炊事 その一
公開 2026/06/18 18:44
最終更新
2026/06/18 18:47
炊事に対して、苦手意識がある。
料理音痴ではない。美味しいものを手ずから作る喜びも分かる。冷蔵庫にある食材で、なるだけ五味のバランスのとれた献立を組み立てる楽しさも分かる。得だと思うものを買って、合計金額が予想と同じか下回るかすると嬉しい。あくまで、暇な時であれば、の話である。
飽食のいま、もはや自炊の必要はないと言われる。もっともな主張であろう。空腹を覚えて、ふらふら入った日高屋で頼む中華そば(650円。大盛り、細切りネギトッピング含)の、しみじみする美味さ。当直明けで頼む「ちゃん系」ラーメンの、塩辛いスープと、クニャクニャした口当たりの麺。別に、これでいいじゃないか、と感じる。
スーパーや弁当屋の惣菜も、味の濃い、油気の多いものばかりではなくなってきた。ふきの煮たのや、卯の花、ほうれん草のごま和えなど、さっぱりした品もある。とくにサミットストアの惣菜は、家庭的な飽きのこない味つけで、わが家ではたいへん重宝している。
同居している恋人が料理好きなので、一緒にいるときはありがたくお願いするか、主菜は向こう、副菜はこちらといったふうに、分担するかしている。ただ、互いに土日休みの仕事ではないから、ひとりで家にいる日も出てくる。職業柄、出勤日は昼と夜と二食ぶん弁当を持っていく。当務明けの食事も考える必要がある。けっこう、自力で都合せねばならぬことが多い。
わが家の財布は、個人と家計で分かれている。給料日に、家計用へ一定額を入れておく。食材の購入費用はそこから出し、外食したぶんは各々が払う。自炊に励んだぶんだけ、個人の財布にゆとりが生まれる仕組みになっている。倹約と手軽さとのあいだを揺れ動く毎日である。
他の家事――例えば皿洗いや掃除などは、よほどの富豪でないかぎり、自分で行うしかない。だが炊事においては、いくらでも肩代わりしてくれる場所がある。コンビニは24時間空いているし、0時を回っても営業しているスーパーも多くなった。9時から17時までの勤務の人なら、近くの店でさっと夕飯を済ませてしまえば、楽しみや休息に残りの時間をあてられる。
……こう書きながら、子ども(とくに幼児)がいる人の大変さがあらためて想像された。辛かろうが何だろうが、とにかく料理して食べさせねばならないのだ。しかも、ただ作れば良いわけではなく、食材の口当たりや大きさ、好き嫌いに栄養バランスまで考慮しなければならないと聞く。帰宅してもひと仕事、ふた仕事である。
そうした責務もなく、料理好きでもない単身者が自炊に踏み切るには、それなりの理由がいる。先ほども書いたように、懐具合がほとんど唯一の理由だと思うが、果たして手間に見合うほどお得なのかは、考えてみてよい気がする。
昨今、5キロの米を買うのに4千円はかかる。ざっと30合として、1日2合炊くと、半月で一袋の消費である。一日あたり260円。これに野菜や肉の代金が加わる。
調理の他にも手間はある。5本入り298円のナスがあったとして、それが安いかどうか、傷むまでに使い切れるのか。パックに入った300グラムの肉は、自分の腹を満たすのに多いのか少ないのか。買おうとしている食材と、冷蔵庫の中身を合わせて何が作れるか。調味料は切れていないか。算段がすらすら立てられるようになるまでには時間がかかる。プライベートブランドのカップ麺と値引きの弁当を買えば、悩む必要はない。
しかし店屋物ばかりでは栄養が偏って、身体に障る気がする。ほんとうは料理が出来る人であれば、手を抜いているという罪悪感も少しずつ積み上がっていく。何より寂しくなってくる。冷凍食品や弁当を温めて、ひとりでボソボソ食べる生活が、いつまで続くのか。ずっと値引きの弁当しか買えないのか。家の台所で作られた料理を、心が求めるようになる。少なくとも私のなかには、家庭料理でしか満たせない領域がある。
世間には、健康も味も捨て、費用と手軽さに特化した「限界メシ」なる道がある。家庭料理の極北であろう。
友人のなかには食パンに焼肉のタレをかけたものや、パスタをサラダ油で絡め、塩とデスソース――タバスコをうんと辛くした調味料――を数滴かけた「素パスタ」なる料理で食いつないでいる猛者がいた(ひと口食わせてもらったところ、想像より悪い味ではなかった)。
貧者の智慧と言うべきか、おもちゃを買ってもらえない子どもが独自の遊びを考案するようなところがあって、聞いているぶんには面白い。
健康寿命を犠牲にした食の探究は、たいていが大学進学を機に始まり、就職とともに終わりを迎える。素パスタ氏も今は一線を退いて、時おり肉なぞ焼いているらしい。
一日の食費を300円代に抑えねばならぬ時期が、私にもあった。昼夜の2食を、米かうどんに納豆と卵とキムチをのせたもので済ませていた。タンパク質、ビタミン、発酵食品を摂っていれば栄養の面では問題なかろうとの考えである。複雑な調理の必要がなく、洗いものも箸と丼ぶりだけでよい。
引き換えに、食べる楽しみは失われる。朝食をバナナとヨーグルトに置きかえたり、夕飯にサラダチキンを加えたりして、何とか変化をつけようとしても限界はある。栄養不足に陥っていたのであろう、身体が常に重く、血の巡りも悪かった。
我慢できず、時おりコンビニのホットスナックを買い求めた。店を出てすぐ食べた。貪るようにしたから、あまり味は覚えていない。ある程度の余裕がなければ、味わって食べることも出来ないのだ。
肉にありついた喜びより、一瞬で胃袋におさまってしまった物足りなさが勝った。大して満足感が得られぬものに200いくら使ってしまった後悔も、家計簿を入力すると湧いてきた。西友で卵10個入りが約300円、冷凍うどん3食入りが約200円、納豆なら3パックひとセットで90円。肉ひとカケと同じくらいの金で、数日分の卵や納豆が買えた。爪に火を点すようなやりくりが、私を自炊の楽しさから遠ざけた。
恋人のおかげで、一緒に台所に立つことは楽しくなった。自分ひとりの炊事には、まだ結構な気力が要る。必要経費と割りきって店屋物に頼るか、自炊を楽しめるようにするか、苦痛でない自炊の許容範囲を探すか。選択肢はこの三つだ。私としては最後の道が、もっとも健全であるように思う。諦めるのでもなく、無理に前向きになろうと気負うのでもなく、快さを損なわない、不快を感じない境界を探るのだ。
料理研究家の土井善晴先生の著書、『一汁一菜でよいという提案』は、この点で大いに参考になった。
具だくさんの味噌汁(一汁と一菜を兼ねる、オールインワンの献立として提案されている)を作る挑戦を3ヶ月ほど行った。しかし、節約と面倒がりのために肉を入れなかったので、菜食主義者のような食生活になり、4キロ痩せてしまった。
土井先生はしっかりと、足りなければ米や味噌汁をおかわりしてください、と書いてくれているが、弁当ゆえ出来なかったのである。日によって3時間以上歩くような仕事に就いていることも、痩身に拍車をかけた。条件が悪かったのだ。挽き肉とか豚の薄切りとか、簡単に火の通る肉を入れてカロリーを上げるか、もう一品惣菜を買うかして調整するのがよいと思う。食べものが高いのでどうしても、財布の紐は硬くなるけれど……。
具だくさんの味噌汁は、私ひとりの時でも作れる、ぎりぎりの簡単さを持っていた。取らずとも食べられる野菜の皮やヘタは剥かない、気楽さも学んだ。人参や大根の皮むきに、ほんのわずかなムリが潜んでいた。
『一汁一菜でよいという提案』は、他にも多くの示唆を含む著作で、もう一度読んだらしっかりと言及するつもりである。平易な言葉で、ありきたりなことが書いてあるようだけれども、分からないところがある。身体に落とし込んで書いている著者と、頭で意味だけ理解した私との差を感じた。
快/不快の閾値に話を戻すと、具だくさん味噌汁は、今の私にとって、泊まり明けに作るにはひと仕事である。
本当はすぐ床に就きたいが、腹に何か入れておくと、多少寝起きが良いのである。帰りの電車でコックリコックリ船をこぐような状態で自炊をするのは、私には不要な頑張りと思える。「ちゃんとしていること」を自分のうちに、他人に見せつけているように感じられる。まっすぐでないものがある。
先月の半ばから、レトルトのパスタソースを買い溜めておくようにした。麺を茹でて、混ぜくるだけだ。「キューピー あえるパスタソース」シリーズの、納豆とフォン・ド・ボー風ミートソースが気に入っている。学生時代にも世話になっていた。簡単で、美味しくて、経済的である。
そう思っていたが、値段を見て、時の流れというのか世知辛さというのか、改めて物価高の現状を思い知らされた。私の記憶が確かなら、キューピーのパスタソースは、200円せずに買えたのだ。いまや250円する。4食で1000円となると、少し考える。しばらく続けるうちに、栄養面の問題や、手づくりの味への慕わしさが生じてくるかもしれない。素パスタを作る時が、私にも近づきつつあるのだろうか。
料理音痴ではない。美味しいものを手ずから作る喜びも分かる。冷蔵庫にある食材で、なるだけ五味のバランスのとれた献立を組み立てる楽しさも分かる。得だと思うものを買って、合計金額が予想と同じか下回るかすると嬉しい。あくまで、暇な時であれば、の話である。
飽食のいま、もはや自炊の必要はないと言われる。もっともな主張であろう。空腹を覚えて、ふらふら入った日高屋で頼む中華そば(650円。大盛り、細切りネギトッピング含)の、しみじみする美味さ。当直明けで頼む「ちゃん系」ラーメンの、塩辛いスープと、クニャクニャした口当たりの麺。別に、これでいいじゃないか、と感じる。
スーパーや弁当屋の惣菜も、味の濃い、油気の多いものばかりではなくなってきた。ふきの煮たのや、卯の花、ほうれん草のごま和えなど、さっぱりした品もある。とくにサミットストアの惣菜は、家庭的な飽きのこない味つけで、わが家ではたいへん重宝している。
同居している恋人が料理好きなので、一緒にいるときはありがたくお願いするか、主菜は向こう、副菜はこちらといったふうに、分担するかしている。ただ、互いに土日休みの仕事ではないから、ひとりで家にいる日も出てくる。職業柄、出勤日は昼と夜と二食ぶん弁当を持っていく。当務明けの食事も考える必要がある。けっこう、自力で都合せねばならぬことが多い。
わが家の財布は、個人と家計で分かれている。給料日に、家計用へ一定額を入れておく。食材の購入費用はそこから出し、外食したぶんは各々が払う。自炊に励んだぶんだけ、個人の財布にゆとりが生まれる仕組みになっている。倹約と手軽さとのあいだを揺れ動く毎日である。
他の家事――例えば皿洗いや掃除などは、よほどの富豪でないかぎり、自分で行うしかない。だが炊事においては、いくらでも肩代わりしてくれる場所がある。コンビニは24時間空いているし、0時を回っても営業しているスーパーも多くなった。9時から17時までの勤務の人なら、近くの店でさっと夕飯を済ませてしまえば、楽しみや休息に残りの時間をあてられる。
……こう書きながら、子ども(とくに幼児)がいる人の大変さがあらためて想像された。辛かろうが何だろうが、とにかく料理して食べさせねばならないのだ。しかも、ただ作れば良いわけではなく、食材の口当たりや大きさ、好き嫌いに栄養バランスまで考慮しなければならないと聞く。帰宅してもひと仕事、ふた仕事である。
そうした責務もなく、料理好きでもない単身者が自炊に踏み切るには、それなりの理由がいる。先ほども書いたように、懐具合がほとんど唯一の理由だと思うが、果たして手間に見合うほどお得なのかは、考えてみてよい気がする。
昨今、5キロの米を買うのに4千円はかかる。ざっと30合として、1日2合炊くと、半月で一袋の消費である。一日あたり260円。これに野菜や肉の代金が加わる。
調理の他にも手間はある。5本入り298円のナスがあったとして、それが安いかどうか、傷むまでに使い切れるのか。パックに入った300グラムの肉は、自分の腹を満たすのに多いのか少ないのか。買おうとしている食材と、冷蔵庫の中身を合わせて何が作れるか。調味料は切れていないか。算段がすらすら立てられるようになるまでには時間がかかる。プライベートブランドのカップ麺と値引きの弁当を買えば、悩む必要はない。
しかし店屋物ばかりでは栄養が偏って、身体に障る気がする。ほんとうは料理が出来る人であれば、手を抜いているという罪悪感も少しずつ積み上がっていく。何より寂しくなってくる。冷凍食品や弁当を温めて、ひとりでボソボソ食べる生活が、いつまで続くのか。ずっと値引きの弁当しか買えないのか。家の台所で作られた料理を、心が求めるようになる。少なくとも私のなかには、家庭料理でしか満たせない領域がある。
世間には、健康も味も捨て、費用と手軽さに特化した「限界メシ」なる道がある。家庭料理の極北であろう。
友人のなかには食パンに焼肉のタレをかけたものや、パスタをサラダ油で絡め、塩とデスソース――タバスコをうんと辛くした調味料――を数滴かけた「素パスタ」なる料理で食いつないでいる猛者がいた(ひと口食わせてもらったところ、想像より悪い味ではなかった)。
貧者の智慧と言うべきか、おもちゃを買ってもらえない子どもが独自の遊びを考案するようなところがあって、聞いているぶんには面白い。
健康寿命を犠牲にした食の探究は、たいていが大学進学を機に始まり、就職とともに終わりを迎える。素パスタ氏も今は一線を退いて、時おり肉なぞ焼いているらしい。
一日の食費を300円代に抑えねばならぬ時期が、私にもあった。昼夜の2食を、米かうどんに納豆と卵とキムチをのせたもので済ませていた。タンパク質、ビタミン、発酵食品を摂っていれば栄養の面では問題なかろうとの考えである。複雑な調理の必要がなく、洗いものも箸と丼ぶりだけでよい。
引き換えに、食べる楽しみは失われる。朝食をバナナとヨーグルトに置きかえたり、夕飯にサラダチキンを加えたりして、何とか変化をつけようとしても限界はある。栄養不足に陥っていたのであろう、身体が常に重く、血の巡りも悪かった。
我慢できず、時おりコンビニのホットスナックを買い求めた。店を出てすぐ食べた。貪るようにしたから、あまり味は覚えていない。ある程度の余裕がなければ、味わって食べることも出来ないのだ。
肉にありついた喜びより、一瞬で胃袋におさまってしまった物足りなさが勝った。大して満足感が得られぬものに200いくら使ってしまった後悔も、家計簿を入力すると湧いてきた。西友で卵10個入りが約300円、冷凍うどん3食入りが約200円、納豆なら3パックひとセットで90円。肉ひとカケと同じくらいの金で、数日分の卵や納豆が買えた。爪に火を点すようなやりくりが、私を自炊の楽しさから遠ざけた。
恋人のおかげで、一緒に台所に立つことは楽しくなった。自分ひとりの炊事には、まだ結構な気力が要る。必要経費と割りきって店屋物に頼るか、自炊を楽しめるようにするか、苦痛でない自炊の許容範囲を探すか。選択肢はこの三つだ。私としては最後の道が、もっとも健全であるように思う。諦めるのでもなく、無理に前向きになろうと気負うのでもなく、快さを損なわない、不快を感じない境界を探るのだ。
料理研究家の土井善晴先生の著書、『一汁一菜でよいという提案』は、この点で大いに参考になった。
具だくさんの味噌汁(一汁と一菜を兼ねる、オールインワンの献立として提案されている)を作る挑戦を3ヶ月ほど行った。しかし、節約と面倒がりのために肉を入れなかったので、菜食主義者のような食生活になり、4キロ痩せてしまった。
土井先生はしっかりと、足りなければ米や味噌汁をおかわりしてください、と書いてくれているが、弁当ゆえ出来なかったのである。日によって3時間以上歩くような仕事に就いていることも、痩身に拍車をかけた。条件が悪かったのだ。挽き肉とか豚の薄切りとか、簡単に火の通る肉を入れてカロリーを上げるか、もう一品惣菜を買うかして調整するのがよいと思う。食べものが高いのでどうしても、財布の紐は硬くなるけれど……。
具だくさんの味噌汁は、私ひとりの時でも作れる、ぎりぎりの簡単さを持っていた。取らずとも食べられる野菜の皮やヘタは剥かない、気楽さも学んだ。人参や大根の皮むきに、ほんのわずかなムリが潜んでいた。
『一汁一菜でよいという提案』は、他にも多くの示唆を含む著作で、もう一度読んだらしっかりと言及するつもりである。平易な言葉で、ありきたりなことが書いてあるようだけれども、分からないところがある。身体に落とし込んで書いている著者と、頭で意味だけ理解した私との差を感じた。
快/不快の閾値に話を戻すと、具だくさん味噌汁は、今の私にとって、泊まり明けに作るにはひと仕事である。
本当はすぐ床に就きたいが、腹に何か入れておくと、多少寝起きが良いのである。帰りの電車でコックリコックリ船をこぐような状態で自炊をするのは、私には不要な頑張りと思える。「ちゃんとしていること」を自分のうちに、他人に見せつけているように感じられる。まっすぐでないものがある。
先月の半ばから、レトルトのパスタソースを買い溜めておくようにした。麺を茹でて、混ぜくるだけだ。「キューピー あえるパスタソース」シリーズの、納豆とフォン・ド・ボー風ミートソースが気に入っている。学生時代にも世話になっていた。簡単で、美味しくて、経済的である。
そう思っていたが、値段を見て、時の流れというのか世知辛さというのか、改めて物価高の現状を思い知らされた。私の記憶が確かなら、キューピーのパスタソースは、200円せずに買えたのだ。いまや250円する。4食で1000円となると、少し考える。しばらく続けるうちに、栄養面の問題や、手づくりの味への慕わしさが生じてくるかもしれない。素パスタを作る時が、私にも近づきつつあるのだろうか。
