井上靖の詩「流星」は、2つのバージョンがある
公開 2026/05/11 00:00
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GWの最終日に、石川近代文学館主催の「井上靖の詩と随筆の朗読会」に行ってきました。小生、この手の文化企画には、とんと縁がない野暮な男ですが、チラシに書かれた「朗読する詩」を目で追って、「流星」と書かれているところで、ぴたりと視線が止まりました。これは行かねばならんと思ったのです。
小生、この高名な詩は、高校の時に読みました。以後、何十回と読んだことでしょう。大学の同級生に横浜出身の男がいて、彼はこの詩を、そらんじてました。彼も小生も、だから金沢に来たわけではない思うけど、仮にそうだとしても「さもありなん」と思わせるだけの魅力をこの詩は持っていますよね。
この詩の前半は、青春の高揚感にあふれています。でも後半は、戦争を経で理不尽な「命の断絶」をあまた経験し、「多根なる青春の亡骸」を流星の青光に託した、青春の鎮魂歌だと思います。 単に井上一人の青春の終焉を謳ったものではないと思います。まあ文学作品は、読む人の数だけ解釈・読み方があっていいのですが、小生はそのように読みました。
なお、この「流星」には、2つのバージョンがあって、昭和22年に発表されたオリジナル版を下に掲載します。これとは別に、金沢の近代文学館にある文学碑に彫られているのは、文字数も少ないのですが、最大の違いは、後段の書き出しが、「それから今日までに十数年の歳月がたった」ではなく、「それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘に・・」となっていることです。
これ、この文学碑の碑文のために、井上靖氏自身が書き直したものだそうです。でも「功成り名を遂げた」50年後の書き直しは、オリジナルの詩の「刃のような鋭さ」は消えてしまっており、小生的には、残念です。高校生の時に呼んだのは、もちろんオリジナル版です。
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流星
高等学校の学生ころ、日本海の砂丘の上で、ひとりマン
トに身を包み、仰向けに横たわって、星の流れるのを見
たことがある。十一月の凍った星座から、一条の青光を
ひらめかし忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。私は
いつまでも砂丘の上に横たわっていた。自分こそ、やが
て落ちてくるその星を己が額に受けとめる、地上におけ
るただ一人の人間であることを、私はいささかも疑わな
かった。
それから今日までに十数年の歳月がたった。今宵、この
国の多根なる青春の亡骸──鉄屑と瓦礫の荒涼たる都会
の風景の上に、長く尾をひいて疾走する一個の星をみた。
眼をとじ煉瓦を枕にしている私の額には、もはや何もの
も落ちてこようとは思われなかつた。その一瞬の小さい
祭典の無縁さ。戦乱荒亡の中に喪失した己が青春に似て、
その星の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の
瞼から消えないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体
を落下する星というものの終焉のおどろくベき清潔さだ
けであった。
高校卒業後、進学のためはるばる金沢に来てほぼ半世紀。古里は遠きにありますが、この金沢で人生を閉じることになるでしょう。その選択に一片の悔いなしです。
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