誰も知らない現世を生きる二人の幽霊 第五章 離れて重なる世界はどこへ向かうのか
公開 2026/06/26 13:16
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第一節 さよなら、夢見る人形の心
意識が生まれる前、小さな遺伝子の時点で優秀じゃなかったらここにいなかったのに。目覚めた意味を不明にしたまま、生き続けた日々は無いものと変わらない。この命はどうして私のものになってしまったのだろう。考えても答えはどこにもないけれど、消える決断をしたあの日を後悔することはない。「あの子」が生きていれば、私の存在など最初からいなかったと認識してくれさえすれば、それだけで十分なのだから。
血だまりだけが残ったあの世界はカラスがずっと見ていた。招いたカラスが「あの子」を見ていた。けれどそれはすぐにやめて飛び去った。遠く見えなくなった空の先、裏世界へと繋がった渦へと消えた。願いの代わりに消えた存在を誰もは認識しない。それでも残り火は当たってしまった記憶を映し出した。それが運悪く「あの子」に与えられただけ。忘れてほしいと願ったはずの人物に覚えられてしまうなんてあまりにも残酷だった。
空っぽの器を、偽りの人形を死した「あの子」のもとへ送った。最初から記憶のない人形は傷だらけの体の意味を知らない。置いてあるだけの人形だった。けれど「あの子」が渡り歩いた『誰も知らない現世』は長い時間が経っていた。その間に人形は「少女」を呼び覚ますように意識が芽生えた。そして残された欠片があの出会いを引き起こし、何度の夜を繰り返してもかの者は合いに来た。
けれど「あの子」と出会うことは許されない。朝と夜の境界線でかすかな姿を認識できたとして、すべてを取り戻すことは出来ないはずなのだから。
第二節 クラゲと貝殻と海の記憶
薄暗さは風のように過ぎ去って、太陽の光が隠れていた雲から現れて挨拶した。朝の光が少しずつ傾くのも忘れて、生い茂っていた森の葉を通り抜けるような眩しさがそこにはあった。
陽光(ようこう)の幽霊 リフォには生前の記憶の一部が歪んでいる。空白の人物と呼んでいる謎の存在を探して見つけるために、この世界を歩いて聞き込みを続けていた。しかしめぼしい情報はなく、時には彼女だけの妄想だと言われたこともある。それでも行く先々で生前の記憶と重なり合った場所において、その空白の人物は顔を隠して現れてはリフォを苦しめていた。
快晴の空を反射して映した海は青く澄んでいた。風に吹かれて砂浜を濡らした波は白く光り輝いていた。近くにはゴミ捨て禁止の看板が立ててあったが、その絵は掠れてホラーじみたものになりかけていた。
生前、似たような海を見たことがある。しかしそこは多くの人で賑わい、浮き輪やボートなどが浮かんでいた。海に入って足がつかなくなるのを怖がらず、少しだけ遠くに泳いだこともあった。溺れることなく泳ぎきって海から上がろうとした時、止まっていた数分の間にクラゲがいて刺さっていた。そしてそれは漂う空白の人物も襲われていた。
『止まっていたら刺されるから気をつけてね』
誰からそう言われていたのを思い出したが、時すでに遅くて痛みを感じ始めると気になって、忘れたくとも嫌なものへと変わっていった。
何度か海には行った。そのたびにクラゲに刺されるのは空白の人物ばかりだった。止まっている時間はあまり変わらないはずなのに、どうしても刺されて嫌になって海を静かに眺めている方が良いと言った気がした。
その空白の人物の表情は黒い砂嵐に覆われて何も見えない。そして記憶の再生が終わったかのように誰もいない砂浜の海へと戻っていた。リフォは波から少し離れた砂浜を歩いていた。ふと白い貝殻が落ちていてしゃがむと砂嵐に紛れて、似たものをどこかで、誰かの手の上に乗っている映像が流れた。
「知っている……けどわからない」
そう呟いたリフォは再び海の方を見ていた。快晴だと思っていた空は少しずつ雲が多くなっていた。それはたまに大量の光を隠すような動きをして、うっすらと影が生まれていた。けれど日陰にならない程度の時間じゃ涼むことも出来なかった。
第三節 月夜に映る蛍の温かさ
長い夕日が傾き、夜となった時には次の朝が見え隠れしていた。そんな夜の短い季節に小さな光が浮かんでいた。それは彼女と出会う前、空夜(くうや)が帰り道の川で見た不思議な光だった。住宅地の電気が消灯して何も見えなくなった夜の川に温かな光は飛び、小さな点滅は静かな夜を包み込んでいた。ふとそのことを思い出し、夜になったら彼女とともに見に行こうと思った。
夜の空、暗い森の中、目を覚ますのはいつものこと。右目には包帯が巻かれてそれを解いても何も無い暗闇が広がっていた。体の傷が癒えることはなく、その包帯は足の先まで続いていた。白いワンピースの端は少し血に染まって赤くなったり、土に汚れてしまったりしたが、次の夜が来た時には何事もなく白に戻っていた。陰影(いんえい)の幽霊 ルティには生前の記憶がなく、自分の名前以外何も思い出せない状態だった。
「……ここにいたか」
「空夜」
ルティは顔を上げてその声の方を見て、その場に立っている者の名前を呼んだ。月の光に照らされてその姿は現れた。空夜と呼ばれた山に住む妖怪と出会い、ルティは何もなかったところから少しだけ取り戻していた。それが記憶なのかはいまだにわからないまま。
「蛍を見に行かないか?」
「ほたる?」
「あっ、そっか、わからないか」
「……」
「……動きが速いな」
「何の?」
「夏は夜が短いから、月の落ちるのが速いなって」
「……ほたる? はどこにいるの?」
「少し遠い川にいる。だから歩いて間に合うかどうか」
「……わからないけど見てみたい」
「じゃあ、行こう」
空夜の手を取ってルティは立ち上がったが、包帯から滲み出た血が彼の目に留まり、歩かせるのは厳しいなと思わせた。「やっぱり」と呟いて空夜はルティに、おんぶするからと合図を出し、彼女が背に乗ったことを確認すると支えて立った。そしてあまり振動を立てないように森の中を走っていたかと思えば、いつの間にか道路の方に出ていて川が見えてきた。速さを緩めてゆっくりと辿り着いた川には小さな光が飛び始めていた。
「……よかった。間に合った」
「あれが……」
「そう、蛍。よどみがない綺麗な水の場所でなければ見ることが出来ないんだ」
「じゃあこの川は」
「そういう川ってことだ。でも前とは違って数が多いような」
「前?」
「ルティと出会う前の話だ。あの頃は街灯が多くて、川の近くも明るかったから。でも今は廃れて光という光は弱まった電灯と星くらいか」
「そうなんだ。あっ、手に止まった」
「珍しいな」
「……もしかして虫なの?」
「そうだが」
「……」
「怖いか」
「蛍……は怖くない。少し前に目の前を飛んできた虫は怖かった」
「あー、あれか。すぐに俺が退治したやつな。目の前に飛んでくんなって感じだけど」
そう話しながら川が続く限り、小さな蛍は二人を照らすように舞っていた。わからなくても楽しそうにしているルティを見ているだけで、空夜はホッとしていた。しかし蛍の光が徐々に少なくなって、夜が沈み朝が取り込もうとしていた時、ルティは空夜に言った。
「ねぇ」
「どうした?」
「いつか蝶も見てみたい。空夜が見せてくれた綺麗な白の」
「……飛ばないんだよ」
「え?」
「蝶っていうのは朝にしか飛ばないんだ。夜は飛ばずに眠っているから」
「……写真が明るかったのは」
「偶然じゃなくて必然……だから見せられない」
「そっか」
ルティは悲しそうな顔をして空夜は「ごめん」と呟いたが、彼は何かを思い出して彼女に伝えようとした時、ルティの姿は朝日に包まれていなくなっていた。
第四節 夏祭りの夕暮れ
長引く暑さは秋との境界線を奪おうとしていた。涼しい風が舞うようなそんな季節はなかったと感じてしまうほどに。過ぎ去った車の後に流れた風は冷たく感じても、すぐに暑さが戻ってそれを繰り返していた。かつて動いていた電光掲示板には夏になると多くの広告の中に夏祭りのお知らせが組み込まれていたことがある。陽光の幽霊 リフォも生前の記憶の中で見た気がした。
小さな漁港と広い公園が繋がっている場所、そこで毎年夏祭りが行われていた。多くの人で賑わい、長く続く道には屋台が並び、ステージでは知らないお笑い芸人がいた。
「わーい! あのりんご飴ほしい」
「……私はいらない」
「なんで? 食べようよ」
「……」
「リフォ……?」
「帰りたい」
「ねぇ」
「聞きたくない」
「どうしたの?」
低空飛行で浮かんでいたクラールはリフォのことを知りたくてやってきた天使だったが、悩みごとの多い彼女と違って、好奇心旺盛で無邪気な幼い子供のような子だった。地上のことは何も知らずリフォを探してついてきたが、彼女の中にある空白の人物にも興味を持ち、いつか会ってみたいと思うようになっていた。
しかし夏祭り会場に入る前からリフォは嫌な顔をしていた。楽しい、と教えてくれたはずなのに、ステージには目もくれず屋台の方へ歩いていた。
「……もう十分でしょ。ここはそれだけだから」
「どうして」
「どうしてって……あっ」
「これ……聞いたことある! 楽器の音だ」
「あ……ずっとやっているんだ。吹奏楽部の演奏会」
「ねぇ! 行こうよ!」
「……わかった」
リフォは相変わらず乗り気ではなかったが、クラールが引っ張って行こうとするから仕方なくで動いていた。すっからかんだった客席のパイプ椅子は満席になって、吹奏楽部の小さな演奏会を聞いていた。二人は最後席の後ろで立って聞いていた。知らない曲が流れているがクラールは楽しそうに体を揺らしていた。
それは毎年のことだった。夏祭りが近くなると吹奏楽部はそのための練習をする。リフォも生前その中にいた。そしてある年には空白の人物もいた。楽譜の読み方に苦労しながら練習を繰り返し、本番に臨んでいた。小さなステージにぎゅうぎゅうになりながら演奏するため、冷房が効いているとはいえ暑すぎてつらかった。
「……そうだ」
「?」
リフォは何かを呟いていたが、クラールは演奏の音で何も聞こえなかった。彼女はステージ側に手を伸ばし、何かの楽器を隠すように覆っていた。
演奏会は終わって次の催し物に変わる時、満席だったパイプ椅子はまたすっからかんになって、クラールは「楽しかったね」と言ったが、リフォは何も言わなかった。そのまま二人は出口に向かっていたが、その道の近くに置かれていた看板に『夜には花火大会もあるよ!!』と書いてあり、クラールはそれを見つけて「ねぇねぇ」とリフォを引っ張っていた。
「私は見れないよ」
「え? あっ……そっか」
「見たいの?」
「うん」
「……静かできれいに見える場所があるけど……間に合うかな」
リフォは太陽の動きを見ながらクラールをその場所に案内することにした。夏の時間は長いが、橙から藍色に変わるのは短いから油断していると途中になるかもしれない。だからリフォは少し急ぎ目に照りつく太陽の中、歩いていた。
第五節 夏の終わりに咲く夜空の花
昼間の暑さは遠くに消えて、静かに暗くなった空は涼しい風とともに小さな星を流していた。しかしその星はうっすら浮かんだ雲によって覆い隠されて、その目に映るには少々輝きを失っていた。夏の暑さをしのぐ自然の影に紛れて、陰影の幽霊 ルティは立っていた。かすかに聞こえる騒ぎが気になって歩いてきたけれど、遠くで何かが光っていた。そこは暗いだけの海、と空夜から教えてもらっていたはずなのに、嘘をついているかのように明るかった。
「……気になるか?」
その声に少し驚いたルティが振り返ると、大量の袋を持った空夜が立っていた。するとその袋の一つからりんご飴を差し出した。
「他のやつらに頼まれて屋台の飯を買ってきたというのに、りんご飴だけ不評でさ」
「りんご飴……って」
「りんごに水と砂糖で作った飴を絡めて冷やす。お祭りだと定番なんだがな」
「お祭り? それって前に言っていた」
「ああ、でもちょっと違う。あの光はかつて人間達がやっていたものを得体の知れない者達が模倣しているだけだから」
「そうなの?」
「だからなのか、屋台の味はあまり期待できない……が、そのりんご飴はおいしかった」
そう言いながらりんご飴を受け取ったルティが口にすると「おいしい」と言いつつ、飴の固いところあんまりいらない、と思っていた。
遠くの光が少しずつ小さくなっていく中で、空夜はふと他のやつらから聞いた花火大会の話を思い出していた。しかし以前から模倣した祭りをした際、大雨や花火台の不備で空に花火が上がることはなかった、と聞いた。今回も夜は曇るという予報が出ていたし、また雨が降って見れないのではないか、と思っていた。そのことを考えて手持ち花火を袋に隠していた。
「ルティは花火を見たことがあるか?」
「知らない」
「まぁそうだろうな」
「それは花なの?」
「夜空に咲く花、と言えば綺麗に聞こえるが……危険物を打ち上げているようなものだからな」
「綺麗なのに危険……」
「そう。だから打ち上げ花火を行うことが出来る者は限られている」
「……空夜はどうしてその話をしたの」
「その花火が見れるかもしれない。可能性は低いが」
「低い?」
「この天気だからきっと雨が降る」
「そう……なのかな? でも星が見えるよ」
「え?」
空を見上げると曇って今にも雨が降りそうだった感じはいつの間にか消えていて、藍色の空に映るのは小さな星々の輝きだけだった。気づいたのと同時に一つの花火が空に上がった。春になれば桜が咲く一本の大きな木の下、二人はその場所でその花火を見た。
色鮮やかで綺麗な円から星などの形、花を模ったもの、そして小さく短く散ったもの、最後は開いて流れ消えるもの、といろいろな花火が打ち上がっていた。昔、空夜が見た時よりもかなり長い時間、花火が上がり続けていたような気がして、疲れてないか、とルティの方を見たが、「すごい」と呟きつつ、何故か泣いていた。
花火と一緒に知らない記憶が一瞬映った
笑っているのは空夜じゃない 知らない誰か
それは一体誰?
第六節 暑さの眩みに謎の姿
夏が始まって強い日差しを浴びたのはもう数えきれないほどになっていた。歩き続けるのも億劫になって、休みながらの道は進んでいるのかわからなくなった。クラールは休みを強要してくるけれど、そんな時間は残されていなかった。
ここを訪れるのは何度目になるだろうか。そう思いながら墓場のある一点を目指した。そこには古びた墓が一つ立っていて、陽光の幽霊 リフォの骨が収められていた。どうしてこの場所に来るのか、それは前にここを訪れた時に見た謎の記憶だった。
「夜の記憶?」
「うん……私が見るはずのない夜の風景だった」
「生前じゃない?」
「最初はそう思ったけど……知らない声がするの」
「声? もしかして……怖い人!?」
「……多分違う。あれは私と同じか、それとも」
どこかで会ったことがある? と言い続けることは出来なかった。似た姿は数えきれないほど見てきた。今更、それを誰かと特定することは不可能に近かった。
それでももう一度、その記憶が見れるのならとリフォは古びた墓に触れた。しかし映ったのは何度も見た昼間の墓参りだけだった。水道から出る水は夏の暑さで熱湯のようになって、何杯のバケツの水を交換してやっと冷たくなった。お墓のお掃除と冷たくなった水をかけて、最後に線香を上げてお参りをした。
「変わらなかった」
「……ここまで来たのに……疲れたよ」
「じゃあ、あれは……」
「アイスが欲しい」
「後でね」
「う……せめて水」
「水道でも飲んできたら」
「えー」
「……なら邪魔しないで」
クラールはリフォの怒った顔に驚いて、日陰を探してそこにとどまっていた。リフォは少し考えた後、古びた墓の側面を見てみた。何か不思議なものが書かれているわけでもないはずだったが、そこに触れると一瞬何かが映ったが、すぐに砂嵐にかき消されて、覚えられたのは彼岸花だけだった。
「あ……やっぱり……私はどこかで」
見たことがある、と気づいた時には、意識を保つことが出来ずに倒れていた。クラールがびっくりしてリフォの頭が石に当たらないように受け止めた。
意識を失ったその中で砂嵐に覆われた記憶がめくれていた。けれどその顔を見ることは出来ずに、時間は終わりを告げるだけだった。
第七節 雨降らり夏の恐怖
藍色の空が紺色に変わる深夜の点滅する光、壊れかけの電灯が鈍い音を立てて動く。影の多い道路を照らし、走り去った車はトンネルの中に消える。落書きだらけの内側は何度も書き重ねた化け物が顔を出していた。見慣れぬ者には悲鳴を贈り、それ以外は車の過ぎ行くしか聞こえなかった。
そんな通り道の上には廃墟となった家があり、もっと上には山が続いていた。山には野生生物の他に得体のしれない者が映ることがあった。それは昔から語られる幽霊や妖怪の類だが、たまに該当しない化け物がいた。
静まり返った夜の森、光の少ない山道を歩いている者がいた。その者は時々近道として通る場所を使って帰ろうとしていた。しかし近道として使っているのはいつも昼間のことで、夜中にその道を通ったことはなかった。昔は木々に覆われた山道だったが、今となっては竹が侵食して竹林になりかけていた。それに夏だというのに謎の雨が多くて、梅雨が過ぎたと言っていたのにまた梅雨が訪れたなんて、変な天気の年もあるんだなと思っていた。その雨のせいで最近買った靴も泥だらけで気分が悪かった。
早くこんな場所通り抜けて道路に出たいな、と思いながら歩いていると遠くで誰かが立っていた。同じように近道で通り抜けようとしている者がいるんだと思いながら、山の方へ進もうとする誰かをその者は呼び止めようと大きな声を出した。
「道路はそっちじゃないですよ!」
その者の声が聞こえたのか誰かの足は止まり、辺りを見た後山を下り始めたが、雨のせいで滑りやすくなっていたこともあって、崖の近くの竹林に誰かは捕まっていた。「大丈夫ですか!?」と急いで誰かに近寄って体を支えようとした時、その腕には無数の包帯が巻かれていた。よく見てみると白いワンピースから見える肌の部分のすべてに包帯が巻かれて、そこからかすかに血が滲んでいた。
雨が降った後の山道、木々が折れて足に突き刺さっても気にしない。最初の夜が来てから痛みを感じたことはない。だから痛みという感覚が分からない。陰影の幽霊 ルティは何もすることがなく、ただ山道を歩いているだけだった。そこに大きな声が聞こえて、ルティは少し驚いたが、近づいて来ようとする者から逃げることも考えず、山の方に行くのは諦めて下ることにした。下っていると落ちれそうな穴を見つけたが、急に腕を掴まれてルティは振り返った。本当なら右目を覆うように頭にも包帯が巻かれているはずだった。しかし雨の影響かその包帯は濡れて破れて無くなっており、右目は瞳の光もなく、何も無い暗闇だけが広がっていた。
それを見た者は恐怖で逃げ出し、ルティは離された反動で穴の中に落ちた。体に衝撃はあったものの痛みは一切感じず、ルティは立ち上がって歩いて道路までやってきた。点滅する電灯に眩しさを感じて、顔を触ると包帯が無くなっていることに気づいた。体に巻かれた包帯、最初の夜からあったそれは誰かが巻いてくれたものだが、ルティは名前以外自分のことが分からない記憶喪失だった。
すると少し歩いた道路の先で車が止まっていた。ルティが近づくと泥と血でぐちゃぐちゃになった人間が道路に倒れていた。車のライトに照らされたそれはさっきルティが左目で一瞬見た人間のような気がした。
第八節 はじまりとすれ違いの存在
失われたものを取り戻すのは不可能だった。私以外誰も覚えていなかった。あの血だまりが示したものは最初からなかったと切り捨てられた。砂嵐で隠されたその姿を一生懸命探し続けた。けれど少しずつ偽物の記憶だったんじゃないかって、みんなと同じように生きているのが幸せなのではないかって思い始めていた。
死の間際、ふと忘れていたことを思い出した。空白の存在が砂嵐に埋もれていくのを、弱くなった手は伸ばしていた。掴むことが出来ないとわかっていても、失いたくなかったとわからない記憶が抜け落ちた心と乖離して意識は閉じた。
再び目を覚ました時、その姿はあの日違和感を感じた時のものだった。知っているようで知らない場所に立っていた。出発点はとある家だった。見覚えのあるようなないようなそんな家から歩き続けた朝日の道。気づいたことは生きていたあの世界と似ていることだった。けれどどこか知らない場所も多くあった。しかしその場所に行くたびに砂嵐が襲ってきて、空白の存在の姿を映し出した。失われた存在とそれに準する記録と認識、その意味を私は理解した。
朝が過ぎて夜を迎えようとすると私の足は止められた。姿が消えるだけでなく動きも封じられてしまう。あまりにも面倒なこの姿は不思議だった。まるで夜に行動している者がいるみたいな、そんな感じがした。限られた時間の中で聞き続けていた。見つけるのが困難だとわかっていても、それでも残り続ける空白の存在を知りたかった。
話を聞き続けるある日、私は不思議な妖怪に出会った。山にいたその妖怪は本を好んで下まで降りてきていた。その妖怪からも話を聞いてみたが、他の者達と返事は変わらなかった。けれどふと一つ聞いてみたくなった。
「失いたくないものはありますか?」
妖怪からすれば何を言っているのか、と疑問に思われてしまうかもしれない。しかし妖怪は少し考えた後に答えた。
「ある……気がする。大量の本とかね」
手にしていた本を指差して妖怪は答えていたが、『ある』と言った瞬間は少しだけ口が止まっていた。本を例として出したのは何かを誤魔化そうとした? そんな気がした。
意識が生まれる前、小さな遺伝子の時点で優秀じゃなかったらここにいなかったのに。目覚めた意味を不明にしたまま、生き続けた日々は無いものと変わらない。この命はどうして私のものになってしまったのだろう。考えても答えはどこにもないけれど、消える決断をしたあの日を後悔することはない。「あの子」が生きていれば、私の存在など最初からいなかったと認識してくれさえすれば、それだけで十分なのだから。
血だまりだけが残ったあの世界はカラスがずっと見ていた。招いたカラスが「あの子」を見ていた。けれどそれはすぐにやめて飛び去った。遠く見えなくなった空の先、裏世界へと繋がった渦へと消えた。願いの代わりに消えた存在を誰もは認識しない。それでも残り火は当たってしまった記憶を映し出した。それが運悪く「あの子」に与えられただけ。忘れてほしいと願ったはずの人物に覚えられてしまうなんてあまりにも残酷だった。
空っぽの器を、偽りの人形を死した「あの子」のもとへ送った。最初から記憶のない人形は傷だらけの体の意味を知らない。置いてあるだけの人形だった。けれど「あの子」が渡り歩いた『誰も知らない現世』は長い時間が経っていた。その間に人形は「少女」を呼び覚ますように意識が芽生えた。そして残された欠片があの出会いを引き起こし、何度の夜を繰り返してもかの者は合いに来た。
けれど「あの子」と出会うことは許されない。朝と夜の境界線でかすかな姿を認識できたとして、すべてを取り戻すことは出来ないはずなのだから。
第二節 クラゲと貝殻と海の記憶
薄暗さは風のように過ぎ去って、太陽の光が隠れていた雲から現れて挨拶した。朝の光が少しずつ傾くのも忘れて、生い茂っていた森の葉を通り抜けるような眩しさがそこにはあった。
陽光(ようこう)の幽霊 リフォには生前の記憶の一部が歪んでいる。空白の人物と呼んでいる謎の存在を探して見つけるために、この世界を歩いて聞き込みを続けていた。しかしめぼしい情報はなく、時には彼女だけの妄想だと言われたこともある。それでも行く先々で生前の記憶と重なり合った場所において、その空白の人物は顔を隠して現れてはリフォを苦しめていた。
快晴の空を反射して映した海は青く澄んでいた。風に吹かれて砂浜を濡らした波は白く光り輝いていた。近くにはゴミ捨て禁止の看板が立ててあったが、その絵は掠れてホラーじみたものになりかけていた。
生前、似たような海を見たことがある。しかしそこは多くの人で賑わい、浮き輪やボートなどが浮かんでいた。海に入って足がつかなくなるのを怖がらず、少しだけ遠くに泳いだこともあった。溺れることなく泳ぎきって海から上がろうとした時、止まっていた数分の間にクラゲがいて刺さっていた。そしてそれは漂う空白の人物も襲われていた。
『止まっていたら刺されるから気をつけてね』
誰からそう言われていたのを思い出したが、時すでに遅くて痛みを感じ始めると気になって、忘れたくとも嫌なものへと変わっていった。
何度か海には行った。そのたびにクラゲに刺されるのは空白の人物ばかりだった。止まっている時間はあまり変わらないはずなのに、どうしても刺されて嫌になって海を静かに眺めている方が良いと言った気がした。
その空白の人物の表情は黒い砂嵐に覆われて何も見えない。そして記憶の再生が終わったかのように誰もいない砂浜の海へと戻っていた。リフォは波から少し離れた砂浜を歩いていた。ふと白い貝殻が落ちていてしゃがむと砂嵐に紛れて、似たものをどこかで、誰かの手の上に乗っている映像が流れた。
「知っている……けどわからない」
そう呟いたリフォは再び海の方を見ていた。快晴だと思っていた空は少しずつ雲が多くなっていた。それはたまに大量の光を隠すような動きをして、うっすらと影が生まれていた。けれど日陰にならない程度の時間じゃ涼むことも出来なかった。
第三節 月夜に映る蛍の温かさ
長い夕日が傾き、夜となった時には次の朝が見え隠れしていた。そんな夜の短い季節に小さな光が浮かんでいた。それは彼女と出会う前、空夜(くうや)が帰り道の川で見た不思議な光だった。住宅地の電気が消灯して何も見えなくなった夜の川に温かな光は飛び、小さな点滅は静かな夜を包み込んでいた。ふとそのことを思い出し、夜になったら彼女とともに見に行こうと思った。
夜の空、暗い森の中、目を覚ますのはいつものこと。右目には包帯が巻かれてそれを解いても何も無い暗闇が広がっていた。体の傷が癒えることはなく、その包帯は足の先まで続いていた。白いワンピースの端は少し血に染まって赤くなったり、土に汚れてしまったりしたが、次の夜が来た時には何事もなく白に戻っていた。陰影(いんえい)の幽霊 ルティには生前の記憶がなく、自分の名前以外何も思い出せない状態だった。
「……ここにいたか」
「空夜」
ルティは顔を上げてその声の方を見て、その場に立っている者の名前を呼んだ。月の光に照らされてその姿は現れた。空夜と呼ばれた山に住む妖怪と出会い、ルティは何もなかったところから少しだけ取り戻していた。それが記憶なのかはいまだにわからないまま。
「蛍を見に行かないか?」
「ほたる?」
「あっ、そっか、わからないか」
「……」
「……動きが速いな」
「何の?」
「夏は夜が短いから、月の落ちるのが速いなって」
「……ほたる? はどこにいるの?」
「少し遠い川にいる。だから歩いて間に合うかどうか」
「……わからないけど見てみたい」
「じゃあ、行こう」
空夜の手を取ってルティは立ち上がったが、包帯から滲み出た血が彼の目に留まり、歩かせるのは厳しいなと思わせた。「やっぱり」と呟いて空夜はルティに、おんぶするからと合図を出し、彼女が背に乗ったことを確認すると支えて立った。そしてあまり振動を立てないように森の中を走っていたかと思えば、いつの間にか道路の方に出ていて川が見えてきた。速さを緩めてゆっくりと辿り着いた川には小さな光が飛び始めていた。
「……よかった。間に合った」
「あれが……」
「そう、蛍。よどみがない綺麗な水の場所でなければ見ることが出来ないんだ」
「じゃあこの川は」
「そういう川ってことだ。でも前とは違って数が多いような」
「前?」
「ルティと出会う前の話だ。あの頃は街灯が多くて、川の近くも明るかったから。でも今は廃れて光という光は弱まった電灯と星くらいか」
「そうなんだ。あっ、手に止まった」
「珍しいな」
「……もしかして虫なの?」
「そうだが」
「……」
「怖いか」
「蛍……は怖くない。少し前に目の前を飛んできた虫は怖かった」
「あー、あれか。すぐに俺が退治したやつな。目の前に飛んでくんなって感じだけど」
そう話しながら川が続く限り、小さな蛍は二人を照らすように舞っていた。わからなくても楽しそうにしているルティを見ているだけで、空夜はホッとしていた。しかし蛍の光が徐々に少なくなって、夜が沈み朝が取り込もうとしていた時、ルティは空夜に言った。
「ねぇ」
「どうした?」
「いつか蝶も見てみたい。空夜が見せてくれた綺麗な白の」
「……飛ばないんだよ」
「え?」
「蝶っていうのは朝にしか飛ばないんだ。夜は飛ばずに眠っているから」
「……写真が明るかったのは」
「偶然じゃなくて必然……だから見せられない」
「そっか」
ルティは悲しそうな顔をして空夜は「ごめん」と呟いたが、彼は何かを思い出して彼女に伝えようとした時、ルティの姿は朝日に包まれていなくなっていた。
第四節 夏祭りの夕暮れ
長引く暑さは秋との境界線を奪おうとしていた。涼しい風が舞うようなそんな季節はなかったと感じてしまうほどに。過ぎ去った車の後に流れた風は冷たく感じても、すぐに暑さが戻ってそれを繰り返していた。かつて動いていた電光掲示板には夏になると多くの広告の中に夏祭りのお知らせが組み込まれていたことがある。陽光の幽霊 リフォも生前の記憶の中で見た気がした。
小さな漁港と広い公園が繋がっている場所、そこで毎年夏祭りが行われていた。多くの人で賑わい、長く続く道には屋台が並び、ステージでは知らないお笑い芸人がいた。
「わーい! あのりんご飴ほしい」
「……私はいらない」
「なんで? 食べようよ」
「……」
「リフォ……?」
「帰りたい」
「ねぇ」
「聞きたくない」
「どうしたの?」
低空飛行で浮かんでいたクラールはリフォのことを知りたくてやってきた天使だったが、悩みごとの多い彼女と違って、好奇心旺盛で無邪気な幼い子供のような子だった。地上のことは何も知らずリフォを探してついてきたが、彼女の中にある空白の人物にも興味を持ち、いつか会ってみたいと思うようになっていた。
しかし夏祭り会場に入る前からリフォは嫌な顔をしていた。楽しい、と教えてくれたはずなのに、ステージには目もくれず屋台の方へ歩いていた。
「……もう十分でしょ。ここはそれだけだから」
「どうして」
「どうしてって……あっ」
「これ……聞いたことある! 楽器の音だ」
「あ……ずっとやっているんだ。吹奏楽部の演奏会」
「ねぇ! 行こうよ!」
「……わかった」
リフォは相変わらず乗り気ではなかったが、クラールが引っ張って行こうとするから仕方なくで動いていた。すっからかんだった客席のパイプ椅子は満席になって、吹奏楽部の小さな演奏会を聞いていた。二人は最後席の後ろで立って聞いていた。知らない曲が流れているがクラールは楽しそうに体を揺らしていた。
それは毎年のことだった。夏祭りが近くなると吹奏楽部はそのための練習をする。リフォも生前その中にいた。そしてある年には空白の人物もいた。楽譜の読み方に苦労しながら練習を繰り返し、本番に臨んでいた。小さなステージにぎゅうぎゅうになりながら演奏するため、冷房が効いているとはいえ暑すぎてつらかった。
「……そうだ」
「?」
リフォは何かを呟いていたが、クラールは演奏の音で何も聞こえなかった。彼女はステージ側に手を伸ばし、何かの楽器を隠すように覆っていた。
演奏会は終わって次の催し物に変わる時、満席だったパイプ椅子はまたすっからかんになって、クラールは「楽しかったね」と言ったが、リフォは何も言わなかった。そのまま二人は出口に向かっていたが、その道の近くに置かれていた看板に『夜には花火大会もあるよ!!』と書いてあり、クラールはそれを見つけて「ねぇねぇ」とリフォを引っ張っていた。
「私は見れないよ」
「え? あっ……そっか」
「見たいの?」
「うん」
「……静かできれいに見える場所があるけど……間に合うかな」
リフォは太陽の動きを見ながらクラールをその場所に案内することにした。夏の時間は長いが、橙から藍色に変わるのは短いから油断していると途中になるかもしれない。だからリフォは少し急ぎ目に照りつく太陽の中、歩いていた。
第五節 夏の終わりに咲く夜空の花
昼間の暑さは遠くに消えて、静かに暗くなった空は涼しい風とともに小さな星を流していた。しかしその星はうっすら浮かんだ雲によって覆い隠されて、その目に映るには少々輝きを失っていた。夏の暑さをしのぐ自然の影に紛れて、陰影の幽霊 ルティは立っていた。かすかに聞こえる騒ぎが気になって歩いてきたけれど、遠くで何かが光っていた。そこは暗いだけの海、と空夜から教えてもらっていたはずなのに、嘘をついているかのように明るかった。
「……気になるか?」
その声に少し驚いたルティが振り返ると、大量の袋を持った空夜が立っていた。するとその袋の一つからりんご飴を差し出した。
「他のやつらに頼まれて屋台の飯を買ってきたというのに、りんご飴だけ不評でさ」
「りんご飴……って」
「りんごに水と砂糖で作った飴を絡めて冷やす。お祭りだと定番なんだがな」
「お祭り? それって前に言っていた」
「ああ、でもちょっと違う。あの光はかつて人間達がやっていたものを得体の知れない者達が模倣しているだけだから」
「そうなの?」
「だからなのか、屋台の味はあまり期待できない……が、そのりんご飴はおいしかった」
そう言いながらりんご飴を受け取ったルティが口にすると「おいしい」と言いつつ、飴の固いところあんまりいらない、と思っていた。
遠くの光が少しずつ小さくなっていく中で、空夜はふと他のやつらから聞いた花火大会の話を思い出していた。しかし以前から模倣した祭りをした際、大雨や花火台の不備で空に花火が上がることはなかった、と聞いた。今回も夜は曇るという予報が出ていたし、また雨が降って見れないのではないか、と思っていた。そのことを考えて手持ち花火を袋に隠していた。
「ルティは花火を見たことがあるか?」
「知らない」
「まぁそうだろうな」
「それは花なの?」
「夜空に咲く花、と言えば綺麗に聞こえるが……危険物を打ち上げているようなものだからな」
「綺麗なのに危険……」
「そう。だから打ち上げ花火を行うことが出来る者は限られている」
「……空夜はどうしてその話をしたの」
「その花火が見れるかもしれない。可能性は低いが」
「低い?」
「この天気だからきっと雨が降る」
「そう……なのかな? でも星が見えるよ」
「え?」
空を見上げると曇って今にも雨が降りそうだった感じはいつの間にか消えていて、藍色の空に映るのは小さな星々の輝きだけだった。気づいたのと同時に一つの花火が空に上がった。春になれば桜が咲く一本の大きな木の下、二人はその場所でその花火を見た。
色鮮やかで綺麗な円から星などの形、花を模ったもの、そして小さく短く散ったもの、最後は開いて流れ消えるもの、といろいろな花火が打ち上がっていた。昔、空夜が見た時よりもかなり長い時間、花火が上がり続けていたような気がして、疲れてないか、とルティの方を見たが、「すごい」と呟きつつ、何故か泣いていた。
花火と一緒に知らない記憶が一瞬映った
笑っているのは空夜じゃない 知らない誰か
それは一体誰?
第六節 暑さの眩みに謎の姿
夏が始まって強い日差しを浴びたのはもう数えきれないほどになっていた。歩き続けるのも億劫になって、休みながらの道は進んでいるのかわからなくなった。クラールは休みを強要してくるけれど、そんな時間は残されていなかった。
ここを訪れるのは何度目になるだろうか。そう思いながら墓場のある一点を目指した。そこには古びた墓が一つ立っていて、陽光の幽霊 リフォの骨が収められていた。どうしてこの場所に来るのか、それは前にここを訪れた時に見た謎の記憶だった。
「夜の記憶?」
「うん……私が見るはずのない夜の風景だった」
「生前じゃない?」
「最初はそう思ったけど……知らない声がするの」
「声? もしかして……怖い人!?」
「……多分違う。あれは私と同じか、それとも」
どこかで会ったことがある? と言い続けることは出来なかった。似た姿は数えきれないほど見てきた。今更、それを誰かと特定することは不可能に近かった。
それでももう一度、その記憶が見れるのならとリフォは古びた墓に触れた。しかし映ったのは何度も見た昼間の墓参りだけだった。水道から出る水は夏の暑さで熱湯のようになって、何杯のバケツの水を交換してやっと冷たくなった。お墓のお掃除と冷たくなった水をかけて、最後に線香を上げてお参りをした。
「変わらなかった」
「……ここまで来たのに……疲れたよ」
「じゃあ、あれは……」
「アイスが欲しい」
「後でね」
「う……せめて水」
「水道でも飲んできたら」
「えー」
「……なら邪魔しないで」
クラールはリフォの怒った顔に驚いて、日陰を探してそこにとどまっていた。リフォは少し考えた後、古びた墓の側面を見てみた。何か不思議なものが書かれているわけでもないはずだったが、そこに触れると一瞬何かが映ったが、すぐに砂嵐にかき消されて、覚えられたのは彼岸花だけだった。
「あ……やっぱり……私はどこかで」
見たことがある、と気づいた時には、意識を保つことが出来ずに倒れていた。クラールがびっくりしてリフォの頭が石に当たらないように受け止めた。
意識を失ったその中で砂嵐に覆われた記憶がめくれていた。けれどその顔を見ることは出来ずに、時間は終わりを告げるだけだった。
第七節 雨降らり夏の恐怖
藍色の空が紺色に変わる深夜の点滅する光、壊れかけの電灯が鈍い音を立てて動く。影の多い道路を照らし、走り去った車はトンネルの中に消える。落書きだらけの内側は何度も書き重ねた化け物が顔を出していた。見慣れぬ者には悲鳴を贈り、それ以外は車の過ぎ行くしか聞こえなかった。
そんな通り道の上には廃墟となった家があり、もっと上には山が続いていた。山には野生生物の他に得体のしれない者が映ることがあった。それは昔から語られる幽霊や妖怪の類だが、たまに該当しない化け物がいた。
静まり返った夜の森、光の少ない山道を歩いている者がいた。その者は時々近道として通る場所を使って帰ろうとしていた。しかし近道として使っているのはいつも昼間のことで、夜中にその道を通ったことはなかった。昔は木々に覆われた山道だったが、今となっては竹が侵食して竹林になりかけていた。それに夏だというのに謎の雨が多くて、梅雨が過ぎたと言っていたのにまた梅雨が訪れたなんて、変な天気の年もあるんだなと思っていた。その雨のせいで最近買った靴も泥だらけで気分が悪かった。
早くこんな場所通り抜けて道路に出たいな、と思いながら歩いていると遠くで誰かが立っていた。同じように近道で通り抜けようとしている者がいるんだと思いながら、山の方へ進もうとする誰かをその者は呼び止めようと大きな声を出した。
「道路はそっちじゃないですよ!」
その者の声が聞こえたのか誰かの足は止まり、辺りを見た後山を下り始めたが、雨のせいで滑りやすくなっていたこともあって、崖の近くの竹林に誰かは捕まっていた。「大丈夫ですか!?」と急いで誰かに近寄って体を支えようとした時、その腕には無数の包帯が巻かれていた。よく見てみると白いワンピースから見える肌の部分のすべてに包帯が巻かれて、そこからかすかに血が滲んでいた。
雨が降った後の山道、木々が折れて足に突き刺さっても気にしない。最初の夜が来てから痛みを感じたことはない。だから痛みという感覚が分からない。陰影の幽霊 ルティは何もすることがなく、ただ山道を歩いているだけだった。そこに大きな声が聞こえて、ルティは少し驚いたが、近づいて来ようとする者から逃げることも考えず、山の方に行くのは諦めて下ることにした。下っていると落ちれそうな穴を見つけたが、急に腕を掴まれてルティは振り返った。本当なら右目を覆うように頭にも包帯が巻かれているはずだった。しかし雨の影響かその包帯は濡れて破れて無くなっており、右目は瞳の光もなく、何も無い暗闇だけが広がっていた。
それを見た者は恐怖で逃げ出し、ルティは離された反動で穴の中に落ちた。体に衝撃はあったものの痛みは一切感じず、ルティは立ち上がって歩いて道路までやってきた。点滅する電灯に眩しさを感じて、顔を触ると包帯が無くなっていることに気づいた。体に巻かれた包帯、最初の夜からあったそれは誰かが巻いてくれたものだが、ルティは名前以外自分のことが分からない記憶喪失だった。
すると少し歩いた道路の先で車が止まっていた。ルティが近づくと泥と血でぐちゃぐちゃになった人間が道路に倒れていた。車のライトに照らされたそれはさっきルティが左目で一瞬見た人間のような気がした。
第八節 はじまりとすれ違いの存在
失われたものを取り戻すのは不可能だった。私以外誰も覚えていなかった。あの血だまりが示したものは最初からなかったと切り捨てられた。砂嵐で隠されたその姿を一生懸命探し続けた。けれど少しずつ偽物の記憶だったんじゃないかって、みんなと同じように生きているのが幸せなのではないかって思い始めていた。
死の間際、ふと忘れていたことを思い出した。空白の存在が砂嵐に埋もれていくのを、弱くなった手は伸ばしていた。掴むことが出来ないとわかっていても、失いたくなかったとわからない記憶が抜け落ちた心と乖離して意識は閉じた。
再び目を覚ました時、その姿はあの日違和感を感じた時のものだった。知っているようで知らない場所に立っていた。出発点はとある家だった。見覚えのあるようなないようなそんな家から歩き続けた朝日の道。気づいたことは生きていたあの世界と似ていることだった。けれどどこか知らない場所も多くあった。しかしその場所に行くたびに砂嵐が襲ってきて、空白の存在の姿を映し出した。失われた存在とそれに準する記録と認識、その意味を私は理解した。
朝が過ぎて夜を迎えようとすると私の足は止められた。姿が消えるだけでなく動きも封じられてしまう。あまりにも面倒なこの姿は不思議だった。まるで夜に行動している者がいるみたいな、そんな感じがした。限られた時間の中で聞き続けていた。見つけるのが困難だとわかっていても、それでも残り続ける空白の存在を知りたかった。
話を聞き続けるある日、私は不思議な妖怪に出会った。山にいたその妖怪は本を好んで下まで降りてきていた。その妖怪からも話を聞いてみたが、他の者達と返事は変わらなかった。けれどふと一つ聞いてみたくなった。
「失いたくないものはありますか?」
妖怪からすれば何を言っているのか、と疑問に思われてしまうかもしれない。しかし妖怪は少し考えた後に答えた。
「ある……気がする。大量の本とかね」
手にしていた本を指差して妖怪は答えていたが、『ある』と言った瞬間は少しだけ口が止まっていた。本を例として出したのは何かを誤魔化そうとした? そんな気がした。
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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