炊事 その二
公開 2026/08/03 12:46
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前回、土井善晴先生の「一汁一菜でよいという提案」に軽く触れた。
お菜を兼ねた具だくさんの味噌汁と、白米を基本にした食事のスタイルについて説かれた本である。これを柱としつつ、各人の気質や体質、仕事の都合にあわせて品数や献立を工夫すれば、炊事の苦痛はかなり取り除けるのではないかと思う。私の場合は、味噌汁に肉か魚を入れるか、お菜をもう一品増やすとちょうど良かった。
この本はあくまで、一汁一菜を「提案」するに留めている。断言も、命令もしない。
料理には守るべき事柄がずいぶん多い。味噌汁は沸騰させるな、食材は大きさを揃えよ、大根は綺麗に面取りすべし。さ・し・す・せ・その順番を守り、献立には、ま・ご・わ・や・さ・し・いを取り入れよ。
こんなことを、料理本や家庭科の授業や、母親から教わった。親の世代も、それが家庭を守るものの務めであると教えられてきたのだろう。決まりに素直に沿おうとすればするだけ、毎日の献立を考えるのも、調理をするのも大変になる。
一汁三菜、色とりどりのおかずが並んでいるのが、伝統的で健康に良い、あるべき食卓の姿だというイメージがある。
SNSを見ると、美しく盛りつけされた、手の込んだ料理の写真がたくさんアップロードされている。私は色どりをつけたり、綺麗に配置するのが得意ではないから、羨ましいと思う。手癖で作るとどうしても、茶色いおかずばかりになる。「地味でごめんね」「簡単で申しわけないね」とひと言添えて出すくせがついた。家族や恋人が謝っているのを聞いたこともある。
お弁当が茶色くて嫌だとか、晩飯が変化に乏しいとかいって、愚痴をこぼす人がいる。私も10代のころ、カレーは残りものの野菜を入れた、手抜きメニューだと思っていた。食事を作ってくれるありがたさを、ちっとも分かっていなかった。手間と愛情を混同してもいた。
家庭料理はもっと簡単で、のびやかでよいと土井先生は言う。食卓にいつも華やかさを求めるのは、ハレとケの区別がついていないからだ、とも指摘する。
昔の日本において、趣向を凝らした料理は、神さまにお供えするためのものであった。毎日の食事はつつましく済ませ、暮らしにけじめをつける。普段が穏やかであるからこそ、小さな変化に気がつき、それを味わうことができる。
けして禁欲的なわけではない。好きなものを好きなだけ食べるのとは別の自由、情報に踊らされず、自分の軸をもって過ごす穏やかな自由が得られるのだ。欲望を適度に律するところにも、喜びは息づいている。
理論はさて置いて、具だくさんの味噌汁を作ってお米を炊けば、それだけで大丈夫なのだと思えるだけでも、かなり気持ちは楽になる。
味噌汁には失敗がない。煮立たせるのはご法度と言われているが、私は5分も10分もポコポコいわせて作っている。じっくり火にかけたほうが、野菜の甘みがつゆに溶けだして美味しい。
くたくたに煮えたものは、それなりの味わいがある。飲んでみて薄ければ、追加で味噌を溶く。濃ければ水で伸ばす。炒め物の焦げや、揚げ物の衣のベチョベチョと違って修正がきく。料理が苦手な人でも、不慣れな子どもでも、味噌汁なら作れる。
外食産業が発達したせいか、お店の味を基準にして、美味しいかどうかを判断するようになっている。お店みたいとか、お店より美味しいというのが、最高のほめ言葉として使われている。チェーン店、名店の味を再現しようとするレシピサイトや動画も多い。
しかし考えてみれば、家庭にプロの仕事を求めるのは酷ではないか。
レストランの厨房では、朝早くから多くの料理人が仕込みにとりかかる。チェーン店のセントラルキッチンでは、億単位の資金を投じた設備が稼働している。多くの人の味覚にうったえるべく、日夜研究をかさねるスタッフもいる。お客はその対価として、代金を払う。
料理で、家族からお金を取る人はひとりもいない。他の家事や仕事の合間をぬって作った、ひと品ひと品が、愛情のかたちだった。安全で、まずくなく食べられれば家庭料理としてはじゅうぶんで、美味しさはプラスアルファで追求してくれていることなのだ。それが分からず、いろいろと注文をつけてしまったと反省している。
「一汁一菜でよいという」考えを家族みんなが持つようになれば、食卓はもっと幸せなものになるだろう。家庭料理のほんとうの姿――素朴であること、料理した行為(好意)そのものが美しいこと――に、作るほうも食べるほうも気がつけば、毎日の食事を通して、安心感が得られるだろう。
実際、一汁一菜式の味噌汁を飲むとほっとする。
出汁もいらないそうだが、淡白に過ぎたので、魚の節やシイタケの粉の合わさったパックを入れている。鶏肉を茹でたときは、旨味のたっぷり出た茹で汁を使う。
野菜は安いものを買って、なんでも入れる。キャベツやじゃがいもは特に甘みがあって美味しい。ぶなしめじは常連である。安くて出汁もとれるうえに、調理も石づきを落とすだけの簡便さだ。茄子は、しっかり炒めればとろりとしたコクがあって良いが、油をとりすぎてしまわぬように、切ったそのままを入れることとした。
処理するのはじゃがいもの芽くらいで、根菜の皮も剥かないし、ピーマンのヘタも種もとらない。土井先生いわく、残りの唐揚げでもトーストでも、とにかく何でも入れていいそうだ(父方の曾祖母がこの方式で、夕べのお菜をとりあえず放り込んでいたらしい。イカ刺し入りの日もあって、半端に温まった、ぬるりとした口あたりで、幼い父は食べるのが辛かったという)。
きのうは暑さが出てきたから、体力をつけるべく思い切ってニンニクを5カケ投じた。夏が本格的になるにつれて、大葉小ねぎの薬味を使うが、結構余りがちである。今年は刻んだのを、味噌汁へ仕上げに散らすつもりだ。
毎日同じようでありながら、具材や火にかけた時間の差で、つど違った仕上がりになる。良い意味でのぶれが、毎食の楽しみに繋がっている。大本が単純だからこそ、どんな食材を入れたら美味しそうか、味に変化が出るかを試してみるだけの余裕が生まれてくる。気持ちのゆとりから、自然と発生する工夫である。料理の苦しみを無くすべく一汁一菜を初めて、気がつけば料理が少し楽しくなった。
ここ数週間、当務明けや休みの夜、米と味噌汁に加え、晩と翌日の弁当のお菜を作っている。どんなものでも喜んで食べてくれ、片づけや仕込みの手伝いをしてくれる恋人のおかげであることは、間違いない。
加えてもうひとつ、「一汁一菜でよいという提案」をくり返し読んだ効き目もあると思う。食卓に並ぶものも弁当のおかずも、同じものでよいのだと、料理に深く関わった人が教えてくれた。助けられた、という感じだ。毎回、味噌汁の残りを密閉容器に注いで、ごぼうのきんぴらと卵焼きをタッパーに詰めて、辛くも侘びしくもない。料理は一生の営みだから、苦しくてはいけないのだ。
一汁一菜は、前回触れた「限界メシ」や、メディアが紹介する「時短メニュー」「スピードおかず」とは異なる響きをもっている。時短、スピードという言葉は、追いまくられる忙しさをともなっている。私も参考にしたことがあるが、急いで作ろうとするばかりで、楽しく料理できなかった。早く、たくさん品数を作らなければならないという意識は、私たちを料理がままならぬほど疲弊させる、大量消費社会や資本主義の原理と結びついていないだろうか。
一生懸命したことが、もっとも純粋で美しいと土井先生は書いている。額に汗して遮二無二やる、ということではない。私たちの思う懸命さには、評価や見返りを求めるところがある。この本が大切にしているのは、穏やかさを含んだ心だと思う。
たとえば、芋の泥を指の腹でこすって洗うとき、湯がいて緑の濃くなった小松菜を、箸でまな板やざるへ揚げるとき、自分まで清められたような、しいんとした感じになる。油のなかで、細かくした香味野菜が小さなあぶくをまとっているとき、砂糖、醤油、みりんを絡めた食材が、鍋のなかで照りを見せ始めたとき、喜びが静かに起こる。行いと心が一つになって出来た料理は、装いを施したわけでもないのに、何とは無しに、綺麗で美味しそうである。切り幅を揃えるとか、面取りをするとかの手間とは別の、善い心が品に出る。
「ていねいな暮らし」というものに、私たちは憧れる。
初夏は梅、秋は柿を干す。盆には精霊馬を作り、七夕にはベランダへ笹を飾る。鏡や蛇口には水垢一つなく、床の雑巾がけも行き届いている。もちろん、朝も夜も食卓は豪華で、休日には手製のデザートも出てくる。季節感を大切にした、こだわりの暮らしができれば言うことはないが、時間とお金に余裕のある人の特権のようにも思える。美的センスに乏しく、そんなにお金があるわけでもない自分には、「ていねいな暮らし」は営めないのだろう。羨む一方で、諦めを抱いてもいる。
「一汁一菜でよいという提案」をくり返し読むうち、卑屈に陥らずともよかったのだと気がついた。
大切なのは、SNSや雑誌が発信する「かたち」にとらわれず、どうすれば丁寧な心で過ごせるかを探すことだった。一汁一菜は簡単で、時間もかからないから、ゆったりした気持ちで作れる。洗いものも少ないので、焦らず片づけができる。背伸びをして作った一汁三菜よりも、そのほうが自分や家族の幸せにつながる。身の丈にあった暮らし、地に足のついた生活が一汁一菜から始まる。語り口も、表れた心も穏やかであるが、禅師の警策のような戒めの力を持った一冊である。
前回・今回と料理について書いてきた。経済面でも心身の健康面でも、炊事はしたほうがよいというのが、今のところの考えである。
心には、創造性を発揮することでしか回復しない領域があるように思う。SNSや動画を観たり、外で美味しいものを食べたりするのは、あくまで受動的な楽しみである。続けているうちに気持ちがだらける。そんな時、台所へ立って手を動かすと、自分のなかに張りが戻ってくる。
好きな具材を入れて、好きな濃さに仕立てた味噌汁を作る。それだけでも主体性は回復する。暮らしの舵をとること、自分自身の手で生活を形づくること。これが、私が一汁一菜から受けとったものである。
一汁一菜は、まっすぐな、ひらけた道である。進んでいって、間違いが起こる可能性は低い。食や生活に対する他の考えをしりぞける、窮屈な思想ではない。カップ麺や弁当で済ませるほうがよい時期も、当然ある。インスタント食品を楽しんでもよいし、ファミリーレストランへ行く日があってもよい。百人いれば百人の暮らしがある。職業・家族構成・体質・気質を踏まえて、臨機応変に幸福を探ってゆく姿勢が大切ではないだろうか。それが、身の丈にあう、ということなのだ。
お菜を兼ねた具だくさんの味噌汁と、白米を基本にした食事のスタイルについて説かれた本である。これを柱としつつ、各人の気質や体質、仕事の都合にあわせて品数や献立を工夫すれば、炊事の苦痛はかなり取り除けるのではないかと思う。私の場合は、味噌汁に肉か魚を入れるか、お菜をもう一品増やすとちょうど良かった。
この本はあくまで、一汁一菜を「提案」するに留めている。断言も、命令もしない。
料理には守るべき事柄がずいぶん多い。味噌汁は沸騰させるな、食材は大きさを揃えよ、大根は綺麗に面取りすべし。さ・し・す・せ・その順番を守り、献立には、ま・ご・わ・や・さ・し・いを取り入れよ。
こんなことを、料理本や家庭科の授業や、母親から教わった。親の世代も、それが家庭を守るものの務めであると教えられてきたのだろう。決まりに素直に沿おうとすればするだけ、毎日の献立を考えるのも、調理をするのも大変になる。
一汁三菜、色とりどりのおかずが並んでいるのが、伝統的で健康に良い、あるべき食卓の姿だというイメージがある。
SNSを見ると、美しく盛りつけされた、手の込んだ料理の写真がたくさんアップロードされている。私は色どりをつけたり、綺麗に配置するのが得意ではないから、羨ましいと思う。手癖で作るとどうしても、茶色いおかずばかりになる。「地味でごめんね」「簡単で申しわけないね」とひと言添えて出すくせがついた。家族や恋人が謝っているのを聞いたこともある。
お弁当が茶色くて嫌だとか、晩飯が変化に乏しいとかいって、愚痴をこぼす人がいる。私も10代のころ、カレーは残りものの野菜を入れた、手抜きメニューだと思っていた。食事を作ってくれるありがたさを、ちっとも分かっていなかった。手間と愛情を混同してもいた。
家庭料理はもっと簡単で、のびやかでよいと土井先生は言う。食卓にいつも華やかさを求めるのは、ハレとケの区別がついていないからだ、とも指摘する。
昔の日本において、趣向を凝らした料理は、神さまにお供えするためのものであった。毎日の食事はつつましく済ませ、暮らしにけじめをつける。普段が穏やかであるからこそ、小さな変化に気がつき、それを味わうことができる。
けして禁欲的なわけではない。好きなものを好きなだけ食べるのとは別の自由、情報に踊らされず、自分の軸をもって過ごす穏やかな自由が得られるのだ。欲望を適度に律するところにも、喜びは息づいている。
理論はさて置いて、具だくさんの味噌汁を作ってお米を炊けば、それだけで大丈夫なのだと思えるだけでも、かなり気持ちは楽になる。
味噌汁には失敗がない。煮立たせるのはご法度と言われているが、私は5分も10分もポコポコいわせて作っている。じっくり火にかけたほうが、野菜の甘みがつゆに溶けだして美味しい。
くたくたに煮えたものは、それなりの味わいがある。飲んでみて薄ければ、追加で味噌を溶く。濃ければ水で伸ばす。炒め物の焦げや、揚げ物の衣のベチョベチョと違って修正がきく。料理が苦手な人でも、不慣れな子どもでも、味噌汁なら作れる。
外食産業が発達したせいか、お店の味を基準にして、美味しいかどうかを判断するようになっている。お店みたいとか、お店より美味しいというのが、最高のほめ言葉として使われている。チェーン店、名店の味を再現しようとするレシピサイトや動画も多い。
しかし考えてみれば、家庭にプロの仕事を求めるのは酷ではないか。
レストランの厨房では、朝早くから多くの料理人が仕込みにとりかかる。チェーン店のセントラルキッチンでは、億単位の資金を投じた設備が稼働している。多くの人の味覚にうったえるべく、日夜研究をかさねるスタッフもいる。お客はその対価として、代金を払う。
料理で、家族からお金を取る人はひとりもいない。他の家事や仕事の合間をぬって作った、ひと品ひと品が、愛情のかたちだった。安全で、まずくなく食べられれば家庭料理としてはじゅうぶんで、美味しさはプラスアルファで追求してくれていることなのだ。それが分からず、いろいろと注文をつけてしまったと反省している。
「一汁一菜でよいという」考えを家族みんなが持つようになれば、食卓はもっと幸せなものになるだろう。家庭料理のほんとうの姿――素朴であること、料理した行為(好意)そのものが美しいこと――に、作るほうも食べるほうも気がつけば、毎日の食事を通して、安心感が得られるだろう。
実際、一汁一菜式の味噌汁を飲むとほっとする。
出汁もいらないそうだが、淡白に過ぎたので、魚の節やシイタケの粉の合わさったパックを入れている。鶏肉を茹でたときは、旨味のたっぷり出た茹で汁を使う。
野菜は安いものを買って、なんでも入れる。キャベツやじゃがいもは特に甘みがあって美味しい。ぶなしめじは常連である。安くて出汁もとれるうえに、調理も石づきを落とすだけの簡便さだ。茄子は、しっかり炒めればとろりとしたコクがあって良いが、油をとりすぎてしまわぬように、切ったそのままを入れることとした。
処理するのはじゃがいもの芽くらいで、根菜の皮も剥かないし、ピーマンのヘタも種もとらない。土井先生いわく、残りの唐揚げでもトーストでも、とにかく何でも入れていいそうだ(父方の曾祖母がこの方式で、夕べのお菜をとりあえず放り込んでいたらしい。イカ刺し入りの日もあって、半端に温まった、ぬるりとした口あたりで、幼い父は食べるのが辛かったという)。
きのうは暑さが出てきたから、体力をつけるべく思い切ってニンニクを5カケ投じた。夏が本格的になるにつれて、大葉小ねぎの薬味を使うが、結構余りがちである。今年は刻んだのを、味噌汁へ仕上げに散らすつもりだ。
毎日同じようでありながら、具材や火にかけた時間の差で、つど違った仕上がりになる。良い意味でのぶれが、毎食の楽しみに繋がっている。大本が単純だからこそ、どんな食材を入れたら美味しそうか、味に変化が出るかを試してみるだけの余裕が生まれてくる。気持ちのゆとりから、自然と発生する工夫である。料理の苦しみを無くすべく一汁一菜を初めて、気がつけば料理が少し楽しくなった。
ここ数週間、当務明けや休みの夜、米と味噌汁に加え、晩と翌日の弁当のお菜を作っている。どんなものでも喜んで食べてくれ、片づけや仕込みの手伝いをしてくれる恋人のおかげであることは、間違いない。
加えてもうひとつ、「一汁一菜でよいという提案」をくり返し読んだ効き目もあると思う。食卓に並ぶものも弁当のおかずも、同じものでよいのだと、料理に深く関わった人が教えてくれた。助けられた、という感じだ。毎回、味噌汁の残りを密閉容器に注いで、ごぼうのきんぴらと卵焼きをタッパーに詰めて、辛くも侘びしくもない。料理は一生の営みだから、苦しくてはいけないのだ。
一汁一菜は、前回触れた「限界メシ」や、メディアが紹介する「時短メニュー」「スピードおかず」とは異なる響きをもっている。時短、スピードという言葉は、追いまくられる忙しさをともなっている。私も参考にしたことがあるが、急いで作ろうとするばかりで、楽しく料理できなかった。早く、たくさん品数を作らなければならないという意識は、私たちを料理がままならぬほど疲弊させる、大量消費社会や資本主義の原理と結びついていないだろうか。
一生懸命したことが、もっとも純粋で美しいと土井先生は書いている。額に汗して遮二無二やる、ということではない。私たちの思う懸命さには、評価や見返りを求めるところがある。この本が大切にしているのは、穏やかさを含んだ心だと思う。
たとえば、芋の泥を指の腹でこすって洗うとき、湯がいて緑の濃くなった小松菜を、箸でまな板やざるへ揚げるとき、自分まで清められたような、しいんとした感じになる。油のなかで、細かくした香味野菜が小さなあぶくをまとっているとき、砂糖、醤油、みりんを絡めた食材が、鍋のなかで照りを見せ始めたとき、喜びが静かに起こる。行いと心が一つになって出来た料理は、装いを施したわけでもないのに、何とは無しに、綺麗で美味しそうである。切り幅を揃えるとか、面取りをするとかの手間とは別の、善い心が品に出る。
「ていねいな暮らし」というものに、私たちは憧れる。
初夏は梅、秋は柿を干す。盆には精霊馬を作り、七夕にはベランダへ笹を飾る。鏡や蛇口には水垢一つなく、床の雑巾がけも行き届いている。もちろん、朝も夜も食卓は豪華で、休日には手製のデザートも出てくる。季節感を大切にした、こだわりの暮らしができれば言うことはないが、時間とお金に余裕のある人の特権のようにも思える。美的センスに乏しく、そんなにお金があるわけでもない自分には、「ていねいな暮らし」は営めないのだろう。羨む一方で、諦めを抱いてもいる。
「一汁一菜でよいという提案」をくり返し読むうち、卑屈に陥らずともよかったのだと気がついた。
大切なのは、SNSや雑誌が発信する「かたち」にとらわれず、どうすれば丁寧な心で過ごせるかを探すことだった。一汁一菜は簡単で、時間もかからないから、ゆったりした気持ちで作れる。洗いものも少ないので、焦らず片づけができる。背伸びをして作った一汁三菜よりも、そのほうが自分や家族の幸せにつながる。身の丈にあった暮らし、地に足のついた生活が一汁一菜から始まる。語り口も、表れた心も穏やかであるが、禅師の警策のような戒めの力を持った一冊である。
前回・今回と料理について書いてきた。経済面でも心身の健康面でも、炊事はしたほうがよいというのが、今のところの考えである。
心には、創造性を発揮することでしか回復しない領域があるように思う。SNSや動画を観たり、外で美味しいものを食べたりするのは、あくまで受動的な楽しみである。続けているうちに気持ちがだらける。そんな時、台所へ立って手を動かすと、自分のなかに張りが戻ってくる。
好きな具材を入れて、好きな濃さに仕立てた味噌汁を作る。それだけでも主体性は回復する。暮らしの舵をとること、自分自身の手で生活を形づくること。これが、私が一汁一菜から受けとったものである。
一汁一菜は、まっすぐな、ひらけた道である。進んでいって、間違いが起こる可能性は低い。食や生活に対する他の考えをしりぞける、窮屈な思想ではない。カップ麺や弁当で済ませるほうがよい時期も、当然ある。インスタント食品を楽しんでもよいし、ファミリーレストランへ行く日があってもよい。百人いれば百人の暮らしがある。職業・家族構成・体質・気質を踏まえて、臨機応変に幸福を探ってゆく姿勢が大切ではないだろうか。それが、身の丈にあう、ということなのだ。
