感じていた疎外感、劣等感
公開 2025/09/08 05:58
最終更新
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さっきの日記に地続きというかな内容になるのだけど、
昔にされた、『仲間外れ』とか、『イジメ』とか、そういうものが私の中に湧いたこの気持ちの元凶ではあったのだと思う。
多分めっちゃ傷付いていたんだろうね。
そして真に受けまくったんだと思う。
正しさがよく分からないというか、「空気を読めていないんだな、私は」と思って、自らを傷付け続けながら『学習した』こと。
それが疎外感だった。のかなぁ?
私が疎外感を受けていたものっていうのはかなり重度で、自分のその重症具合に気付いたのは、『好きな人の生放送にどうしても参加ができない』というものでした。
「皆が楽しみにしているのに生放送に私なんかが行っちゃいけない」
「だって私は誘われていないんだから」
「私は呼ばれていないってことなんだから」
こう思って、行きたいのに行けない自分に気付いたとき。
「リアルタイムで参加するという状態は許されるわけがない、異常に怖い」そう思っていて、生放送のリアタイ視聴ができなかったんだってことに気が付いたとき。
単なる動画サイトで行われている生放送だよ?
私が行こうが行くまいが何も変わらないんだよ?
別にコメントするわけでもなく放送を画面で見るだけだよ?
だけど、私はそれを許されていない気持ちになっていたの。
今までも、疎外感から参加しているコミュニティと疎遠になることは少なくなかった。
約束していた遊びの誘いにさえ、わざと遅刻したこともよくあった。
皆がわいわい楽しんでいると、段々と輪の中には入れなくなった。
そんな風に日数を重ねて行けば、顔を出すことさえやりづらくなる。
自分でも、この消極的な気持ちがどうして起こるのかが分からなかった。
拗ねるような気持ちになるたびに、「どうせ行っちゃダメだもん」と思うことでその場その場を済ませては来たけれど、何度も直面する気持ちがそれでは解決にはならないことを思い知らせた。
これまでは、問題として起こすこともできない、向き合うところまで振り分けられなかったこの感覚なんですけど、好きな人の活動を拗ねてマトモに追えなくなるとまでなったときに、初めて自分の中でちゃんと疑問になったというか。
「…何で拗ねるんだろう?」って。なった。
「許されていないから駄目」ってなに?って。
だってブロックされているとかなら問題だけど(それはちゃんと自分の罪に向き合えさすがに)、誘われるも糞もねぇだろ、投稿者の思い立った生放送開催の告知なんて。
その辺の公園で、「今から紙芝居を始めるから今いる子供たち寄っといで〜」でしかねーんだよ。
だから、「私、変だよな?」って思って、それで疎外感を感じているって気が付いて……。
『活動者が生放送をすること』にブロックされているとかでもない参加自由側の視聴者が疎外感を受けるって感情がおかしいじゃん。
そう、それで、今まで、私が他人との関わりを持つことに物凄く消極的だったことや、リセット癖があることの根本の問題に気付いたんですよ。
だから私は今コミュニティ参加が平気になったみたいですね。
人と喋るのを段々と平気になってきてて。
今まで煙たかった人のことも、接していてあまり苛々しないなーって思っている自分に気付きました。
何かね、境界線の引き方が分かってきた感じがあるんですよ。
いちいち「それ好きじゃない」とか言おうとしなくて良い、『まともに相手しなくても良いこと』を知ったような感じ。
なんだっけな、「相手に自分を知ろうとしてもらう必要なんかないんだよ」って言葉。
それを実践し始めたら、境界線が勝手に引けたような感じがあります。
で、やっていたら疎外感も薄れた感じなんですよね。
文章だけでは脈絡なくて結び付かないかもですけど。
昔にされた、『仲間外れ』とか、『イジメ』とか、そういうものが私の中に湧いたこの気持ちの元凶ではあったのだと思う。
多分めっちゃ傷付いていたんだろうね。
そして真に受けまくったんだと思う。
正しさがよく分からないというか、「空気を読めていないんだな、私は」と思って、自らを傷付け続けながら『学習した』こと。
それが疎外感だった。のかなぁ?
私が疎外感を受けていたものっていうのはかなり重度で、自分のその重症具合に気付いたのは、『好きな人の生放送にどうしても参加ができない』というものでした。
「皆が楽しみにしているのに生放送に私なんかが行っちゃいけない」
「だって私は誘われていないんだから」
「私は呼ばれていないってことなんだから」
こう思って、行きたいのに行けない自分に気付いたとき。
「リアルタイムで参加するという状態は許されるわけがない、異常に怖い」そう思っていて、生放送のリアタイ視聴ができなかったんだってことに気が付いたとき。
単なる動画サイトで行われている生放送だよ?
私が行こうが行くまいが何も変わらないんだよ?
別にコメントするわけでもなく放送を画面で見るだけだよ?
だけど、私はそれを許されていない気持ちになっていたの。
今までも、疎外感から参加しているコミュニティと疎遠になることは少なくなかった。
約束していた遊びの誘いにさえ、わざと遅刻したこともよくあった。
皆がわいわい楽しんでいると、段々と輪の中には入れなくなった。
そんな風に日数を重ねて行けば、顔を出すことさえやりづらくなる。
自分でも、この消極的な気持ちがどうして起こるのかが分からなかった。
拗ねるような気持ちになるたびに、「どうせ行っちゃダメだもん」と思うことでその場その場を済ませては来たけれど、何度も直面する気持ちがそれでは解決にはならないことを思い知らせた。
これまでは、問題として起こすこともできない、向き合うところまで振り分けられなかったこの感覚なんですけど、好きな人の活動を拗ねてマトモに追えなくなるとまでなったときに、初めて自分の中でちゃんと疑問になったというか。
「…何で拗ねるんだろう?」って。なった。
「許されていないから駄目」ってなに?って。
だってブロックされているとかなら問題だけど(それはちゃんと自分の罪に向き合えさすがに)、誘われるも糞もねぇだろ、投稿者の思い立った生放送開催の告知なんて。
その辺の公園で、「今から紙芝居を始めるから今いる子供たち寄っといで〜」でしかねーんだよ。
だから、「私、変だよな?」って思って、それで疎外感を感じているって気が付いて……。
『活動者が生放送をすること』にブロックされているとかでもない参加自由側の視聴者が疎外感を受けるって感情がおかしいじゃん。
そう、それで、今まで、私が他人との関わりを持つことに物凄く消極的だったことや、リセット癖があることの根本の問題に気付いたんですよ。
だから私は今コミュニティ参加が平気になったみたいですね。
人と喋るのを段々と平気になってきてて。
今まで煙たかった人のことも、接していてあまり苛々しないなーって思っている自分に気付きました。
何かね、境界線の引き方が分かってきた感じがあるんですよ。
いちいち「それ好きじゃない」とか言おうとしなくて良い、『まともに相手しなくても良いこと』を知ったような感じ。
なんだっけな、「相手に自分を知ろうとしてもらう必要なんかないんだよ」って言葉。
それを実践し始めたら、境界線が勝手に引けたような感じがあります。
で、やっていたら疎外感も薄れた感じなんですよね。
文章だけでは脈絡なくて結び付かないかもですけど。
