古書者蒙昧録 其の三十 フランケンシュタイン(2)
公開 2023/09/19 23:57
最終更新 -


「あの映画を観るとメアリーが怪物を創造した理由が判るような気がしますね」
 黒衣の娘は『ゴシック』の話をしている。彼女は古い怪奇映画や血なまぐさい映画にめっぽう詳しい。だからぼくがふった「フランケンシュタイン」のネタに、すぐさまケン・ラッセル監督の映画で切り返してきたのだった。
 黒衣の娘はいつでも会葬者のようなきちんとした黒い服を着ている。真夏の馬鹿げた暑さの中でも、釦を襟元までしっかりととめている。霊園を散策するのが好きなのだそうだ。そのスタイルならば怪しむ者はいないだろう、誰が見ても墓参者だ。すべての死者を弔う娘――。
 ずっと昔、ぼくも『ゴシック』を観た。それはこんな実話をもとにした映画だ。

 一八一六年の夏、スイスのレマン湖畔の邸に数名の男女が集まった。詩人のバイロン、シェリー、メアリー、バイロンの主治医ポリドリ、メアリーの異母妹クレア。メアリーは妻子のあるシェリーと駆け落ちをしてきたのだった。
 雨が長く降り続いていた。一行は屋外に出ることができず退屈していた。怪談本の読み聞かせをしているうち、バイロンが「皆でひとつずつ怪談を書いてみないか」と提案した。この時メアリーが書き始めたのが『フランケンシュタイン』だった。

 ケン・ラッセル監督はこの文学史上の大事件を、悪趣味とも言える独特の意匠を駆使して描出している。ぼくはこの映画を観て、秘匿された創作裏話を垣間見たように思った。作品誕生の背後には、複数の才能が出会い交錯する、なにか運命的な一瞬があったのか、と。
 だがその後『フランケンシュタイン』を読み、ぼくはこの「裏話」が秘密でもなんでもなかったことを知る。そもそも『フランケンシュタイン』原著初版の「序」で、執筆の契機は簡潔に記されている。また一八三一年の改版で新たに加えられたメアリー・シェリー名義の「まえがき」には、レマン湖畔での経緯がより詳細に語られている。なんのことはない、「湖畔の一夜」はとうに公開済み、読者には周知の事実だったのである。
 ところが角川文庫版『フランケンシュタイン』では、この重要な「序」と「まえがき」が訳出されていないのである。本来ならば物語とセットにして読まれるべきメアリーの文章を、戦後長きに渡って日本の読者は知らずにいたのだった。不幸である。(創元推理文庫版には収録されている。)
 そしてこの「まえがき」はもう一つ重要な意味を持っている。夫のシェリーが亡くなってから9年後に書かれた「まえがき」の末尾で、メアリーは次のような衝撃的な事実を、作品の秘密の一つを明かした。
《記憶にあるかぎり、序文はそっくり夫の手になるものである。》
 即ち、一八一八年に匿名で発表された『フランケンシュタイン』の「序」は、詩人のシェリーによって書かれたものだった。だからしばしば見受けられる『フランケンシュタイン』の著者がシェリーだという誤解は、部分的には正しいのである。死体のパーツを集めて造られた怪物の身体に無数の縫合痕があるように、『フランケンシュタイン』という作品自体にも、メアリーとシェリーの才能が結合する不可視の縫合痕があったのである。
 興味深いことに、レマン湖畔の邂逅の成果であるもう一つの作品『吸血鬼』も、誤解された作者のエピソードを持っている。『吸血鬼』はバイロンが執筆中途で投げ出した構想をポリドリが引き継いで完成させたものだったが、バイロンの作品と宣伝され、それ故に好評を博してよく売れたのだった。この小説は吸血鬼物の先駆と言われている。
 思えばその後の膨大な作品の源泉となった「フランケンシュタイン(人造人間)」と「吸血鬼」という二大テーマが、同じ時、同じ場所で生まれていたのもなにかの因縁だろうか。

 黒衣の娘は『ゴシック』の話を続ける。
「昼間は怪物は出ないから大丈夫だ、というおしまいのほうのセリフには苦笑しました」 ひんやりとした口調で彼女は言った。
 なるほど、とぼくは思った。ボリス・カーロフの映画『フランケンシュタイン』では、真昼の陽光が燦々と降りそそぐ中で、村の幼い娘がフランケンシュタインの怪物に湖に投げ込まれて溺死させられるのである。ただ一人怪物を恐れなかった、怪物を嫌悪しなかった無邪気な少女を――。

 一八一六年、メアリーが『フランケンシュタイン』を執筆しているさなか、シェリーの妻(前妻)ハリエットはハイドパークのサーペンタイン湖へ身を投げて自殺した。一八二二年、『フランケンシュタイン』の誕生に密かに関わったシェリーは、イタリアの海で溺死した。メアリー・シェリーは一八五一年、永眠した。五十三歳だった。(あと一回続く)
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