日録3月21日
公開 2026/03/21 21:11
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1907年3月21日 明治40年
「小学校令」改正。尋常小学校が6年、高等小学校が2年または3年に

1909年3月21日 明治42年
神戸~大阪間の長距離レースに日本で初めて「マラソン」の名称が使われる

1918年3月21日 大正7年
第一次大戦で、ドイツ軍が巨大大砲「パリ砲」によるパリへの砲撃を開始。当時のドイツ皇帝の名から、ヴィルヘルム砲とも呼ばれる。空気の薄い上空にまで砲弾を打ち上げると、空気抵抗の影響を受けないことから射程が驚異的に伸びることに着目して開発された。
最初の発射は1918年3月21日午前7時18分、北緯49度5分から西南西の方位角232度に向け発射された。通常の砲弾の射程にドイツ軍がいなかったため、最初フランス側では航空機からの爆弾投下と考えたが飛行機を見た者はなく、集められた破片により、砲撃だと判明した。全体でおそらく320 - 367発の砲弾が発射され、250名が死亡し620名が負傷、家屋などにも相当の被害が出た。

1921年3月21日 大正9年 月
田中義一陸相が小田原古稀庵の山県有朋を訪問。原敬首相と田中陸相が山県を支援することを伝えた。当時山県は宮中某重大事件により小田原で自ら謹慎し窮地に陥っていたが,原の支援メッセージで大いに勇気づけられ,また原を高く評価し,また頼るようになる。
IOCのオリンピックで女子の陸上競技が種目にないことへの抗議として、モンテカルロで第1回国際女子体育・スポーツ大会(女子オリンピック)が開幕
ソ連で新経済政策「ネップ」が施行

1923年3月21日 大正12年 水
蟹工船「吉野山丸」と「美保丸」が小樽港を出航。4月10日にソ連に拿捕され責任者の安部金之助と中川重剛がサマルガ島で逮捕拘留された。当時は輸出用蟹缶詰を製造する蟹工船が多く運航。小林多喜二(19)は当年小樽高等商業学校(現小樽商科大)2年生だった。

1925年3月21日 大正14年 水曜
【内 閣】
総理 加藤高明/外務 幣原喜重郎/内務 若槻礼次郎/大蔵 濱口雄幸/陸軍 宇垣一成/海軍 財部彪/司法 横田千之助/文部 岡田良平/農商務 高橋是清/逓信 犬養毅/鉄道 仙石貢/内閣書記官長 江木翼/法制局長官 塚本清治
【元 老】
西園寺公望
【宮中主要官】
内大臣 平田東助/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 浜尾新/枢密院副議長 一木喜徳郎
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 白川義則/軍務局長 畑英太郎/参謀総長 河合操/参謀次長 武藤信義/教育総監 大庭二郎
[海 軍]
海軍次官 岡田啓介/軍令部総長 山下源太郎
【植民地高官】
朝鮮総督 斎藤実/台湾総督 内田嘉吉/関東長官 児玉秀雄/樺太庁長官 永井金次部/南洋庁長官 横田郷助
【東 京】
府知事 宇佐美勝夫/市長 中村是公
馬場源八郎が日本で初めてグライダーを製作し初飛行。

1927年3月21日 昭和2年
【内 閣】
第1次若槻礼次郎内閣
総理 若槻礼次郎/外務 幣原喜重郎/内務 若槻礼次郎/大蔵 片岡直温/陸軍 宇垣一成/海軍 財部彪/司法 江木翼/文部 岡田良平/農林 早速整爾/商工 藤澤幾之輔/逓信 安達謙藏/鉄道 井上匡四郎/内閣書記官長 塚本清治/法制局長官 山川端夫
【元 老】
西園寺公望
【宮中主要官】
内大臣 平田東助/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 浜尾新/枢密院副議長 一木喜徳郎
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 白川義則/軍務局長 畑英太郎/参謀総長 河合操/参謀次長 武藤信義/教育総監 大庭二郎
[海 軍]
海軍次官 岡田啓介/軍令部総長 山下源太郎
【植民地高官】
朝鮮総督 斎藤実/台湾総督 内田嘉吉/関東長官 児玉秀雄/樺太庁長官 永井金次部/南洋庁長官 横田郷助
満鉄社長 安広伴一郎
【東 京】
府知事 宇佐美勝夫/市長 中村是公
【国際連盟】
事務総長 ジェームズ・ドラモンド (第7代パース伯爵=英)
上海総工会、武装蜂起して直魯連合軍を駆逐し国民革命軍を迎える。
日本銀行、祭日臨時営業。市中銀行に非常貸出を実施。3月23日までに約6億円。

1934年3月21日 昭和9年
東京都文京区春日に講道館が落成
函館大火。市街の大半・23600戸焼失、死者2166人

1935年3月21日 昭和10年
ペルシャが国号をイランに改称
無期徴役囚・吉田石松が23年ぶりに仮出獄し、再審請求を開始。「昭和の巌窟王」と呼ばれる

1945年3月21日 昭和20年
海軍所属第1神雷攻撃隊 菊水銀河隊特攻出撃(台湾・硫黄島・ウルシー)。一式陸18・桜花15 銀河15機未帰還。

1964年3月21日 昭和39年
駐日アメリカ大使ライシャワーが日本人少年に刺され負傷。このときの輸血が元で肝炎を発症
エドウィン・オールドファザー・ライシャワーは、アメリカ合衆国の東洋史研究者、ハーバード大学教授。 1955年から1963年までハーバード燕京研究所所長を務める。1961年から1966年まで、駐日アメリカ合衆国大使を務める。大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として歴史に限らず日本研究を推し進め、後進の指導にも尽力した。その功績から同研究所は1985年(昭和60年)にライシャワー日本研究所と改称されている。1981年(昭和56年)4月22日のハーバード大学での最終講義では「私がここに初めて来たとき、東アジア研究に興味を持っていた大学院生は2人しかいなかった。私と兄だ」と往時を回顧している。日本語、中国語に堪能。

1967年3月21日 昭和42年
ストックホルムオリンピックのマラソン競技を途中棄権した金栗四三が、大会55周年の記念式典に招待され、用意されたゴールテープを切る。「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって全日程を終了します」とアナウンスされた。
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1922年3月22日 大正11年 水 大正天皇侍従長に徳川達孝(さとたか)次長が昇任。また侍従次長に小早川四郎が就任した。前年11月…
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