つの達観した考えに至った。
「人の命は、いつ、いかなる理由で終えることになろうとも、それが寿命なんだ」
己の力ではどうすることもできないことに対して思い悩んでも仕方ない。
誰のせいでもないものであるならば「そういうもの」と受け入れよう。
こう考えることができるようになり、山口は心の奥底に澱のように沈殿していたどろどろとした思いが浄化されるような気がした。
「お腹痛い」
ちょうど予定日の昼過ぎ。
弥生から山口のスマートフォンにメールが届いた。
それまで、前駆陣痛で何度も騙されてきた。
その都度「今度こそ」と意気込んだがお腹の張りはすうっと消失してしまった。
「今度も騙されるからまだ来なくていいよ」
前駆陣痛に疲れた弥生からは、諦めのようなメールが続いた。
「陣痛が来ました。時間休をください! 明日からの休みはあとで連絡します!」
そう上司に告げた山口は、脱兎のごとく職場を後にした。
「これは本物だ」
またしても山口は根拠のない確信を抱いた。
帰宅した山口は、着の身着のまま車に乗り込むと車車を飛び出した。
胎内で死ぬことなく出産予定日まで持ちこたえた。
次のハードルは自発呼吸だ。
なんとしても出産の瞬間には病院にいなければならない。
結果が最高でも最悪でも、いずれにしても自分の目で見届けたい。
「頼むから病院に着くまで生まれないでくれ」
ハンドルを握る山口の手が汗ばむ。
気持ちは逸るが運転は慎重にしなければならない。途中で事故にでもなったら出産立会いの機会を逃してしまう。
何度も通い慣れた高速道路が果てしなく続くような気がしてならない。
山口の車は首都高から中央高速に入り、諏訪湖を過ぎて長野道へと進む。
普段であれば途中で一、二度の休憩をはさむところだが、その日はそんな悠長なことは言っていられない。ノンストップで豊科(現安曇野)インターまで駆け抜けた。
「お待たせ!」
山口は弥生が待つ病室に笑顔で飛び込んだ。
「ほんとに来たの? まだ大丈夫だと思うよ」
呆れたように言う弥生は満面の笑みだ。
「張りは?」
「ときどき来るね。まだ間隔が空いてるし、不定期だからまた騙されるかも」
「大丈夫、今日は本物だから」
「なんで分かるの?」
「なんとなく」
「そうなんだ」
病室に柔らかい空気が漂った。
「痛い……」
弥生のお腹の張りが周期的になってきた。
「陣痛ですね。部屋を移りましよう」
診察した医師が陣痛の開始を告げた。
ついにそのときが訪れた。
ここで自発呼吸ができなければ子供の命は終わる。
「そういうもの」と事態を受け入れる覚悟をしたはずの山口にも緊張が走る。
二人は歩いて陣痛室に移った。
それに合わせて周囲がにわかに慌ただしさを増してきたのを感じた。
産科、NICU、新生児科、衛環器科、心臓血管外科といった関係するチームが一斉に動き始めたのだ。
「では分娩室へ移ります。ご主人はこちらでお待ちくたさい」
弥生が助産師に連れられて分娩室へと消えた。
分娩室の入り口が閉じられると中の音は一切外に聞こえてこない。中で何が行われているかを外にいる山口が知る術はない。
山口にできることは、ただ待つことのみ。
息苦しい孤独な時間が過ぎる。
深夜になり日付が変わった。
「予定日には生まれなかったか」
山口が時計を一瞥して独り言を呟いた直後。
「ふぎゃっ! ふぎゃっ!」
どこからともなく激しく子供が泣くような声が聞こえた。
山口がはっと顔を上げる。
「生まれた?」
山口は小首を傾げた。
分娩室の中の音は聞こえないはずだ。
しかし、今聞こえたのは間違いなく子供の泣き声だ。
その後、再び陣痛室を静寂が包み込む。
どれくらい待っただろうか。
「山口さん、生まれましたよ。女の子です。奥さんとお会いできます」
看護師が現れて山口を分娩室内に案内した。
分娩室内では、弥生が一人で分娩台に横たわっていた。
「ひとりぼっちで置いていかれちゃった」
「お疲れさま。生まれてよかったね。産声はあげた? 外に聞こえたような気がしたんたけど」
山口は弥生の手を取った。
「分かんない。聞こえなかったような気がするけど」
「そうか空耳だったのかな」
そう言いながらも山口には確信があった。
あれは娘が自分に誕生を知らせたのだと。
「私は生きてるよ」
そう教えるため、自分だけに聞かせた産声だったに違いない。
夜が明け、山口は動けるようになった弥生を車いすに乗せ、二人でNICUにいる娘と対面した。
小さなコットに寝かされた娘は、口から呼吸器が喉に入り、動脈と静脈のいずれにもラインが確保され、そこに多数の点滴がつながれていた。各種センサーにつながった計器からは電子音が鳴り響き、さながらサイボーグのメンテナンス中といった様相を呈していた。

心臓の拡大により胸郭の大部分を心臓が占め、肺はいくらも空気を吸い込めていないはすだが、間違いなくそこには生きた娘がいる。
触ることを許された娘の指は温かく命を感じることができた。
山口は、そっと人差し指を娘の手に添えた。
それまで緩く開かれていた指が力強く山口の人差し指を握った。
その力も娘から山口へのメッセージのように感じた。
山口と弥生は顔を見合わせ、無言のまま無事の誕生を喜び合った。
「勝ち目のない勝負ではない」
「勝ったんだな」
山口は医師の言葉を実現して見せた娘を讃えた。
出産に向けてカウントダウンを続けていた命が、今日からはカウントアップに変わる。
その娘は生後六日目に心臓を止め人工心肺下で行われた大手術を乗り越え、14歳の反抗期を迎えることとなった。
山口にとって娘の反抗期すら生きている証であり、貴石のような輝きを放っている。
「こんなことってあるんだね」
診察室を出た山口と妻の弥生は、会計窓口に向かう廊下で肩を並べながら力なく笑い合った。
笑ってはいるものの、二人の表情は、まるで能面のように生気を失っているように見える。
弥生は妊娠中で、在胎26週目。
つい二週間ほど前までは、わが子の成長を喜ぶごく普通のどこにでもいる妊婦だった。
その日もいつもと同じ健診が行われ、異状なしという結果が出ると思い、それ以外の可能性など考えるはずもなかった。
病院帰りに二人で食事をしようと気軽に話をする、ごく当たり前の日常だ。
照明が落とされた薄暗い診察室。弥生は診察台に横たわり、そのお腹に医師が超音波検査のプロープを当てている。
プローブの向きを何度も変えながら医師が首をひねる。
弥生も山口も医師が首をひねったことになど気がつくはずもなく、いつものように順調に育っているという診察結果を待っていた。
プローブを戻した医師が二人に向き合い姿勢を正す。
いつもにこやかに話をしてくれる医師の表情が硬い。
何事か事態を理解できていない二人も思わず背筋を伸ばして緊張の面持ちを浮かべた。
「赤ちゃんの心臓の形がちょっと気になるのよね。念のため子供の心臓を専門にする病院で診てもらった方がいいと思います」
弥生は目を丸くした。
想像もしていなかった医師の言葉に面食らったのだ。
「念のためっていうくらいだからたいしたことじゃないと思うよ」
診察室を出た山口は楽観的な見込みを口にした。
その隣で弥生は山口を見上げながら不安げな顔でお腹をさすっている。
産科で胎児の心臓が気になると告げられた二週間後、二人は都内にある心臓では国内でも有数の実績を誇る大学病院を受診した。
循環器小児科という聞きなれない診療科だった。循環器小児科は、先天性心疾患を専門とする診療科だ。
「説明の準備をしますから、待合室でお待ちください」
途中、何度かプロープを取り替えながら念入りに超音波を当てた医師が硬い表情で二人に告げた。
「大丈夫。たいしたことないよ」
山口は弥生に声をかけた。
妻を安心させようとしてのことだったが、本当は自分がそう思いたかった。
「結論から言います」
診察室に通された二人に医師が説明を始めた。
「お子さんの病名は……」
そう言いなから医師は机の上の紙にペンを走らせる。
「三尖弁異形成」
目の前の紙に仰々しい漢字が並ぶ。
見たことも聞いたこともない病名に二人は首をひねった。
怪訝な顔をする二人を前に医師は、何か意を決するかのように大きく深呼吸をした。
「お子さんの病名は『さんせんべんいけいせい』といいます。最重症です」
「はあ……」
二人には医師の口から出た言葉の意味が理解できなかった。
「三尖弁というのは、心臓の右心房と右心室を隔てている弁で、右心室から右心房に血液が逆流しないようにするためのものです」
「お子さんは、この弁をうまく作ることができず、右心室から右心房に血液が逆流しています。右心室から血液が逆流すると、その圧で右心房かどんどん拡大していくことになります。拡大した右心房は紙のようにぺらぺらに薄くなって元に戻れません」
「どんどん大きくなった右心房は肺を圧迫することになります。お腹の中にいるうちに肺が圧迫されると、赤ちゃんの肺が正常に形成されなくなります」
「この病気は、重症度によって予後が大きく違ってきます。最重症の場合、お腹の中にいるうちに心臓が弱って死んでしまいます」
山口の頭の中で「最重症」と「死」という単語が結びついた。
なおも医師は説明を続ける。
「運良く出産までこぎつけたとしても、肺が心臓で圧迫きれていますから、自発呼吸ができず生まれてすぐに亡くなってしまいます」
「ここまでの重症度のお子さんは、当院での救命例がありません」
山口の意識からは、ごっそりとリアリティが抜け落ち、医師の説明が他人事のように空しく響いた。
動揺して医師に食ってかかるような気持ちなどこれっぽっちも出ることはなかった。
「お腹の中で死んでしまう可能性が高くて、もしも生まれることができても呼吸ができずに死んでしまう可能性が高いということですか」
山口は説明を終えた医師に質問した。
質問というより、告げられた事実の要約を確認しただけといった方が正しい。
「はいそのとおりです」
落ち着いてはいるが絞り出すように答えた言葉から、医師の苦悩が山口にも伝わった。
山口の隣に座っている弥生は無表情に一点を見つめている。
よくドラマや映画で重篤な症状であることを医師から告げられた人が医師に食ってかかるシーンがあるが、あれは嘘だ。
あらゆる感情が抜け落ち、激高するような反応など起きようもない。
「こんなことってあるんだね」
説明を終えて診察室を出た二人は、どちらからともなく同じ言葉を漏らした。
自分たちの子供は、なんの問題もなく生まれてくるのが当然だと信じていた。それ以外の可能性など考えたこともない。
事実を受け入れることができるか、できないかなどという問題ではない。いや、どちらかといえば受け入れがたいのが本心だ。
しかし、それ以上に二人の頭に浮かぶのは「なぜうちが?」という疑問ばかりだった。
山口の耳に入る弥生の言葉も周りの音も、すべてが現実感を欠き、水の中で遠くの雷鳴を聞いているかのようにくぐもって響くだけだった。
現実感が抜け落ちたのは聴覚だけではない。見えている世界から彩度がなくなり、辺り一面がプルーグレイの世界に変わっていた。
「こんなことってあるんだねえ」
「なんでうちなんだろうね」
病院から帰宅する車中、二人の口から出る言葉はこの二つばかりだ。
心臓に最重症の病気を持ちながらも胎児はすくすくと成長していった。
しかし、二人とも子の成長を素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。
そればかりか、その成長ぶりが二人の心を深く抉ることになろうとは何と皮肉なことか。
「こんなに元気に動くのに生きられないんだよね」
胎動を感じ始めたお腹をさすりながら弥生がぽつりと呟く。
死に向かうであろうことがほぼ確実な命を胎内で育てなければならないということが、母親としてどれほど辛いものなのか、山口にも痛いほど伝わった。
子供服売り場に行っても手にするのは真っ白な産着だ。子供が生まれる前にその死に装束を選ぶという矛盾。
矛盾していても、それが二人にとっては現実的かつ唯一の選択肢だった。
二人は、自分たちの内で処理しきれず、受け入がたい感情を外に向けることもあった。
「あんなバカみたいな顔しているのに健康な子供を産むなんてずるい」
言いがかりもいいところで、相手には失礼極まりない感情であることは間違いないが、二人の偽らざる気持ちでもあった。二人は世間のあらゆるものを呪った。
気丈に振る舞っているものの、弥生からは日に日に笑顔が少なくなっていった。
一方、山口は密かに子供の病気と闘う道を探っていた。
先天性心疾患に関する専門書を買い求めて病態について学んだ。そして、病名は違うが同じ病態を現す病気で数年前に新しい術式が考案され、救命例が報告されるようになっていることを知った。
「これなら生かせる」
山口は新しい術式に一条の光明を見た。
その日から山口の闘いが始まった。
国内でこの術式を使った救命例がある病院を探す。
「あった!!」
山口は思わす声を上けた。
インターネットを検索していると一件のニュースが山口の目に留まった。
新しい術式を受けた子供が無事に退院したというニュースだった。
「どこの病院だ?」
その病院は長野県内にある県立こども病院。
「電池が切れるまで」という有名な本の舞台にもなったところだ。
山口は、すぐその場で受診の予約を入れた。
「長野の病院に行くよ」
「え? 長野? なんで?」
唐突に切り出した山口に弥生が戸惑いを見せた。
「そう。長野の病院で救命例が一件だけあったんだよ」
「ふーん……」
弥生の返事は、あまり乗り気でないように聞こえた。
すでに弥生は諦めの境地に入ってきていたからだ。
「とりあえず診てもらおう」
その病院なら子供の命を救える。
山口には根拠のない自信があった。
「勝ち目のない勝負ではありません」
長野県立こども病院の医師は超音波検査のあと、長々と病態や予想される予後について説明し、最後にこう締めくくった。
「お願いします」
山口は即答して頭を下げた。
「勝ち目のない勝負ではない」
山口には自分でも得体の知れない確信があったが、医師のこの言葉が意味するところは理解できた。
「ほぼ勝ち目はない」
ということを。
超えるべきハードルは三つ。
まず、胎児水腫となって胎内で死亡することなく出産までこぎつけること。
次に、無事出産することかでき、子供が「おぎゃー」と泣けること。つまり、自発呼吸ができること。
これらを乗り越えて初めて手術適応が検討きれることとなる。
三尖弁異形成救命例が極端に少ないのは、前者二段階のハードルを越えることができないからだ。医師が言った「勝ち目のない勝負ではない」というのは、このハードルを越えられれば、という条件付きでのことだ。
それから二人は何度住まいである千葉県と長野県を往復したことだろう。
弥生のお腹の中で子供は順調に成長した。
しかし、心臓は拡大する一方で、心不全と肺の低形成が懸念された。そのため、胎児の急変に備えて弥生は出産待機入院となった。
弥生の入完後、山口は週末ごとに長野まで通い詰めたが、それでも一人自宅を離れて遠く長野で入院生活を送る弥生は寂しさを訴えた。
この頃になり山口は一つの達観した考えに至った。
「人の命は、いつ、いかなる理由で終えることになろうとも、それが寿命なんだ」
己の力ではどうすることもできないことに対して思い悩んでも仕方ない。
誰のせいでもないものであるならば「そういうもの」と受け入れよう。
こう考えることができるようになり、山口は心の奥底に澱のように沈殿していたどろどろとした思いが浄化されるような気がした。
「お腹痛い」
ちょうど予定日の昼過ぎ。
弥生から山口のスマートフォンにメールが届いた。
それまで、前駆陣痛で何度も騙されてきた。
その都度「今度こそ」と意気込んだがお腹の張りはすうっと消失してしまった。
「今度も騙されるからまだ来なくていいよ」
前駆陣痛に疲れた弥生からは、諦めのようなメールが続いた。
「陣痛が来ました。時間休をください! 明日からの休みはあとで連絡します!」
そう上司に告げた山口は、脱兎のごとく職場を後にした。
「これは本物だ」
またしても山口は根拠のない確信を抱いた。
帰宅した山口は、着の身着のまま車に乗り込むと車車を飛び出した。
胎内で死ぬことなく出産予定日まで持ちこたえた。
次のハードルは自発呼吸だ。
なんとしても出産の瞬間には病院にいなければならない。
結果が最高でも最悪でも、いずれにしても自分の目で見届けたい。
「頼むから病院に着くまで生まれないでくれ」
ハンドルを握る山口の手が汗ばむ。
気持ちは逸るが運転は慎重にしなければならない。途中で事故にでもなったら出産立会いの機会を逃してしまう。
何度も通い慣れた高速道路が果てしなく続くような気がしてならない。
山口の車は首都高から中央高速に入り、諏訪湖を過ぎて長野道へと進む。
普段であれば途中で一、二度の休憩をはさむところだが、その日はそんな悠長なことは言っていられない。ノンストップで豊科(現安曇野)インターまで駆け抜けた。
「お待たせ!」
山口は弥生が待つ病室に笑顔で飛び込んだ。
「ほんとに来たの? まだ大丈夫だと思うよ」
呆れたように言う弥生は満面の笑みだ。
「張りは?」
「ときどき来るね。まだ間隔が空いてるし、不定期だからまた騙されるかも」
「大丈夫、今日は本物だから」
「なんで分かるの?」
「なんとなく」
「そうなんだ」
病室に柔らかい空気が漂った。
「痛い……」
弥生のお腹の張りが周期的になってきた。
「陣痛ですね。部屋を移りましよう」
診察した医師が陣痛の開始を告げた。
ついにそのときが訪れた。
ここで自発呼吸ができなければ子供の命は終わる。
「そういうもの」と事態を受け入れる覚悟をしたはずの山口にも緊張が走る。
二人は歩いて陣痛室に移った。
それに合わせて周囲がにわかに慌ただしさを増してきたのを感じた。
産科、NICU、新生児科、衛環器科、心臓血管外科といった関係するチームが一斉に動き始めたのだ。
「では分娩室へ移ります。ご主人はこちらでお待ちくたさい」
弥生が助産師に連れられて分娩室へと消えた。
分娩室の入り口が閉じられると中の音は一切外に聞こえてこない。中で何が行われているかを外にいる山口が知る術はない。
山口にできることは、ただ待つことのみ。
息苦しい孤独な時間が過ぎる。
深夜になり日付が変わった。
「予定日には生まれなかったか」
山口が時計を一瞥して独り言を呟いた直後。
「ふぎゃっ! ふぎゃっ!」
どこからともなく激しく子供が泣くような声が聞こえた。
山口がはっと顔を上げる。
「生まれた?」
山口は小首を傾げた。
分娩室の中の音は聞こえないはずだ。
しかし、今聞こえたのは間違いなく子供の泣き声だ。
その後、再び陣痛室を静寂が包み込む。
どれくらい待っただろうか。
「山口さん、生まれましたよ。女の子です。奥さんとお会いできます」
看護師が現れて山口を分娩室内に案内した。
分娩室内では、弥生が一人で分娩台に横たわっていた。
「ひとりぼっちで置いていかれちゃった」
「お疲れさま。生まれてよかったね。産声はあげた? 外に聞こえたような気がしたんたけど」
山口は弥生の手を取った。
「分かんない。聞こえなかったような気がするけど」
「そうか空耳だったのかな」
そう言いながらも山口には確信があった。
あれは娘が自分に誕生を知らせたのだと。
「私は生きてるよ」
そう教えるため、自分だけに聞かせた産声だったに違いない。
夜が明け、山口は動けるようになった弥生を車いすに乗せ、二人でNICUにいる娘と対面した。
小さなコットに寝かされた娘は、口から呼吸器が喉に入り、動脈と静脈のいずれにもラインが確保され、そこに多数の点滴がつながれていた。各種センサーにつながった計器からは電子音が鳴り響き、さながらサイボーグのメンテナンス中といった様相を呈していた。

心臓の拡大により胸郭の大部分を心臓が占め、肺はいくらも空気を吸い込めていないはすだが、間違いなくそこには生きた娘がいる。
触ることを許された娘の指は温かく命を感じることができた。
山口は、そっと人差し指を娘の手に添えた。
それまで緩く開かれていた指が力強く山口の人差し指を握った。
その力も娘から山口へのメッセージのように感じた。
山口と弥生は顔を見合わせ、無言のまま無事の誕生を喜び合った。
「勝ち目のない勝負ではない」
「勝ったんだな」
山口は医師の言葉を実現して見せた娘を讃えた。
出産に向けてカウントダウンを続けていた命が、今日からはカウントアップに変わる。
その娘は生後六日目に心臓を止め人工心肺下で行われた大手術を乗り越え、14歳の反抗期を迎えることとなった。
山口にとって娘の反抗期すら生きている証であり、貴石のような輝きを放っている。
合同会社デジタル鑑識研究所です。
科捜研にあこがれて略称を「デジ鑑研」にしました。
科捜研にあこがれて略称を「デジ鑑研」にしました。
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